V.農務局仮試験場蚕事部(明治24年)・蚕業試験場(明治26年)

1.西ヶ原の樹木試験所と山林学校
 明治21年に白幡伯雅が製作した浮世絵(東京農工大繊維博物館蔵)には、正門右側門柱に「山林局試験場」、左側門柱に「農務局蠶業試験場」の看板が掛かっている。この山林局試験場について、『日本農業発達史別篇−農業教育の成立−』(東畑精一・盛永俊太郎監修)には次のように書かれており、この山林局試験場は、樹木試験所のことと思われる。

林業に関しては『農学事始め』(217〜9頁)にこういっている。
「明治三年伏見宮殿下に属従して独逸に渡り山林学を修めた松野?といふ人が、帰朝後内務省の地理寮に奉職し、此人によって林業に関する当局の注意を喚起する処が多かったのである。そこで明治十一年の初めに西ヶ原に樹木試験所といふものを設けた。……此処で山林学術上の方法得失を考究したり、苗木を栽培したり、樹木の適否効用を試験したり、其他林業に関する様々な業務を行った。……
 明治十四年の四月に農商務省が新設され、山林局が設けられると、この樹木試験所は当然山林局の管轄下に入り、其の分課の中に業務課が出来て、課の事務条項として
 山林学校に関すること
 樹木の培養及木材の効用を試験すること
 内外国の材鑑及山林用具に関すること」

このような経過で明治15(1782)年、3年制度で(明治17年に5年制に延長)山林局山林学校が設立されたが、明治19年7月22日に駒場に移転し、駒場農学校と合併して東京農林学校となっている。この直後の10月24日に蚕病試験場が移転してきて、蚕業試験場と呼称変更したわけである。


図1 「農務局假試験場圃地之図」

2.仮試験場蚕事部
 明治22(1889)年、後に農事試験場初代場長となる澤野淳は、ドイツ、アメリカ、フランス、インド、セイロン等を巡回視察し、欧米農業の実体を体験しわが国の農業の改良が重要であることを実感、帰国後、農商務大臣陸奥宗光に農事試験場設置を建議した。澤野は23年農商務省農務局第一課長、第五課長を兼任し試験場の開設準備にかかることになる。農務局は同年、北豊島郡滝ノ川村西ヶ原の元山林学校の跡地に農務局仮試験場農事部を設置し、試験を行うこととした。すでに19年、麹町区内山下町からの移転によって設置されていた蚕業試験場は明治24(1891)年3月仮試験場蚕事部となった。

3.富国強兵策を支えた蚕糸業−当時の社会情勢−
 その当時のわが国の社会状況を、山本茂実は『あゝ野麦峠』の中で「恐露病と第二の元寇」という題で次のように書いている。

明治24年7月5日。この日提督丁汝昌の坐乗する清国北洋艦隊の新鋭巨艦定遠・鎮遠をはじめ来遠・致遠・靖遠・径遠等々の六隻が、威風堂々東京湾に入港し、うち鳴らす礼砲は、いんいんと品川沖を圧していた。
 これは表面上はあくまでも親善訪問であったが、明らかに清国海軍の一大デモンストレーションであったことはいうまでもない。朝野の興奮は実はそこから来ていた。
(中略)
 これに対してわが国には、十数年前にイギリスから買った小さな甲鉄鑑「扶桑」が一隻あったが、すでに老朽化しており、このほかはほとんどないに等しい木造船の海軍力で、まだ生まれてまもない明治政府はこの巨艦六隻を目の前に見て、驚きというより「第二の元寇」として恐怖し、なすところを知らぬ有様であった。(中略)
 しかもこの時日本全国民は「恐露病」におののいていた。
 というのは、その2ヶ月前の4月27日、露国東洋艦隊の旗艦、バミイヤ、アゾヴァ号以下軍艦7隻が長崎へ入港し、さらに瀬戸内海を示威行進して神戸から上陸したが、これには露国皇太子(後のニコライ二世)を乗せていた。この皇太子が親善訪問中に大津事件(日本の一警察官が皇太子に切りつけ負傷させた)に遭った。世界最強の陸軍国の皇太子をこともあろうに天皇直属の部下が切りつけたとあっては、ただおさまるはずはない。ましてや東洋進出の機会を虎視眈々とねらっていた露国にとって絶好のチャンスを与え一触即発。ついに明治天皇御みずから神戸の露鑑上にお詫びに参上してようやく事なきを得た。(中略)
 時の海軍大臣樺山資紀は軍艦11隻、水雷艇60隻を含む5855万円の建鑑計画を急遽第二議会、第三議会に提出したが、これがいずれも否決され、松方内閣は瓦解した。それもそのはず、この金額は当時一年の国家予算総額よりも二百万円も多い額であった。

