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情報:農業と環境 No.109 (2009年5月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

本の紹介 269: iPS細胞 ―世紀の発見が医療を変える (平凡社新書431)、 八代嘉美 著、 平凡社(2008年7月) ISBN 978-4-582-85431-2

生物個体の話であるが、受精卵という一つの細胞から始まり、200種類に分化して身体の様々な部位でそれぞれの機能を果たしている細胞の有様は、さまざまなレベルの生態系における生物個体の環境適応や機能の分化、ひいては生きざまに通じるものがあるようにも思う。銀河系の星の数よりも多い60兆個の細胞からなる人間の身体は、正に小宇宙と言えよう。

iPS細胞は現在日本が世界をリードできる分野としてもっとも注目されているものの一つであり、本書は 「幹細胞生物学」 について、細胞の分化の仕組みやES細胞、幹細胞、iPS細胞の成功から再生医療の展望まで、わかりやすく記述されている。著者は大学院博士課程在学中で、この分野については専門に近いと言えようが、同時に医科学の発展にともなう生命観、社会意識の発展にも興味を持っているといい、生命の神秘という知の追求とそれにまつわる倫理、経済、価値観という、先端科学が抱える本質的な問題についても問いかけている。

iPS細胞 (Induced Pluripotent Stem Cell: 人工多能性肝細胞) の名前は多くの人が知っており、「再生医療」 との関連で将来的には臓器移植の抱える問題が解決するのではないかと期待を抱いている。2007年11月21日、新聞各紙はヒトの皮膚から万能細胞という見出しをいっせいに掲げ、数日中には米国のブッシュ大統領やローマ法王庁も歓迎のコメントを発表した。またこの分野は世界中がしのぎを削る競争のまっただ中にあり、山中伸也教授の成功で日本が先んじたものの米国が急追しているとされている。

iPS細胞は、大人の身体からとってきた細胞を出発点に、人間の身体を構成するさまざまな種類の細胞を作り出すことができるという。受精卵が分裂し、やがて胚(はい)が栄養外胚葉と内部細胞塊に分かれた後に内部細胞塊から取り出して培養した細胞がES細胞であり、あらゆる細胞を作り出す能力を持っている。しかしヒトES細胞はヒト胚を壊さなければならないため、最初から倫理的な問題がつきまとっていた。iPS細胞はこの点をクリアできることから、ES細胞に代わって再生医療研究の中心と期待されている。

1つの受精卵は人間の身体を構成する20種類もの細胞に分化できるが、いったん分化してしまうと他の細胞に変わることはありえない。これは、ゲノムがメチル化されることで転写が起きなくなるからである。クローンは分化した細胞の核を卵子に移植することで、このいわばカギがかかった状態をはずしてしまう技術である。すなわち、卵子は染色体にかかったカギをはずして初期化する能力を持っていることになる。大人のヒツジの乳腺細胞と核を除いた卵子に電気ショックを与え、物理的に融合させ、代理母に移植して誕生した1頭のヒツジ、ドリーにより、クローンは一躍注目を浴びたが、その成功頻度はきわめて低いことが明らかになっている。

iPS細胞が登場する前からES細胞やクローン技術、幹細胞を用いた研究が行われてきた。そして山中教授らは、ES細胞が未分化な状態を維持しながら増殖するのはES細胞だけが持っているタンパク質の働きによると考え、ついにその4つの遺伝子を特定し、iPS細胞の作出の成功に至る。

この成功がすぐさま再生医療への応用につながるというわけにはいかないが、克服すべき課題はいずれも技術的なものであり、人の手と時間が解決していくと著者は言う。そして、そのときこそiPS細胞は医療の概念を変え、個人の暮らしはもとより社会のあり方も変えることになると予測する。

iPS細胞開発の背景、幹細胞にまつわる様々な科学的情報、今後の展望まで、必要な情報は盛り込みながら平易に解説されており、「幹細胞生物学を人々に触れやすい形で示したい」 という著者の意図は果たされていると言えよう。またそれぞれの章は、「この章では」 に始まり、最後に 「まとめ」 があり、一章ずつ理解を積み重ねながら読むことが出来るよう、工夫されている。

目次

1章 “ES細胞” は生命の起源にさかのぼる―一つの細胞からさまざまな臓器へ

2章 細胞が先祖返りしないわけ―なぜ万能性は失われていくのか?

3章 なぜ身体は古びないのか?―幹細胞は眠り、そして目覚める

4章 再生はいつも身体で起きている

5章 再生医療の時代へ

6章 iPS細胞が誕生した!

7章 再生医療レースのはじまり

8章 再生する力で人工臓器をつくる

終章 “知” がヒトを変えていく

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