農業環境技術研究所
昆虫標本館
NIAES Insect Museum
 

昆虫標本館の概要

はじめに

昆虫は農業環境を構成する重要要素のひとつであり,その分類研究は,昆虫に関するあらゆる研究の基礎である。農業環境技術研究所昆虫分類研究室では従来より農業害虫,天敵,花粉媒介昆虫など農業と関係する昆虫類を中心として分類研究を行ってきたが,最近では農業の生産場面だけではなく農業環境全体に関わるものに研究対象を広げようとしている。

昆虫標本と言えば,チョウ,トンボ,クワガタなどの大形美麗昆虫や珍奇昆虫などを展示するためもの,もしくは単なる趣味として集められたものと考えられがちであるが,当標本館の標本はそのような意図で収集されたものではない。標本は基本的には形態情報に基づく分類研究の材料とするため,あるいは種の同定の参照標本とするために保管されている。さらに形態情報以外にも,その昆虫の分布や食性,発生時期,採集当時の環境条件,DNAなど,標本から抽出できる情報は多岐にわたり,工夫次第で様々な研究に利用することが可能である。昆虫標本館では,これまで長年にわたって収集されてきた昆虫標本を保存しており,その数は現在約120万点にのぼっている。

標本館の標本収容能力と現状

昆虫標本館には明治32年に農事試験場に昆虫部が設立されて以来の標本が蓄積されている。1950年(昭和25年)の機構改革により農事試験場は農業技術研究所となり,同時に当研究室の前身である昆虫分類同定研究室が新設された。当時は標本を保管するための部屋が設けられていたわけではなく,標本箱は研究室内に同居していた。1979年(昭和54年)の筑波学園都市への移転に際して別棟の病理昆虫標本館が建てられ,昆虫分類研究室と改名された当研究室がその管理を行ってきた。病理昆虫標本館の内部は病理関係と昆虫関係のスペースに分かれており,昆虫関係部分は昆虫分類標本室3室,昆虫液浸標本室,タイプ標本室,生態・依頼同定標本室など380m2の広さをもつ。1993年(平成5年)には病理昆虫標本館に隣接して環境資源分析センターが建てられ,その2階に新たに220m2の昆虫標本保存室が設けられた。

現在,昆虫標本館には大型ドイツ型標本箱44個が収納できる標本ロッカーが248台設置されている。他にもタイプの異なる標本ロッカーがあり,また研究本館の研究室にも若干の標本ロッカーがあるので,それらを含めると全体で約12,000箱の標本箱を収納できる設備がある。1箱あたり平均150点の標本を納めると仮定すると約180万点の標本を保管できることになる。現在既に約7,000箱に標本が納められており,現有の乾燥標本数は100万点余りと推定される。

上述の標本以外に,紙包み(三角紙)に入った状態の標本も多数保有しているが,その実数は明らかでない。これらについては順次標本作製を行う予定であるが,毎年新たに採集されたり寄贈される標本の処理に追われ,三角紙標本の整理はなかなか進んでいないのが現状である。また身体の軟らかい昆虫を保存するためのアルコール液浸標本も保存している。液浸標本室にはチョウ目やハエ目を主体とする幼虫標本が多数保管されているが,その正確な数は現在のところ把握できていない。さらにアブラムシやカイガラムシ,アザミウマなどの微小昆虫は顕微鏡で検鏡するためのプレパラート標本として保管されている。やはり正確な数は不明であるが,プレパラート100枚入り収納ケースで約600箱,25枚入ケースで約80箱が保管されている。

