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情報:農業と環境 No.104 (2008年12月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

化学肥料の功績と土壌肥料学

1. マルサス『人口論』の現在的評価

今から210年前の1798年に、イギリスの経済学者T・R・マルサスは有名な 『人口論』 を発表し、人口増加に食料生産が追いつかないことを警告して、ヨーロッパ社会に大きな衝撃を与えた。このマルサスの理論は、当初は多くの知識人から注目されたものの、そのうち強烈な批判を浴びることになる。

最初の批判者は 『資本論』 の著者K・マルクスである。マルクスは 「過剰人口よりも、資本主義社会における資本の作用と富分配の不平等こそ貧困の原因」 とし、さらに 「耕作されつくした土地はまだどこにもなく、食料生産も技術進歩により限界は遠い」 として社会主義の原理からマルサス人口論を批判した。一方、資本主義経済の理論的牽引(けんいん)者の一人であったJ・M・ケインズは、最初はマルサスを支持したものの、その後、「市場原理の導入や物質輸送技術の進歩により、人口と食料の問題は解決される」 として人口論を否定した。

世界の経済学の二大潮流からともに批判されたマルサス人口論は、この200年あまり、経済学的にはほとんど評価されることもなく、影をひそめていた。

しかし、世界の人口増加と、これを支える地球の生産力の限界が問題となってきた今世紀には、マルサスの命題の妥当性が再認識されるようになってきた。社会主義経済が失敗に終わり、資本主義経済もぐらついてきた現在、新しい経済システムの模索が始まる。その時、「人口と食料の問題」 は再び浮上してくるのである。

2.化学肥料の発明と人口爆発

マルサスが憂慮したように、産業革命以降の世界の人口は急激な増加を始める。世に言う“人口爆発”である。イギリスで起こった産業革命から現在までの250年間で、ヨーロッパの人口は10倍に増えた。アメリカも、ヨーロッパなどからの移民が多く、同じく10倍に増えた。そしてこの日本も、明治維新後の140年間で、人口は4倍近くにふくれ上がった。この結果、世界の人口は、マルサス人口論の時代は10億人ほどであったのが、今や67億人を越え、開発途上国を中心にまだまだ増加の一途をたどっている。

ただ、これまでの先進国の人口増加と食料供給をみる限り、マルサスの警告はほとんど外れているように感じられる。それはなぜか?

それは、この200年の国際社会が、人口増加を、産業革命以来の科学技術による食料の増産とその輸送によって克服して来たからにほかならない。とくに農業にあっては、新しい土地の開拓(移民など)、化学肥料の発明、新しい耕作法や品種の開発、新たな潅漑(かんがい)法の開発などが、一時的な食料不足の問題をつねに解決してきた。その意味では、マルクスやケインズのマルサス批判も、一面では正しかったと言わざるをえないだろう。

そして、化学肥料の発明が食料増産に果たした役割はきわめて大きいのである。世界最初の化学肥料の生産は、イギリスで1840年代に、過リン酸石灰の製造が試みられたころにあるとされている。世紀が変わって1909年には、ドイツの化学者F・ハーバーが空気中に無尽蔵に存在する窒素ガスからアンモニアを合成する実験に成功する。この功績により、ハーバーは1918年にノーベル化学賞を受賞している。その後、ハーバー法の改良に挑戦したK・ボッシュは、高圧化学の技術を用いてアンモニアの大量生産に成功する。この功績により、ボッシュもまた1931年に、技術者としては最初のノーベル化学賞を受賞している。この二人の科学者の名前に因(ちな)んで、空中窒素から窒素肥料を作る技術を「ハーバー・ボッシュ法」と呼ぶのである。

その後さらに、化学肥料の製造技術は多くの研究者によって改良され、より品質のすぐれた安価な肥料が生産されるようになる。そして、これらの化学肥料の利用により、ヨーロッパやアメリカ大陸の農作物の生産量は急速に伸びてゆくのである。20世紀の増加する人口をカバーするに足りる食料の生産量を確保することができた。

