トップ > イネゲノム完全解読10周年 > イネゲノム完全解読10周年によせて

イネゲノム完全解読10周年
イネ
 イネゲノム完全解読10周年によせて
Dr.sasaki

東京農業大学総合研究所
佐々木卓治教授
(Chair of IRGSP)

多様なイネ研究の礎 -精緻なゲノムシーケンスの獲得-

イネは人間が農耕という定住生活スタイルを選択したきっかけになった植物のひとつであり、人間がよりよい食生活を送るために長い時間をかけて、その種子(コメ)収穫量が増えるように手をかけた穀物である。現在では世界人口のおよそ半数がコメを主たる食糧源として利用している。世界人口は現在もアフリカ・アジア・中南米地域を中心に増え続けており、その多くがコメ生産消費地と重なる。コメの増産と安定供給は将来にわたって継続すべき課題であることは論を待たない。

長い育種歴史の結果、世界には10万を超える品種が存在するといわれる。世界中の多様なイネ栽培環境を考慮すればこの数も納得がいく。同時にイネが人間の選択圧を受け入れる寛容さをもっていることを示す数字である。ではなぜイネはこのように次々と新たな変化を示すことができたのか。交配における組換えが品種多様性の基本になっているとはいえ、組換えを可能にする理由を明らかにすることができれば今後求められるイネ品種を迅速に、かつ確実に作出できるのではないだろうか。この疑問に対する答えは簡単には得られないであろうが、現代の科学はこの疑問解明に大きく貢献が期待できる情報の獲得を可能にした。その情報とはDNAに刻まれた遺伝情報の総体、すなわちゲノム塩基配列である。

一方、ゲノム塩基配列中には遺伝のみではなく生長に関するあらゆる情報が存在する。イネが種子から発芽し、イネとよばれる形態になり、出穂し、コメを実らせる過程において「遺伝子」の転写や翻訳がどのように制御されているのか、また、品種間でのこれらの違いの原因も塩基配列中に存在する。農林水産省では1991年から、イネを対象にゲノム情報を基盤とする新たな育種技術の開発プロジェクトを開始した。本プロジェクトの最終目標はイネゲノム塩基配列解読であったが、当時のゲノム科学技術は現在から振り返ると揺籃期にあり、すべてが手探り状態であった。ただ、遺伝学は確たる学問として存在しており、まず遺伝解析によりイネゲノム中に多数のイネ遺伝子断片を用いたDNA標識を設置した連鎖地図の構築を行った。次にこれらの標識をプローブとしてクローン化したゲノムDNA断片を探し出して、統計解析に基づく連鎖地図を実体としてのDNA断片整列化地図(物理地図)へと変換した。物理地図作製に目処がついた1997年頃から高速塩基配列自動解析装置が相次いで開発され、当初の目標の実現性が見えてきた。

国際的にもわれわれのイネゲノム解析研究は注目され、まだ研究計画のみの段階では好奇の目で見られたが(Nature, vol.356, p.181, 1992)成果が出始めるとScience誌では期待をこめて紹介された(Science, vol.266, p.1186-1187, 1994)。この時代、イネの主な研究拠点は日本等アジアに限られたものであり、欧米の一流商業科学誌にとっては興味の対象外であったが、徐々に取り上げるようになった。その最大の理由は連鎖地図作製が進行することにより、イネゲノム構造がコムギやトウモロコシなどのイネ科植物のゲノム構造とモザイク状になっていることが明確になり、欧米の穀類研究者がゲノムサイズの小さいイネの情報に関心を寄せたからである。英国John Innes Centre, Mike Gale博士は当時 "Rice is Wheat" とまで言い、イネゲノム解析研究に期待した。彼らが作製した、イネゲノムを中央に置いて他のイネ科穀類ゲノムを同心円状に配置したシンテニー図はイネゲノム塩基配列解読に欧米の研究者の興味を引き寄せるのに絶大な効果があった(Proc.Nat.Acad.Sci., vol.95, p.1971-1974, 1998)。