以上の乾燥標本,三角紙標本,液浸標本,プレパラート標本のすべて合わせると,所蔵標本の数は約120万点にのぼると推定され,現在も毎年約2万点ずつ増加している。

所蔵標本の内容

標本館には様々な特徴を持つコレクションや標本シリーズが保存されている。その主なものについて説明する。

(1)所蔵コレクション:所蔵標本には研究室歴代のスタッフが自ら研究対象とする昆虫群を長年にわたって収集したもののほか,外部の研究者から当標本館に寄贈されたコレクションが多く含まれる。これらのコレクションは,それぞれの研究者が自らの専門分野を中心として特定の目的を持って集めたもの,あるいは特定地域の昆虫相を反映したものが多く,研究材料としてよくまとまっており,学術的にも価値の高いものである。表1には現在所蔵している主なコレクションを示した。★印のものは最近5年間に新たに寄贈されたものである。中島秀雄,佐藤力夫,杉繁郎の各コレクションについては現在も順次標本を移管中で今後さらに点数は増加する予定である。

(2)ホロタイプ標本:ホロタイプ標本は新種が初めて記載された際に指定された単一の標本で,その種の種小名を担うと定められたものである。分類研究を進める上では必ず参照しなければならない重要な標本であり,またそれぞれの種にただ1個体しか存在しない極めて貴重な標本である。標本館には現在のところ500種あまりのホロタイプ標本が整理されているが,それらは不慮の災害から守るため耐火・耐震構造をもつタイプ標本室の頑丈な標本ロッカーに入れられて保管されている。また一般標本の中にもまだ多数のホロタイプ標本が気付かれないまま紛れ込んでいるものと考えられ,それらについても今後早急に探索し,タイプ標本室に移す必要がある。既にタイプ標本室に移されているホロタイプ標本を分類群別に見ると,甲虫目が最も多く217種,次いでハチ目104種,ハエ目82種,カメムシ目57種,その他の順となっている。これらのホロタイプ標本については学名,和名,採集データ,記載文献情報が 既にデータベースとしてまとめられている。今後は各ホロタイプ標本の画像情報を付け加えて有用な分類情報データベースを作成し,インターネットを通じて世界に提供することを計画している。

(3)同定依頼標本:外部の機関から毎年多数の同定依頼の要請がある(表2)。都道府県の農業試験場や民間会社から依頼されるものが多く,そのほとんどは農業害虫や不快害虫であり,最近では食品に混入した昆虫が増加している。同定依頼の標本は,今後同様の依頼があった場合の参考とするため,同定終了の後も依頼者へは返却せず標本館で保管することを基本方針としている。そのため年々多数の標本とその発生状況に関する情報が蓄積されつつあり,その量は現在ではかなり膨大なものとなっている。長年にわたって蓄積されたこれらの標本と情報を有効に活用するため,蓄積情報のデータベース化を現在進めているところである。

(4)証拠標本:研究成果を論文等に発表した場合,そこで扱った材料を証拠標本(voucher specimen)として保存しておくことが望まれる。生物種の同定には間違いが起こりうるものであり,疑いが生じたときには再調査しなければならない。また分類研究の進展によって当時1種と思われていたものが後年複数種に分割されることも珍しくなく,研究材料の再同定が必要になる場合がある。そのような状況に対応するためには,研究で扱った材料を公共の標本館等で保存しておく必要がある。最近では証拠標本の保存を論文受理の条件としている学術雑誌もある。以上の観点から当標本館では要請があれば証拠標本の保存を受け付けている。我が国ではまだ証拠標本の必要性に関する認識が低く受付件数は多くないが,野外調査のサンプルや交配実験で得られた個体などが保存されている。

標本館の利用状況

研究室スタッフが利用する標本は所蔵標本の一部であり,スタッフによる利用だけでは約120万点の所蔵標本の価値を十分に生かし切れるものではない。そこで希望があれば外部の研究者にも利用を許可し,所蔵標本や文献類の効率的利用を図っている。表3には標本館に直接来訪した最近6年間の利用者数を示した。外国人も含めて毎年20〜50名の利用があり,中には3週間以上に及ぶ長期利用の例もある。これらの長期利用は流動研究員制度や依頼研究員制度,国内の各種研修制度,外国人研究者の各種招聘制度によって滞在した研究者によるものである。それぞれの分類群の専門家に標本利用の便を図ることは,所蔵標本の分類・整理を進める上でもメリットが大きい。