 すでに述べたように、近代的統一国家の形成を指向する明治政府が目指したのは、富国強兵、殖産興業、文明開化であった。明治政府の急激な近代化政策に対しては、当然ながら反発もあり、その矛先は陸海軍費ばかりではなく、農商務省予算に対しても向けられた。その間の事情を、『農務顛末』第一巻には次のように記されている。

 二十四年二月十六日予算案の審議の際質問にたった静岡縣選出無所属の近藤準平の意見がそれである。第一議会における政府提出予算に対する反政府党たる自由党・改進党を中心とする批判の中心は「政費節減・民力休養」にあり、その論点は全予算の二八・七%に及ぶ陸海軍費に向った。予算委員会の討議の結果は軍事予算をはじめ各省予算を通じて六百六万を削減する方針をとった。農商務予算に対する一般の批判は農産加工に対する助成金の削減に集中した。そのような方向を持った本会議の席上で近藤議員は過去の農商務省の業績からみて、予算の一部削減に止らず、省そのものを廃すべしと論じたのである。その発言を摘録すれば次の如くである。
 「是迄十餘年ヲ経歴ニ依リマシテ見マイタ所ガ、全ク農商務ハ民間ニ益ガ御座リマセヌノデ、却ツテ害ガ御座リマス、・・・凡テ農業上ノコトニナリマスト、今日ハ別段ニ農商務ノオ蔭デカラニ益ヲ得タト云フコトモ御座リマセズ、事柄ハ干渉デモナク放任デモナシ、唯技師デモ來テ年々一回カ二回位來テ、実際ノ今日ノ民業ニ適当シマセヌ所ノ演説ガアル位ナ話デアリマシテ、加フルニ此ノ鎌一挺買フコトモ出來ヌ農民ニ向ツテ、機械耕作ヲ勧メテ見タリ、チッポケナ地盤ニ大耕作ノ方法ヲ教ユル位ナコトデ、出來ナイ相談計リガ多イヨウナコトデ、・・・且ツ困リマスルノハ毎年々々各様ノ表ヲ徴シテ、郡役所以下県庁ト云ヒ或ハ町村役場等、総ベテ皆大層手数ヲ掛ケラレテ費用ヲ増スノミデ、何ガ益ガアルカト云フニ、我々ハ何ンニモ是迄寸功ヲ見マセヌ。」
  ここに示された所は巡回教師制度、大機械農法の奨励、各種農業調査等、農商務省発足以來の新施策の無効を云っているのであるが、直接国税納入額による制限選挙によって選び出され、以後数回の議会において執拗に地租税率の引き下げ、地租納期改正等を要求した議会の出発の時にあたってこのような発言のあったことは興味あることといわなければならない。 

 山本茂実は、先述の『あゝ野麦峠』の中で続けて、「それから3年後に日清戦争が勃発したとき日本は55隻6万1300トンの大海軍を擁し、強力な連合艦隊の編成を作り上げていたが、それには外貨がなくては出来なかったはずだ。国家予算は取れたとしても国際収支のバランスを無視して軍艦建造は不可能である。ましてやそれらが輸入品であれば、なおさら外貨なくては入手出来るはずがなかった。それは“生糸の経済力”のおかげであった」という趣旨の記述をしている。
 明治22年6月29日に挙行された蚕業試験場における習得証授与式での松方正義大蔵大臣の演説として、「畏くも我 天皇陛下が外国より軍艦を購求すべしと宣ひたるとき余は日本の軍艦は総て生糸を以て購求するものなれば軍艦を購求せんと欲せば多く生糸を産出せんことを謀らざるべからずと上言したり云々」という記述が残っているが、このような背景を物語っていると言える。

