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情報:農業と環境 No.117 (2010年1月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

農地における生物多様性保全の最前線、イギリスにおける研究活動 (2008年9月〜2009年9月) の報告

イギリスの農地景観:菜種畑(写真)

写真1 菜種畑

1999年に Nature 誌で発表された論文、The second Silent Spring? * を初めて読んだときの衝撃は、いまでも鮮明に覚えています。イギリスの農地景観 (写真1) で、かつては当たり前に見られた鳥類が、農業活動の変化によって近年軒並み減少していることを報告した論文でした。その後の10年間、イギリスを中心とした西ヨーロッパ諸国では、農業活動の変化が生物多様性に及ぼす影響について星の数ほどの研究が行われ、その成果は農業環境保全施策など実際の政策にも反映されてきました。

ケンブリッジ大学(写真)

写真2 ケンブリッジ大学動物学部

私はと言えば、次々と発表される論文を遠く離れた日本で読む以外には、この急激な研究の流れを知る術(すべ)がなく、もどかしい思いをしていましたが、2008年9月から1年間、研究所の職員派遣制度を利用してイギリスのケンブリッジ大学 (写真2) に滞在する機会を得ました。ここでは滞在中にとくに印象的だった点について簡単に紹介させていただきます。

イギリスを始めとする西ヨーロッパ諸国では、1970年代からの農業の近代化にともなう化学肥料・農薬投入量の増加、作物の変化、ヘッジロー (生け垣)(写真3) の減少、ほ場の乾燥化などが、ハタホオジロ (写真4)、オオジュリン (写真5)、キアオジなど農地に生息する鳥類が近年大きく減少した原因として示されてきました。その一方で、おもに発展途上国では、食糧需要の増加にともなう農地の拡大が、森林などの自然環境に生息する生物の多様性にとって大きな脅威となっています。今回の滞在で在籍したケンブリッジ大学動物学部の保全科学グループでは、多くの研究テーマのひとつとして、こういった国内外の農業と生物多様性が抱える問題を対象とした研究に取り組んでいます。

研究室の教官や学生の研究内容でとくに印象的だったのは、農業活動の近代化や農地の拡大を人間にとって欠かせない経済活動としてとらえ、その上で生物多様性保全との両立をめざしていることでした。たとえば、私の受け入れ教官であった Sutherland 教授は、鳥類個体群の動態を表すモデルに社会科学的なモデルを統合することで、作物の市場価格が農業従事者の意思決定を介して鳥類に与える影響を予測するプロジェクトに取り組んでいます。同じ保全科学グループの教官である Green 博士と Balmford 教授は、さまざまな農地面積と農業集約化の組み合わせにおける食糧生産と生物多様性の関係をあらわす理論モデルを構築し、実証データも収集することで、食糧需要を満たしながら生物多様性を最大化できる農業形態の検討を進めています。「農業と生物多様性保全の両立」と聞くと、当たり前の研究課題であるように感じられますが、当たり前の重要課題に正面から取り組み、科学研究として確立している彼らのスタンスには、その困難さが容易に想像できるだけに深く感銘を受けました

穀類畑とヘッジロー(生け垣)(写真)

写真3 穀類畑を区分するヘッジロー

ハタホオジロ(写真)

写真4 ハタホオジロ

オオジュリン(写真)

写真5 オオジュリン

次に驚かされたのは、広範な研究者ネットワークの存在とその効率的な活用についてです。今回の滞在で、私は研究課題のひとつとして全国モニタリングデータを用いた鳥類の個体数変化傾向の定量化に取り組んできました。この研究分野は、「2010年までに現在の生物多様性の損失速度を顕著に減少させる」 とした 「2010年目標」 の目標年を直前にひかえた現在、とくに重要な分野であると考えられますが、日本国内での取り組みはまだ盛んであるとは言えません。一方、ケンブリッジの周辺には、イギリス国内に生息する鳥類の個体数変化傾向を解析している英国鳥類学協会や、ヨーロッパ各国を対象に同様の研究を行っている英国王立鳥類保護協会 (写真6) などが存在し、ケンブリッジ大学と連携しているロンドン動物学協会では、全世界の脊椎(せきつい)動物を対象として生物多様性の動態を表す Living Planet Index の開発に取り組んでいます。渡英直後から、教官陣の人的ネットワークを介してこうした機関の研究者にアドバイスを求めたり、特別セミナーで発表をさせてもらえたりと、日本国内にいては考えられないような経験をすることができました。

英国王立鳥類保護協会本部(写真)

写真6 英国王立鳥類保護協会本部

影響力の大きい研究を行うためには、アイデア、データ、スキルのすべてが必要となりますが、滞在した研究室でも多くの研究者はそれをすべては持ち合わせていないようでした。豊富なデータを持っていてもテーマ設定に迷う学生は指導教官のアイデアに助けられ、一方で一見実現困難に思えるようなアイデアを持つ学生は、共同研究者から提供されるデータやスキルによってそれを現実のものとしていきます。現在の細分化された研究分野では、自分が欲するデータやスキルを持つ研究者を近くに見つけることは難しいかもしれません。しかし、この研究者ネットワークは日本で考えるよりはるかに容易に国境を越えていきます。私自身も参加した、保全生物学にたずさわる学生のための学会(写真7)や、オランダ・ライデン大学で開かれたワークショップなどで、そしてなにより研究室内でも、国籍の違いは日本国内での出身地域の違い程度に感じられ、そんな雰囲気がとても新鮮でした。こういったネットワークの中に転がる多くの可能性から、将来の指導教官や共同研究者、調査地や研究テーマを見つけるというのは非常に効率的で、優れた研究の発展に大きく寄与している要因のひとつであると感じました。

ケンブリッジ大学で開かれたStudent Conference on Conservation Science(69か国からの参加者による書き込み)(写真)

写真7 ケンブリッジ大学で開かれたStudent Conference on Conservation Science(69か国からの参加者による書き込み)

イギリスを中心としたヨーロッパ諸国における農地の生物多様性保全研究は、現状把握や原因究明に費やした10年を経て、現在では普及した環境保全型農業の効果検証や、経済活動とのトレードオフ評価という新たな段階に進んでいます。そんなヨーロッパから遠く離れた地に戻ってきたいま、あの研究ネットワークとつながりを維持しながらヨーロッパの経験に学び、同時に独自の視点を生かして国内外に発信できる研究をめざしていかなければならないと、決意を新たにしています。

* Krebs et al. (1999) Nature 400: 611-612.

(生物多様性研究領域 天野達也)

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