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農業と環境 No.125 (2010年9月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

本の紹介 295: 明日をどこまで計算できるか?−「予測する科学」の歴史と可能性、 デイヴィッド・オレル 著、 大田直子ほか 訳、 早川書房(2010年1月) ISBN 978-4-1520-9105-5

本書の原題は、「Apollo's Arrow」。アポローンはギリシャ神話で予言の神、デルポイにあったアポローンの神殿における神託は古代ギリシャにおいて戦争や政治の決定に重要な役割を果たしていた。本書ではアポローンの矢は予言や予測モデルの比喩として用いられ、「放たれた矢は未来に正しく飛んでいけるのか?」 が詳細に検討されている。著者、オレルは天気予報に用いられる気象モデルの誤差に関する研究を行ってきたカナダの数学者であるが、話題は気象にとどまらない。

本書は、過去、現在、未来の3部で構成されている。「過去」 の部では、もっとも古いモデルというべき、ピュタゴラスから始まる天球の円運動モデルの発展と、それが天体観測に基づいた新しい理論により否定されていく歴史、ニュートン力学に基づく決定論科学の発展からカオスの発見、相対性理論や量子力学、複雑系を含む多岐にわたる科学史が展開される。そしてニュートン力学では未来はすべて予測可能に思えたが、非線形で複雑な現実のシステムでは予測は不可能なのではないかと疑問を提起する。

「現在」 の部では、天気、病気(遺伝子)、および経済の3つの分野を取り上げている。おのおのに関して、研究の歴史と現在用いられている予測手法、およびそれらの問題点について詳細に検討し、大気システム、生物学的システム、経済システムでどの程度の短期予測ができるのかを示している (短期予測とは、ある日に具体的に何が起こるかを 「予言」 すること)。これらのシステムは扱う対象は異なるが、予測の方法は共通であると著者は述べる。すなわち、ある時点の状態 (大気システムの場合は、気温、気圧、風、湿度などの空間分布) から(物理)法則に従った方程式を用いた数学モデルにより未来の状態を推定する。天体は重力の法則によく従い、方程式によるモデルで星の動きを精度よく予測することが可能であるが、ここに上げたシステムはもっと複雑で、局所的なルールに支配されており、その局所プロセスの多く (たとえば雲の形成・消散過程) は物理法則であらわすのが困難なため、何らかのパラメータ化が行われている。そして、モデルが精緻(せいち)になればなるほど、未知のパラメータの数が増える。また、たくさんの正のフィードバックループと負のフィードバックループにより制御されており、このようなシステムはパラメータの誤差に鋭敏である。その結果、 「モデルは非常に柔軟になり、過去のデータに適合させることはできても、正確な将来予測は相変わらず難しい」。実際、一週間先の天気予報を私たちは当てにしていない。

「未来」 の部では、長期予測が取り上げられる。地球温暖化モデルは未来のある日の天気を推定するのではなく、ある地域の数年間の平均としての気候を推定するものであるが、天気予報のモデルと同じ不確実性と不安定性を持っていると述べる。長期経済予測はもっと難しく、ウィルスがいつ新しい遺伝子を組み込み、どの程度の疫病が起こるのかも予測できない。

著者は、数学モデルがまったく役に立たないと言っているわけではない。1970年代にフロンによるオゾン層破壊のプロセスが示されたことがフロンの禁止につながったように、「大気モデリングは、たとえ未来を予測できなくても、たいへんな災いを防ぐのに役立つこともある」。また、温暖化によってさまざまな生物種がどのような影響を受けるかについての予測は、温暖化モデルと生態系モデルを組み合わせることによって、その不確かさは大きいが、「危険な状態にある種や生態系を特定するのには役立つ」。「アポローンの矢は未来に飛んでいかないし、私たちを疫病から守りもしないが、羅針盤として働き、迫りくる危機を指摘し、予測不可能な世界で進路を決めるよすがとなるかもしれないのである。」

農業分野、環境分野においても地球温暖化モデルに限らず、さまざまなモデルが開発され、使われている。本書の主張には異論もあろうかと思うが、モデルを何のために用いるのか、モデルにより得られた予測をどう使うのかをあらためて考えるための、示唆に富んだ一冊である。

目次

はじめに ― 予測の科学と社会学

過去

第1章 不法な運命の矢弾 ― 予測の始まり

第2章 光あれ ― ティコ・ブラーエとモデル構築者たち

第3章 分割統治アプローチ ― 決定論的科学主義

現在

第4章 「夕焼けは船乗りの喜び」 ― 天気を予測する

第5章 遺伝子の中に ― 病気を予測する

第6章 上げ相場と下げ相場 ― 経済を予測する

未来

第7章 全体像 ― 気候と健康と富の関係

第8章 振り出しに戻る ― 私たちはどこで道を誤ったのか

第9章 水晶玉へのお伺い ― 2100年の世界

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