1997年秋に結成が合意された国際イネゲノム塩基配列解読プロジェクト(International Rice Genome Sequencing Project, IRGSP)は1998年春より活動を開始した
http://rgp.dna.affrc.go.jp/J/IRGSP/bnl/rice.html)。途中ではいろいろ横槍も入ったが、完全解読に対する国際的な期待と理解を得て(Science, vol.296, p.45, 2002)、2004年晩秋、IRGSPは7年間の協調・努力の結果、イネ品種「日本晴」の高精度ゲノム塩基配列解読を達成した(Nature, vol.436, p.793-800, 2005)。この間の日本チームの誇るべき努力の足跡は「イネゲノム塩基配列解読の歩みー完全解読を終えてー」に詳細に記述してある
http://www.s.affrc.go.jp/docs/kankoubutu/ine_genome/ine_genome.htm)。是非お読みいただきたい。実際、IRGSPの活動の舵取りは筆者にとっては、IRGSPに参加を希望する国々との折衝、IRGSPと競合する組織との交渉、国際学会でのIRGSPの活動状況の報告など、苦労の連続であったがBrookhaven National Laboratory(当時)Benjamin Burr博士の無私のサポートにより予定通り最終ゴールに到達でき、多くの貴重な経験をした。一部には永久に公開されない情報もあるようだ。IRGSPに焦点を当てた記事はScience, vol.309, p.937, 2005,やScience, vol.296, p.32-36, 2002に掲載されている。

IRGSPが完成した「日本晴」完全解読塩基配列は、2004年秋に開始された新たな国際共同研究体制, The Rice Annotation Project (RAP) によって、そこに秘められた遺伝暗号のすべてを明らかにする努力が継続されており、遺伝学、育種学、生理学、進化学、生化学等、多様な領域での利用基盤を整備している(RAP-DB, http://rapdb.dna.affrc.go.jp)。ゲノム情報の充実に伴ってイネ関連出版論文数は劇的な増加を示し、著名な科学雑誌に掲載される重要な遺伝子同定例も多い。就中、コメ収穫量に直結する出穂(開花)期、穂数、一穂粒数、粒重量などに関する量的形質遺伝子が次々に明らかにされ、イネ育種に確実性が保証できるようになった(Trends in Plant Science, vol.16, p.319-326, 2011)。同時にこれらの遺伝子機能の解明は植物研究全般の進展に大きく貢献した。例えば植物生理学分野で1937年にその存在が予測された花芽形成ホルモン、フロリゲンの実体がイネ開花期感光性遺伝子として同定されたHd3aであること、ストリゴラクトンが分枝抑制活性をもつ植物ホルモンであること、あるいはジベレリンシグナル伝達機構の解明などが挙げられる。

IRGSPによる「日本晴」ゲノム完全解読から10年を経た現在、塩基配列解析技術もすっかり様変わりし、それに従って配列解析に対する考え方も大きく変わった。イネ科各穀類の配列解読も、精度はともかく、各ゲノムの概要解読を優先して行われており、もはや "Rice is Wheat" といわれることはなく、イネ科穀類分岐年代7000万年前から現代に至る、共通祖先の痕跡と独自の進化の証拠が明確にされつつある。イネ、コムギ、トウモロコシの三大穀類のゲノム情報に基づく新たな育種時代が始まっているといえよう。基準塩基配列が得られたことで、遺伝資源の網羅的ゲノム情報解析が開始されており、従来の表現型に付加される重要な識別情報となっている。今後育種研究分野での利用が待たれる。