また研究のための標本の貸し出しは公的な標本保存機関の責務であり,標本の有効利用を図る上でも重要である。毎年10〜20件の貸出依頼があり,貸出標本数はホロタイプ標本を含めて毎年数百〜数千個体に及ぶ(表4)

おわりに

現在のところ,昆虫標本館の所蔵標本はチョウ,甲虫,ハチ,ハエ,バッタ等の目(order)レベルで大まかに整理されており,部分的にはさらに科(family)レベルもしくは属(genus)レベルまで整理され配列されているが,全体的に見れば分類体系に沿った整理は極めて不十分な状態である。所蔵標本から特定のグループの標本を探そうとする場合,現状では上述のコレクションの中からその情報に頼って探索することが多く,それ以外の場所に納められている標本については,ひとつひとつの標本箱を確認していく以外に方法がない。そのため,価値のある標本が未発見のまま埋もれてしまっていることも少なくないと考えられ,折角多数保管されているにもかかわらず,それらの標本や標本情報が十分に生かされているとは言い難い。所蔵標本とその情報を有効に活用するためには,標本の分類と整理を早急に進め,少なくとも科もしくは上科(super family)レベルまで分類・整理し,そこに含まれる標本を個別にデータベース化し,簡易に検索できるシステムを構築する必要がある。

問合せ先

農業環境インベントリーセンター 昆虫分類研究室 安田耕司
電話/FAX:029-838-8354,E-mail:kyasuda@niaes.affrc.go.jp(半角に直してください)

表. 1 昆虫標本館の主要な所蔵コレクション(50音順)

寄贈者または研究者 コレクションの内容
石井 悌 コバチ類を種とした寄生蜂と東南アジアの昆虫
井上 寛 シャクガ科およびメイガ科の標本657点
岡崎常太郎現在では採集不可能な東京産昆虫など
於保 信彦甲虫・チョウを主とした世界の美麗昆虫
勝屋 志朗寄生性ハチ目を中心とした標本約17500点
加藤 静夫ハエ目標本シリーズ
河田 党ガ類の成虫および幼虫標本約1万点
熊沢 誠義北アルプスの高山昆虫を中心とした標本
熊沢 隆義国内外の甲虫標本約5000点
黒沢三樹夫アザミウマ目のプレパラート標本と関連文献(タイプ標本61点を含む約5000点)
桑名伊之吉カイガラムシ上科のタイプ標本を含むプレパラートおよび乾燥標本約5000点(横浜植物防疫所より移管)
桑山 覚南千島産昆虫およびウスバカゲロウ目,シリアゲムシ目の標本(タイプ52点を含む3200点,北海道農業試験場より移管)
佐藤 力夫ヤガ科を中心とした鱗翅目標本約8400点
素木 得一ハナアブ科,ミバエ科およびアブ科のタイプを含む標本
杉 繁郎ヤガ科およびシャチホコガ科等のタイプを含む鱗翅目標本約29000点
高橋 弘ブユ科およびアブ科の標本および関連文献
常木 勝次アリ類標本約2万点
寺山 守アリ科のタイプ標本シリーズ
中島 秀雄シヤクガ科,スズメガ科等の鱗翅目標本約18000点
新島 善直食材性甲虫キノコムシ類,キクイムシ類の標本数千点
野淵 輝国内外の食材性甲虫キノコムシ類,キクイムシ類のタイプを含む標本約5万点
長谷川 仁カメムシ類を主とした標本
服部伊楚子熱帯アジア産を含む鱗翅目幼虫の液浸標本
土生 昶申ゴミムシ科およびアシブトコバチ科のタイプ340種を含む標本シリーズ
早川 博文日本産アブ科のタイプを含む標本
福原 楢男ハエ目およびバッタ目の標本
藤村 俊彦日本および東南アジア産カミキリムシ科および他の昆虫数万点
古川 晴男中国大陸産を含むバッタ目昆虫
南川 仁博茶の害虫とその寄生蜂など約2万点
湯浅 啓温ハムシ科を主とした昆虫

- Top -