4.蚕業試験場
 その後、明治25年農事試験場および支場設置のための予算要求が議会を修正通過し、翌明治26(1893)年農事試験場官制が公布され、農事試験場が発足するとともに蚕事部は再び蚕業試験場として独立する。先の第一回議会における近藤議員の発言に見られるように、貧弱な財政基盤の上に、富国強兵−軍備の充実と殖産興業−の実をあげていかなくてはいけないという明治政府の抱える矛盾の中で、欧米化の努力をすすめようとした農業分野は必ずしも順調な発展を遂げていたとはいえない。農業分野の立ち後れに比べ、江戸末期以来の海外貿易の中心であった生糸、蚕種等の蚕糸分野にあっては、すでに一応の技術があり、試験研究よりはむしろ実用的な技術指導や検査に携わる人材の育成の方が急務と考えられたようである。このような分野間の進捗度の差が、蚕糸部門が明治26年に農業試験場発足と同時に、単独で蚕業試験場に戻った理由と考えることができる。蠶事部改称に関しては、「日本蠶業雜誌」第65号に次のような記事がある。

農商務省農務局假試驗場は從來普通農事養蠶等の業に從事せしか本年四月農事試驗場を設置せらるヽに當り農事部は自然消滅に歸し蠶事部は尚依然たりしも世人
または官廳に於ても多くは蠶事部を以て農事試驗場と誤認し文書の如きも農事試驗場に到達するものありて不都合尠からす依りて今般右蠶事部の名農務局蠶業試驗場と改稱せられたり

