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農業と環境 No.122 (2010年6月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

本の紹介 288: 害虫の誕生―虫からみた日本史 (ちくま新書)、 瀬戸口明久 著、 筑摩書房(2009年7月) ISBN978-4-480-06494-3

「害虫の誕生」 というのは、「害虫」 という概念の誕生の意味である。害虫と人間の歴史、昆虫研究の歴史を通じ、自然と人間、自然と社会の関係を問いかける。

昆虫研究がその時代の文化や政治の影響を強く受けてきている様が紹介されており、興味深いものがある。とくに戦争の影響の大きさには驚かされる。当農業環境技術研究所の前身である 「農業技術研究所」、さらにはその前身で日本最初の国の農業研究機関であった 「農事試験場」 で行われていた 「昆虫研究」 についても、何か所かで触れられている。研究の流れを中心に、一部を紹介する。

虫による農業被害は原因が明確のように思えるが、害虫という概念が生じたのは近代になってからであり、江戸時代までは虫害は神罰やたたりと考えられていた。その結果、防除は神頼みであり、「虫送り」 といった宗教的な方法が行われていたという。西洋においても、虫は自然発生するという 「虫の自然発生説」 が信じられており、それが否定されたのは17世紀になってからである。

近代になって害虫は排除の対象となり、政府の方針として大規模な根絶が進められることになる。こうした動きを支えたのが、明治期以降、政府によって整備された科学研究体制であり、1893年(明治26年)の農事試験場(当時は農商務省)の設立は中でも重要であった。農事試験場に昆虫部が設立されたのは1899年(明治32年)であり、同時に農芸化学部、病理部なども設立されている。いずれも現農業環境技術研究所の現在の 「研究領域」 のルーツである。

昆虫部における研究は、当初は分類を中心とした基礎的、博物学的な研究が中心で、いわば牧歌的であったという。おおらかで、逆に言えば直接防除技術に結びつくものではなかった。しかし、その後の戦争が、昆虫研究を大きく規定することになる。

明治期以降、日本は一貫してコメの輸入国であったが、第一次世界大戦によって輸入が打撃を受けたのを契機に、政府は食糧増産に力を入れるようになる。そして、農林省は全国規模の害虫研究プロジェクトを開始し、それまでの基礎的(牧歌的)な研究から転換、食糧増産に結びつかないような研究は農事試験場でやるべきではないとして、分類学の研究を禁止さえしてしまう。

戦争と害虫(研究)の深い関係はそれだけではない。毒ガスと殺虫剤も、因縁ともいえそうな関係にある。第一次世界大戦で世界の化学工業を牽引(けんいん)していたドイツと戦うこととなった国は、独自に化学工業を育成する必要があった。日本の化学工業も、第一次世界大戦の影響を受けて発達する。

クロルピクリンは、もともと第一次世界大戦で毒ガスとして用いられたが、シラミや貯蔵穀物の害虫駆除に有効であることがわかり、殺虫剤に転用される。日本では鈴木梅太郎、山本亮といった農芸化学者が開発に携わる。青酸は逆に、殺虫剤として使われていたのが毒ガスへと転用されることになるが、青酸殺虫剤 「サイローム」 を開発したのは陸軍であった。陸軍は毒ガス戦に備えて化学工業を自前で確保する方針を進め、毒ガスの 「平時用途」 の一つとして青酸殺虫剤に目を付けた。そして、「サイローム」 の開発には、農事試験場の研究者たちも積極的にかかわっていたという。

こうした農薬と戦争の関係について、有吉佐和子は 「複合汚染」 の中で毒ガスと農薬、火薬と肥料などのつながりを論じており、殺虫剤は毒ガスと同じ危険な物質だから使うべきでないという主張を支持するレトリックとして使われるようになった。その後の「害虫防除」にとって、不幸な話である。

戦争は、衛生害虫の研究にも大きな影響を及ぼした。戦争を進めるためには(昆虫の媒介する)熱帯病の克服が急務であったため、米国でも日本でも、農業害虫を研究してきた昆虫学者たちが熱帯病を媒介する衛生昆虫の研究に動員され、衛生昆虫学が進歩した。スイスで開発されたDDTは、米国で軍事用として大量生産され、1945年からは農業用にも利用されるようになる。

こうした状況を、著者は(戦争による)応用昆虫学の再編と呼ぶ。国家の大規模予算の投入により科学者たちの研究体制、分野、研究内容も変容する。その結果、新しい殺虫剤が生まれて、害虫をより効率的、大規模に制御することが可能となり、自然と人間の関係も変容していく。「戦争とは自然と人間との関係を大きく組みかえる営み」 と著者はいう。

戦後まもない1947年、GHQはDDTを全国の農業試験場に配布し、ほ場試験を命じる。そして、国や府県の農事試験場では、「薬剤試験」 がその主要な業務となり、害虫担当の職員は膨大(ぼうだい)な試験に日夜追われていたという。

薬剤の多用は殺虫剤抵抗性を発生させ、カーソンの「沈黙の春」で指摘されたように生態系のバランスが崩れ、やがて化学殺虫剤だけに頼らない、総合防除という考え方に進んでいくことになる。

(余談になるが、終戦直後、農業技術研究所の昆虫研究が「薬剤試験」一辺倒であったことは、昆虫科内でさまざまな矛盾を生んだ。その結果、研究の方向(基礎か応用かなど)に関して激しい議論が行われ、農業技術研究所の昆虫研究は方向を転換していくことになる。)

目次

第1章 近世日本における「虫」

1 日本における農業の成立

2 江戸時代人と「蝗」

3 虫たちをめぐる自然観

第2章 明治日本と “害虫”

1 害虫とたたかう学問

2 明治政府と応用昆虫学

3 農民VS明治政府

4 名和靖と「昆虫思想」

第3章 病気―植民地統治と近代都市の形成

1 病気をもたらす虫

2 植民地統治とマラリア

3 都市衛生とハエ

第4章 戦争―「敵」を科学で撃ち倒す

1 第一次世界大戦と害虫防除

2 毒ガスと殺虫剤

3 マラリアとの戦い

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