3.日本における化学肥料の生産と研究

明治時代に、日本でも化学肥料の生産と肥効試験などの研究が開始された。明治20(1887)年、タカジアスターゼの発明で有名な高峰譲吉が、実業家の渋沢栄一から支援を得て「東京人造肥料会社」を設立した。高峰は、自らが社長兼技師長となって、日本最初の化学肥料製造の指揮を執ることになる。この会社は、現在の江東区大島1丁目にあった。都立科学技術高校の横に小さな釜屋堀公園があり、その一角には「化学肥料創業記念碑」と「尊農」の碑が建てられている(写真1)。

化学肥料創業記念碑に刻まれた構図(左)と尊農碑(右)(写真)

写真1 化学肥料創業記念碑に刻まれた構図 (左) と尊農碑 (右)
釜屋堀公園(東京都江東区大島1丁目)にて、筆者撮影

東京人造肥料会社では、まず過リン酸石灰の製造から始めた。日本には、作物のリン酸欠乏が出やすい火山灰土壌が多かったからであろうか。写真1の記念碑の構図を見ても、リン酸の肥効が一番高いように描かれていることは興味深い。

また尊農の碑には、化学肥料工場を設立した背景と意義が格調高い漢文調の文章で刻まれている。この大要を、現代文に直すと次のようになる。

(前略)我が国運の躍進は、必ずや人口の激増を来たし、食糧問題は日本の緊要案件になることを洞察し、農業の発達と肥料の合理的施用により、これが増収の解決策となるという決意のもとに(中略)・・・化学肥料製造の事業は(中略)・・・農業生産の飛躍的増収に絶大なる貢献をなすに至った。(後略)

この化学肥料製造工場は、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊したため、操業を中止することになるが、日本における化学肥料製造の先駆けとして果たした役割は大きい。

一方、明治26(1893)年に、農商務省農事試験場(本場および6支場)が設立され、化学肥料の肥効試験が始まる。明治28(1895)年から5カ年間にわたって、全国各地の農耕地土壌について肥料三要素(窒素、リン酸、カリ)試験が実施され、科学的なデータの収集が行われた。その後も土壌肥料に関する試験研究は脈々と続けられ、わが国の食料増産に向けて大きな実績を残したのである。

農事試験場は、昭和25(1950)年に農業技術研究所と改称し、さらに昭和55(1980)年には東京から茨城県のつくばへ移転する。跡地となった滝野川公園(北区西ヶ原2丁目)の一角には、「農業技術研究発祥の地」の記念碑が建てられている(写真2)。

農業技術研究発祥の地の記念碑(左)と碑文(右)(写真)

写真2 農業技術研究発祥の地の記念碑 (左) と碑文 (右)
滝野川公園(東京都北区西ヶ原2丁目)にて、筆者撮影

4.化学肥料は「悪」か

日本では“化学肥料は悪”という概念が一部に根強く、有機農業を信奉する団体などから化学肥料が敬遠されがちである。その論拠の一つに、下記の新聞小説『複合汚染』があるように思われる。

朝日新聞の小説欄に、有吉佐和子の『複合汚染』が連載されたのは今から30年以上前の1974年である。その後この小説は、単行本や文庫本としても出版され、日本の社会と農業に大きな影響を与えた。この本には、農薬とともに化学肥料への批判が随所に出てくる。しかし、それらの化学肥料批判は、そのほとんどが著者の思い込みであり科学的根拠に乏しいものである。

たとえば、「化学肥料をまけば、土がカチカチの固まりになってしまい、ミミズが死に土も死ぬ」、「化学肥料で育てた稲の種籾(たねもみ)は発芽が悪い」、「化学肥料を使ったリンゴは堆肥で育てたリンゴより味が悪い」、「化学肥料で育てた野菜が持っているビタミンは堆肥で育てた野菜の半分もない」などである。

有吉氏は、『複合汚染』執筆のために300冊以上の本を読み、数十人の専門家などと面談したと、単行本のあとがきに書いている。しかし、それらの取材の中で、氏は自分の論調に都合のよい部分だけをつまみ食いしているように思われる。さらに窒素肥料については、化学兵器(火薬)としての硝酸カリと結び付けて、その化学的危険性を暗に指摘している。これなどには、化学肥料を危険視する方向に読者を誘導しようという著者の意図が感じられるのである。