(1)蚕業試験場規程
 明治26年当時の蚕業試験場規程は、次のようになっている。

農務局蠶業試驗場規程
   第一章 組 織
第一條 蠶事部ハ蠶業ニ關スル試驗及教育ヲ掌リ本業ノ改良進歩ヲ計ルヲ以テ目的トス
第二條 蠶事部二左ノ職員ヲ置キ農務局第二課員ヲ以テ之ニ充ツ
  監督 試驗員 教員 事務員
第三條 監督ハ部員ノ試驗及授業ヲ統督シ部内ノ庶務ヲ處辧スルモノトス
第四條 試驗員ハ蠶業ニ關スル試驗ニ從事スルモノトス
第五條 教員ハ蠶業ニ關スル教育ニ從事スルモノトス
第六條 事務員ハ庶務ニ從事スルモノトス
第七條 蠶事部ハ臨時助手ヲ雇入レ試驗員教員ノ命ヲ受ケ試驗及教育ヲ補助セシム
第八條 試驗教育其他緊要ノ事項ハ評議會ヲ開キテ之ヲ協議スルモノトス 
 評議會ハ監督 試驗員 教員 事務員其他農務局第二課員ヲ以テ組織ス
第九條 試驗ノ成蹟及蠶事部記事ハ毎年十一月監督ニ於テ之ヲ編成シ第二課長ヲ経由シ農務局長ノ裁可ヲ得蠶事報告トシテ之ヲ印刷頒布スルモノトス
 但特ニ有益ナル試驗ノ成蹟ハ臨時報告トナスコトアルヘシ
第十條 地方蠶業者ニシテ有益ナル事項ヲ報告シタルトキハ評議會ノ決議ヲ経テ蠶事報告中ニ登載スルコトアルヘシ
 前項ノ場合ニハ報告者ニ蠶事報告五部ヲ贈與ス
第十一條 本部製造ノ蠶種ハ地方廳ヲ経由シ九月三十日迄ニ農務局ヘ願出テタル蠶業篤志者ニ配布スルコトアルヘシ
第十二條 蠶種ノ配布ヲ受ケタル者ハ成繭二合ヲ添ヘ其年八月三十一日迄ニ飼育ノ結果ヲ本部ヘ報告スヘシ
第十三條 蠶業ニ關スル諸般ノ質問ハ主査ヲシテ之ヲ調査スルモノトス
第十四條 部内ノ縦覧ヲ請フモノアルトキハ之ヲ許可ス
 縦覧人心得ハ別ニ之ヲ定ム
   第二章 蠶業試驗
第十五條 蠶業ノ試驗ハ左ノ科目ニ據リ施行スルモノトス
 (一)桑樹 栽培。撰擇。病害
 (二)養蠶 蠶種。飼育。蠶病
 (三)製絲 殺蛹。貯繭。繰絲
 (四)器具
第十六條 試驗ノ項目ハ毎年一月評議會ニ於テ之ヲ定メ農務局長ノ裁可ヲ得テ施行スルモノトス
第十七條 試驗ハ事項毎ニ主任ヲ定メテ之ヲ擔當スルモノトス
第十八條 試驗成蹟ハ其主任ニ於テ之ヲ詳記シ毎年十月三十一日マテニ監督ニ報告スヘシ
第十九條 試驗成蹟ノ報告ニハ其主任ノ官氏名ヲ記入スヘシ
   第三章 蠶業教育
第二十條 本部蠶業教育ハ蠶業ニ關スル學理實業ヲ傳習シ蠶業巡回教師若クハ蠶業傳習所教師トナリ得ヘキ者ヲ養成スルヲ目的トス
第二十一條 傳習生ハ毎年人員ヲ定メ各府縣ヨリ之ヲ募集スルモノトス
第二十二條 傳習生志願者ハ毎年八月三十一日迄ニ其旨ヲ管轄地方廳ニ願出ツヘシ
第二十三條 傳習生志願者ハ左ノ資格ヲ有スル者ニ限ル
  品行方正ニシテ傳習期中家事ノ係累ナキコト。年齢満二十五年以上。三ヶ年以上養蠶實業ニ從事シタ ルコト
第二十四條 傳習生志願者ノ試驗科目左ノ如シ
  (一)算術比例マデ。(二)動植物理化學大意。(三)養蠶實業但尋常中學校、尋常師範學校、農學校又ハ之ト同等以上ナル校所ノ卒業證書ヲ有スルモノハ第一第二ノ試驗ヲ要セス
第二十五條 傳習ハ毎年十一月一日ニ始メ翌年七月三十一日ニ終ルモノトス
第二十六條 傳習期ハ分テ二學期トス
  第一學期自十一月一日至四月二十日。第二學期自四月二十一日至七月三十一日
第二十七條 各學期ニ於テ授クル傳習課程左ノ如シ。但時宜ニヨリ之ヲ變更スルコトアルヘシ
 第一學期 (講義) 理學。化學。氣象學。桑樹害蟲論附動物學。桑樹病理論附植物學。桑樹栽培論附土壌及肥料論。蠶論。養蠶術。製絲術。 (實習) 顯微鏡使用法附蠶種檢査
 第二學期 (實習) 養蠶(春夏二回)。繭絲檢査。蠶体蛹蛾ノ解剖
第二十八條 試驗ハ毎學期ノ終ニ施行シ其得點百ヲ以テ満點トス。但時宜ニヨリ臨時試験ヲ行フコトアルヘシ
第二十九條 第一學期ノ終ニ於テ三課目以上四十點未満ノモノハ第二學期ノ傳習ヲ受クルヲ得ス。但此場合ニ於テハ傍聽生トシテ修業スルコトヲ得
第三十條 傳習期ノ終ニ於テ總課目平均點數六十以上ヲ得タル者ヲ及第トシ卒業證ヲ授與ス。但三課目以上四十點未満又ハ養蠶實習六十點未満ノモノハ落第ス
第三十一條 傳習期中休業日左ノ如シ
  日曜及大祭日。冬期休業自十二月二十九日至一月五日。但養蠶實習中ハ日曜日タリトモ休業スルコト ナシ
第三十二條 傳習生卒業ノ後尚深ク蠶業ノ研究ヲ為サント欲スル者ハ評議會ノ議決ヲ經農務局長ノ裁可ヲ得テ研究生タルコトヲ得
第三十三條 研究生志願者ハ其研究スヘシ事項ヲ詳記シテ農務局長ニ出願スヘシ
第三十四條 研究生ノ研究期ハ毎年十一月一日ヨリ翌年七月三十一日マテトス
第三十五條 研究生ハ時宜ニヨリ本部ノ業務ヲ手傳ハシムルコトアルヘシ。但此場合ニ於テハ相當ノ報酬 ヲ與フルコトアルヘシ
第三十六條 研究生ハ研究期ノ終ニ於テ其研究事項ヲ詳記シ之ヲ監督ニ差出スヘシ
第三十七條 研究生ニハ研究期ノ終ニ於テ研究證書ヲ授與ス
第三十八條 蠶業篤志者ニシテ講義ヲ傍聽シ實業ノ臨視ヲ望ム者ハ評議會ノ議決ヲ經農務局長ノ裁可ヲ得 テ傍聽生タルコトヲ得
第三十九條 傍聽生志願者ハ地方廳ヲ經由シ農務局長ニ出願スヘシ
第四十條 傍聽生ハ自己ノ望メル學課ニ就キ傍聽シ實業ヲ臨視スルコトヲ得。但自ラ實業ニ從事スルコト ヲ得ス
第四十一條 傍聽生ニハ證書を授與セス
第四十二條 傳習生研究生及傍聽生ハ授業料ヲ徴セズ修業中一切ノ費用ハ自辧トス。但傳習生及研究生ニ ハ顯微鏡ヲ貸與スルコトアルヘシ 