これからの10年間にゲノム解析を中心にして何が起こるのか、確たる予測は困難であるが、これまでのように配列情報を収集することが主になるのではなく、情報の利用が今以上に求められるであろう。これはゲノム塩基配列情報が蓄積されているあらゆる生物種について求められることである。しかし、植物・動物を問わず、実際の生物を扱うことになると、その生命活動の複雑さを反映して成果が得られるのに時間がかかる。また、多様な知識との融合が求められる。作物の場合、栽培条件・栽培環境によりゲノム情報の発現が影響を受けることは確実であり、最適なパフォーマンスを得るための多くの試行錯誤が必要となろう。他方、ゲノム情報の新たな革新的編集技術NBT (New Breeding Technique) もいくつか開発され、塩基配列情報の直接的利用の新局面が出てきた。植物への応用で果たして期待通りの結果がでるのか、まだ試みは緒についたばかりであるが、10年後にはある程度の答えが得られていよう。

イネがわが国の主食料の首位の座を他に譲り渡すことはよもやないとは思うが、昨今の消費量の低下をみると必ずしも安泰ではない。また、仮に10年後に首位であっても国産米のみで賄っているとは限らない。ゲノム情報に国境はなく、研究活動が旺盛な国々がそれを利用し、基礎・応用両面で優れた成果を出すことは当然ありうる。わが国のイネ研究も20年前の国際的研究レベル、10年前の国際的研究レベルがどのようだったのか、IRGSPによるイネゲノム完全解読10周年にあたり、振り返りつつ、今後10年間、更なる研究レベルの上昇が図られることを切に願っている。

Dr. Robert S. Zeigler

Dr. Robert S. Zeigler
Director General
International Rice Research Institute

植物生物学の歴史において、この重要なマイルストーンを振り返るには、良い機会であります。今年、我々は、 国際イネゲノム塩基配列解読プロジェクトが作り出した世界初のイネゲノム塩基配列解読完成 10周年記念を祝いたいと思います。 高品質で地図ベースの日本晴ゲノム塩基配列の公開はイネの「gold standard=究極の判断基準」を構築し、それに続くイネの様々な品種の配列の解読とゲノム研究を発展させました。

例えば、イネが多岐に亘る自然環境に適応するための多くの遺伝子の機能を解明するために、参照配列(日本晴ゲノム塩基配列)をガイドに用いて、幾つかのリシーケンシングプロジェクトが立ち上げられました。これは私の見解ですが、これら先駆的な研究のなかで最もエキサイティングで あったことは、Chinese Academy of Sciences(中国科学院)、Beijing Genomics Institute(北京ゲノム研究所) とIRRI(国際イネ研究所)が協力しあって、 2014年5月にイネ3,000品種のゲノム塩基配列を発表したことです。

わずか10年前、何百万ドルの投資の結果、1つのイネゲノム配列(日本晴のゲノム解読)が国際的なニュースの見出しになりました。しかし、今日、3,000ゲノムの塩基配列の発表は、ほとんど日常的であると感じます。

イネ3,000ゲノム配列を活用することで、現在および将来人類が直面する様々な困難なハードルに打ち勝つために、 育種プログラムの能力を強力に加速させることができます。この国際共同プロジェクトによって、膨大な量の知識をイネ遺伝学に加えるとともに、最終的に、最も困難な条件下でイネを栽培する最も貧しい農民のために、世界的な研究コミュニティによる詳細な解析が可能となります。

我々は、科学の加速的進歩とそれによる自然現象の深い理解は、世界が気候変動によって引きおこされる、食糧と栄養に関する安全保障に関連する多くの深刻な問題を解決する事が可能であるという楽観主義に立っています。我々は、世界のジーンバンクにある信じられないほど沢山の利用可能な遺伝的多様性を活用する事ができます。世界のイネの研究者は、現在、制御しにくいと考えられていた非生物的なストレスに適応するイネの品種を開発する能力を手中にしました。そして、利用可能なのは、O.sativa種が有する多様性だけに限りません。より広いOryza属の野生種も様々な育種プログラムに利用することができます。

私はこの開拓者的な努力に関与した全員を祝福し、我々を前進させるために、この知識を使う次世代のイネ研究者を歓迎します。

イネ
国立研究開発法人 農業生物資源研究所
〒305-8602 茨城県つくば市観音台2-1-2