この『複合汚染』以後、国民の一部はその呪縛(じゅばく)(マインド・コントロール)にかかってしまい、化学肥料を敵視して有機質肥料のみを尊重するようになる。最近になって、土壌肥料学の立場から、かつての『複合汚染』の論調に異議を唱える論文が多数出てきた。また日本土壌肥料学会は『肥料をかしこく使おう!』という小冊子を作って、一般市民への化学肥料の説明に努力している。思い込みや誤解を解くには、長い時間と大変なエネルギーが要るようである。

化学肥料と有機質肥料には、それぞれ長所と短所がある。化学肥料の長所は、少しの量で大きな増収効果が期待できることである。有機質肥料の長所は、肥料としての効果以外に、土壌を軟らかくしたり緩衝機能を高めたりすることにある。しかし、いずれの肥料も過剰に施用すれば、問題を引き起こす。化学肥料では、土壌の酸性化や環境汚染の問題が生ずる。一方、有機質肥料のみで農産物の高い収量を得ようとすれば、かなりな多量施用が必要となり、これまた環境汚染につながってしまう。

このようなことから、現在では、化学肥料と有機質肥料を適度に組み合わせて施用することが、作物生産にも環境保全にも効果的とされている。

5.農業の軽視は危険

昭和30年代には約80%を確保していたわが国の食料自給率は、今や40%を切るところまで低下してしまった。このレベルは先進国では最低である。一方で、輸入食料づけによる飽食も続いている。世界の農業情勢を見た場合には、こんなことで果たしてよいのだろうかと心配になる。今こそ、国内の農業生産を上げる準備を急ぐ必要があるのではないか。

アメリカ農務省の発表によれば、世界の食料不足人口は、2006年に8億4900万人だったものが2007年には9億8200万人に増え、2017年ごろには12億人を超えると予想している。また同省は、世界の穀物在庫が2000年の30%強から2007年には16%に急落し、さらに低下傾向が続いているとも発表している。このような食料問題の国際情勢の中で、日本の食料輸入は今後も維持できるのだろうか。

このような危惧(きぐ)を反映して、2008年に「100年持続可能社会学会」というユニークな学会が発足した。この学会は、既存の専門学会と異なり、自然科学と人文社会科学の真の統合を目指している。そして、まさに「人口と食料の問題」を中心テーマにすえているのである。

この半世紀くらいは、日本の農業や農学研究にとって“秋から冬の時代”だったように思われる。食料供給産業としての農業の地位(評価)は下がる一方で、農村の疲弊も甚だしい。また農学研究は、大学や国・公立研究機関とも、縮小されたり、あるいは食料の確保とはほど遠い分野へのシフトを余儀なくされたりしてきた。

しかし、歴史は繰り返すのである。自分たちの食べる食料は、最大限自分の国で作る時代がまた近づきつつある。日本のそして世界の平和を守るためにも、土壌肥料学も含めた農学研究の出番である。そして経済学や社会学など他の専門分野との連携も、これからの大きな潮流となるであろう。

参考文献

『人口論』; マルサス[長井義雄訳](中公文庫)1973

『マルサス人口論の200年』; 岡田 實・大淵 寛編(原書房)2004

『科学・技術人名事典』; 都築洋次郎編著(北樹出版)1986

『科学者人名事典』; 科学者人名事典編集委員会(丸善)1997

『複合汚染』; 有吉佐和子(新潮文庫)1979

『肥料をかしこく使おう!』; 日本土壌肥料学会広報委員会編(日本土壌肥料学会)2008

『土と人のきずな』; 小野信一(新風舎)2005

100年持続可能社会学会: http://www.lec.ac.jp/uppdf/080609gakkai1.pdf (最新のURLに修正しました。2014年12月)

(土壌環境研究領域長 小野信一)

土壌肥料学にかかわるエッセイ(8回連載)

朝日長者伝説と土壌肥料学

司馬史観による日本の森林評価と土壌肥料学

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化学肥料の功績と土壌肥料学

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