 この当時の養蚕農村の状況と養蚕教師について、茨城県出島に生まれた作家寺神戸誠一は長編小説『蚕』の中で、次のように描写しており、地方の巡回教師が必ずしも好意と尊敬をもって受け入れられていなかった様子がうかがわれる。

それから養蚕教師はどうでも上州からのものでなければならなかった。その上州者の養蚕教師は、「空手でも蚕の上に振れ」と教え、桑さえ蚕にかけてさえいれば、それでことたりたものであった。だから、昼夜十二回も、こまかく桑葉を刻んでそれを目籠で振って振りかけるのである。けれども蚕はそれほど桑を食わない。食わないのはかけ方が悪い故だと教師は教えた。
 それにしてもその当時貧窮した藁屋では殆ど蚕には手が出なかった。それは貧農にとっておおまかな企業であって、まず桑園を作らなければならなかった。養蚕籠も作らなければならなかった。教師も要った。それに教師を頼めば教師はいろいろ蚕具をもってきて、必要でないものまで銭を出して買わされた。そういう空がかりをかけて、しかもそれで蚕が巣を必ず作ればいいが、それは保証の外であった。その教師の飼う蚕も多くは腐り、違蚕が多かった。

 明治29年4月の大日本農会報第175号に、本多岩次郎は「蠶業教育の方針」という論説を寄せている。その中で本多は、“所謂蠶業教育の如きは十數年前より其道開け近年に至りては各地に之を企圖するものありて或は養蠶學校となり或は蠶業傳習所となり又或は農學校の一科となりて縣立に郡立に町村立に其數實に多きを致す是れ實に喜ふへきの事なりと為す、然るに退て其組織如何を考察するに各地互に其程度を異にし其教育の方針未た一定せさるか如く學校傳習所の如き恰かも一時の流行物に類するの傾向あり豈嘆せさるへけんや”と述べ、蚕業学校若しくは蚕業講習所を、@中央政府の主管に属するもの、A府県の主管に属するもの、B郡町村の主管に属するものの3種に分け、それぞれの役割に応じた教育方針を有すべきであると述べている。
 こうした状況が蚕業講習所設立を求める世論の背景にあったと考えられる。

(2)蚕業試験場における試験
 この間仮試験場蚕事部及び蚕業試験場で行われた試験成績は、『蠶事試験成蹟』『蠶事報告』として発刊されているが、それらの名称の推移について、『蠶事報告第九號』の緒言の中には次のように書かれている。

 本局假試験場蠶事部ハ明治十七年内山下町ニ創立セル蠶病試驗場ニ胚胎セリ當時専ヲ蠶病特ニ微粒子病ニ關スル諸般ノ試驗ヲ施行シ同十九年ニ迄ル同年ノ秋之ヲ府下北豊島郡瀧ノ川村元西ヶ原ニ移シ名ヲ蠶業試驗場ト改メタリ同廿三年本局ハ農事ニ關スル諸般ノ試驗ヲ同所ニ擧行スルコトヽナシ之ヲ農務局假試驗場ト名ツケ部ヲ分チ蠶事部ヲ置キ蠶業試驗及傳習ノ事務ヲ掌ラシメタリ而シテ従來蠶業試驗及傳習ノ事跡ハ明治十七年ヨリ廿二年ニ至ルマデ蠶病試驗成蹟トシテ之ヲ発刊シ四方ニ頒チタリシガ載スル所ノ記事獨リ蠶病ノミニ止ラサルヲ以テ廿三年ニ至リ蠶事試驗成蹟ト改稱シ名實完キヲ得セシメタリ而ルニ業務ノ暢達ハ組織ノ改善ヲ促シ復タ之ガ改題ノ必要ヲ生セシヨリ茲ニ冊子ノ体裁ヲ改め蠶事報告トナシ前報試驗成蹟の跡ヲ繼ギ號ヲ追フテ剞?ニ付ス
 明治廿六年三月                  農商務省農務局

