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54.筑後平野(福岡)

時空駆ける筑後平野の農業

 <1986年5月12日観測画像>

福岡県の人口は470万人余で,5千平方キロという狭い面積のなかにほぼ北海道に匹敵する人間が住んでいる。画像の左上には博多湾と福岡市が撮っているが,JRの駅名は博多といい,ここは古来より中国,朝鮮から日本への文化の受入口であった。ここから右下へ延びる市街地の先に菅原道真公を祭る太宰府天満宮があり,修学旅行生と見物客がひきもきらない。画像でも九州自動車道が見てとれるが,これに乗って鳥栖インターから長崎自動車道に入るとすぐの山麓に環濠集落として全国から注目を浴びている吉野ヶ里遺跡がある。最近では水田の水路と畦畔跡が発掘されるなどして,私共農学研究者の浪漫は尽きない。この吉野ヶ里遺跡,現在では平野の真中であるが,時空を超えた弥生の時代は吉野ヶ里から久留米を結ぶ地帯までは有明海であったという。

この2千年の間に筑後平野を産んでくれたのが画面中央をおだやかに流れる筑後川である。大分・熊本両県にまたがる久住・阿蘇連山にその源を発する筑後川は日田の杉林を涵養しつつ,筑後平野を一気に駆け下る。九州の暴れん坊どころではない。のた打ち廻る龍にも例えられるこの川はかなり複雑に蛇行した旧河川が福岡と佐賀の県境となっているため両岸には飛び地が多く,筆者の故郷も福岡県の飛び地の一つである。それにしても幼い頃の筑後川の洪水と言ったらなかった。とりわけ昭和28年の梅雨末期の大洪水は九州の気象極値を全て塗り替え,今後も破られることはないであろう。堤防で囲まれた輪中集落の外を家が流れる,牛馬が流れる,タンスが流れてそのまま有明海にまで至っていく。7才の幼な心にも強烈な印象となって忘れ難い。古代からのこのような洪水で筑後平野は確実に面積も拡大しつつ,地味も豊かになって,天候が幸いすれば驚く程の生産力を発揮する。何の作物でも無理なく作れる。米麦・大豆は全域に,筑後川上流域は柿と巨峰(ブドウ)の大産地であり,中流域は万能ネギなど露地野菜作地帯であり,イチゴも多くなる。下流域ではメロンが多く,ミカンは山沿いに,お茶は丘陵にと漏れなく分布している。そして北原白秋を生んだ有明海への出口の柳川ではイグサが作付けされており,このイグサは画像左下の小さな黒点となって見てとれる。さらに右中央に両側から山が迫っている日田スギの美林は伐採されて,その昔筏を組んで筑後川を流し,下流の水がよどむ大川で貯留されたので,大川市は全国屈指の家具産地の都市となった。歴史と文化とそして夢とを,この筑後川が育みながらたゆまず運んでくれた。悠久の自然の営みを思うたびに,人間の術の少なさをみる。そして平成3年の9月には,たった2週間のうちに台風17・19号という百年に一回の2大台風が襲来した。とてつもない台風で当地域の農業被害額は2千億円に及ぶという。東北地方などに較べれば,恵まれすぎた西南暖地の九州農業には背筋をピンと伸ばす良い経験であった。

数年前,この筑後平野で産出される鶏もよけて通るような鳥またぎ米の酷評をうけて,日本で最もまずい米となっていた。しかしこの3年間のうちにヒノヒカリ,ユメヒカリという中晩生の極良食味新品種が育成され,さらにこれら新品種の良食味特性を極力維持して劣化させないプレハーベスト(栽培管理),ポストハーベスト技術のシステムを確立して,南西暖地とりわけ九州産米の倦士重来を期している。吉野ヶ里の古代ロマンと共に九州地域の農業研究陣営が久々に飛ばす大ヒットである・・・期待して止まない。

執行盛之(青森県農業試験場)

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