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農業と環境 No.148 (2012年8月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

本の紹介 326: 生物多様性を考える(中公選書)、 池田清彦 著、 中央公論新社(2012年3月) ISBN978-4-12-110009-2

本書の “はじめに” で、著者はこう書いている。「本書では、種とは何かという議論を踏まえ、生物多様性の諸相を吟味する。さらに生物多様性に関わる問題も議論したい。最後に生物多様性を巡る国際政治についても若干議論したい。」 この3つの議論に沿って、本書は “生物多様性とは何か” 、 “生物多様性の保全とは何か” 、そして “生物多様性と国際政治” の3つの章からなる。

第1章は、1986年、米国でのフォーラムの場で、生態学者のローゼンが Biological Diversity から logical を抜いて、Biodiversity の言葉を提唱した記述から始まる。生態学者たちは、人為による生態系の改変や希少種の絶滅や激変に心を痛めていたが、科学的探求という内部努力だけでは、これらを阻止することはできなかった。目的を達成するには、多く人々の情念に働きかけて政治を動かす以外の方法はない。そのためのスローガンとして、ローゼンが考えたのが Biodiversity (生物多様性)だと紹介する。提唱者たちは、一躍ポピュラーになった “生物多様性” の用語は、科学が解明したり研究したりする対象を指すものではなく、大衆の胸に響くことを第一に考えたプロパガンダのためのキャッチコピーだと考えていたのだ。「別言すれば、Biodiversity は厳密に定義できないコトバなのだ。」 と、著者はいう。しかしながら、いまやローゼンたちの意図をはるかに超えて、この用語は国際政治を動かすキーワードの一つになっている。

生物多様性はあいまいで包括的な用語ではあるが、概念を整理して、その内実を具体的に考えることへ、著者の話は進む。生物多様性は、(1) 種の多様性、(2) 遺伝的多様性、(3) 生態的多様性の3つの概念に整理する。それぞれの概念を広範な事例をあげて、詳細に解説している。生態学や生物多様性の基本単位である “種とは何か” に始まり、生物多様性の根源をなす遺伝的多様性の解説。さらにもっとも分かりにくい生態系多様性では、生態系の構成及び生物群集の機能と成り立ちを生産者、消費者、分解者に分けて解説し、生態系多様性を考える上で生態系が有する恒常力、抵抗力、復元力の3つの性質がきわめて重要であると説く。

続く、第2章の生物多様性の保全にも多くの議論がある。種の存在には絶対的な価値があるかのように主張する人から、生物種を絶滅から守るのは人類のためだとの議論もある。ほとんどの人は、病原菌や病原虫、農作物を食害する害虫は、生物多様性の一部には違いないが、いなくなって欲しいと思っている。多くの人が守りたいのは自分にとって都合のよい生物多様性で、都合の悪い有害な生物多様性はいらない。都合の善しあしに絶対的基準は存在しないと、著者はいう。この都合や好みで駆除対象となるブラックバスやハブ、クマ、高額のコストをかけて保護や繁殖の対象となっているイリオモテヤマネコやトキなど、多くの事例紹介の中に生物多様性保全に対する著者の独特な考え方が提示されている。

次の遺伝的多様性の保全についての議論も読者には驚きである。ここでは、タイワンザルとニホンザルとの交雑と、チュウゴクサンショウウオとオオサンショウウオとの交雑を事例にした話だ。和歌山で見つかったサルの交雑個体を巡って、一部の保全論者は遺伝子汚染と騒ぎ立て、県は税金を使ってタイワンザルと交雑個体を捕獲、殺処分にしているという。動物愛護の観点から殺処分に反対する人も多い。また、京都の賀茂川でサンショウウオの交雑が進んでいることに、大学等のグループがやはり遺伝子汚染への危機感を抱いているという。

日本固有のニホンザルとオオサンショウウオの消失への懸念に対して、著者の考えはこうだ。「交雑個体の割合が増えていくとするならば、そもそもこれらサル同士あるいはサンショウウオ同士は完全に同種なのである。(中略) 種の数は増えも減りもしない。日本に生息するニホンザルやオオサンショウウオの個体群の遺伝子プールの組成が変化するだけだ。」 要するに、消失するのは地域個体群の遺伝的特異性だけで、何でこんなに大騒ぎして税金を使ってまで対処しようとするのか不思議だと、著者は結論する。

最後の章は、生物多様性と国際政治の記述にあてられている。1993年に発効した「生物多様性条約」の目的は、(1) 生物多様性の保全、(2) 生物多様性の構成要素の持続可能な利用、(3) 遺伝資源の利用から生じる利益の公正かつ衡平(こうへい)な配分 であった。国際政治にもっとも影響を与える、多様性条約の最大のポイントは、この (3) が目的の一つに取り上げられていることだ。2010年に、名古屋で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)においても、このことが最大の議論となり、遺伝資源へのアクセスと利益配分に関する 「名古屋議定書」 が採択された。

しかし、アメリカはいまだに 「生物多様性条約」 を批准していない。バイオテクノロジーの発展の結果、遺伝子組換えによる大きな利益の配分を恐れてのことだという。アメリカでは、1987年に生物資源に特許を与える体制を整えていたために、多様性条約でのこの議論は、万人に自由なアクセス権を認めるという方向にはいかず、組換え生物(作物)による利益配分の議論に収斂(しゅうれん)してしまった。「生物資源へのアクセス権を私的に囲い込むことを許容する裁定をしたアメリカの司法当局は、世界史的な視点でみれば愚かだった、と思うほかはない。」 と、著者は強く批判する。そして、「生物多様性条約」 の議論では、利益の配分を巡る調整に終始しているだけで、本来の生物多様性の保全にさして役に立たなくなるおそれが強いことを指摘している。

著者は、これまで多くの著作を通じて、生物進化や環境問題について独自の考えを展開してきた生物学者だ。本書においても、生物多様性の概念、中でも 「種の多様性」 については著者独自の考え方や定義が語られ、その考え方の基調は、生物種や生物多様性の保全の視点にも強く反映している。これまでとは異なる生物多様性やその保全の考え方に読者は驚かされるが、本書を通読することで、生物種や生物多様性に関わる自らの考えや認識を整理するよい機会になると考える。

目次

はじめに

第1章 生物多様性とは何か

(1)種多様性

(2)遺伝的多様性

(3)生態系多様性

第2章 生物多様性の保全とは何か

第3章 生物多様性と国際政治

おわりに

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