 以下に発刊年度順に、試験内容を記載する。
『蠶事試験成蹟第七報』(明治24年3月刊行)
 桑葉の厚薄水分及乾燥試驗 桑質試驗 給桑及蠶座廣狭試驗 減食試驗 餉食試驗 蠶兒動静試驗 発生早晩試驗 発生抑止試驗 蠶種得失比較試驗 支那蠶種試驗 蠶卵の色澤 及形状試驗 藁圍蠶室試驗 白きょう蠶豫防試驗
『蠶事試験成蹟第八報』(明治24年11月刊行)
 桑葉厚薄試驗 桑葉硬軟試驗 給桑試驗 節食試驗 餉食試驗 産卵早中晩試驗 蠶卵の色澤及形状試驗  被害蠶種試驗 虚弱性遺傳試驗 高温育試驗 蠶箔試驗 製絲用水質試驗
『蠶事報告第九號』(明治26年3月刊行)(カッコ内は試験主任)
 収葉試驗(松永伍作技手) 桑葉厚薄試驗(松永伍作) 泥桑試驗(練木喜三技師) 蠶種密藏試驗(本多岩次郎技手) 被害蠶種試驗(本多岩次郎) 産卵早中晩試驗(本多岩次郎) 孵化早晩試驗(松永伍作) 飼育標準改正試驗(松永伍作) 外國蠶飼育(芝山宗太郎技手) 虚弱性遺傳試驗(松永伍作) 繭質改良試驗 (松永伍作) 製絲用水質試驗第二(本多岩次郎) 桑樹萎縮病調査
『蠶事報告第十號』(明治27年3月刊行)
 貯桑試驗(松永伍作技手) 桑葉厚薄試驗(松永伍作) 泥桑試驗(練木喜三技師) 雨桑試驗(練木喜三) 蒸桑試驗(練木喜三) 蠶種密藏試驗第二(本多岩次郎技手) 半食試驗(練木喜三) 餉食試驗(松永伍作) 晝夜食桑試驗(本多岩次郎) 給桑ト結繭トノ関係試驗(松永伍作) 明暗上蔟試驗(本多岩次郎) 上蔟早晩試驗(本多岩次郎) 蔟内乾濕試驗(本多岩次郎) 同功繭試驗(芝山宗太郎技手) 蠶ノ種類試驗 (芝山宗太郎) 繭質改良試驗(松永伍作) 飼育標準改正試驗(芝山宗太郎) 蠶ニ關スル発育試驗(本多岩次郎) 殺蛹及貯藏試驗第一(高橋信貞技手) カツホムシノ調査(佐々木忠二郎農科大學教授理學博士) 製絲用水質試驗第三(本多岩次郎)
『蠶事報告第十一號』(明治28年3月刊行)
 貯桑試驗(松永伍作技手) 家桑野桑比較試驗(本多岩次郎技手) 蠶兒飼育上萎縮桑葉試驗(本多岩次郎) 蠶種浸水試驗(本多岩次郎) 蠶種密藏試驗第三(本多岩次郎) 餘附蠶種試驗(本多岩次郎) 掃立早晩試驗(松永伍作) 穉蠶飼育試驗(芝山直清技手) 同功繭試驗(芝山直清) 蠶ノ種類試驗(芝山直清) 繭質改良試驗(松永伍作) 殺蛹及貯藏試驗第二(高橋信貞技手) 製絲用水質試驗第四(本多岩次郎)
『蠶事報告第十二號』(明治29年3月刊行)
 野桑給與試驗(本多岩次郎技手) 桑葉滋養試驗第一(本多岩次郎) 蠶種密藏試驗第四(本多岩次郎) 蠶蛾交尾時間試驗(本多岩次郎) 蠶卵加害試驗(田原休之丞技手) 眠中加害試驗(田原休之丞) 蒸桑試驗(田原休之丞) 雨桑試驗(田原休之丞) 乾燥桑試驗(田原休之丞) 火山灰試驗(田原休之丞) 催青試驗(練木喜三技師) 下蟻絶食長短試驗附蟻ノ體量減少試驗(練木喜三) 掃立早晩試驗(松永伍作) 穉蠶飼育試驗(芝山直清技手) 同功繭試驗(芝山直清) 蠶ノ種類試驗(芝山直清) 減蠶試驗(芝山直清) 繭質改良試驗(松永伍作) 殺蛹及貯藏試驗第三(高橋信貞技手) 製絲用水質試驗第五(本多岩次郎) 虚弱性遺傳試驗(練木喜三) 微粒子病試驗(練木喜三)
 以上のように、蚕業試験場においては、蚕業に関係する学理研究、試験を行う試験研究機関、伝習を行う教育機関という役割を果たしていたことになるが、その他に、蚕種の製造配布機能も果たしていたことが記されている。


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