X.東京蚕業講習所(明治32年)

1.蚕業講習所(東京蚕業講習所と京都蚕業講習所)
 明治31年10月31日練木所長が退職し、後任に農事試験場長の澤野 淳が兼任で任命された。上記の『京都蚕業講習所明治36年度事跡報告』の「沿革」にあるように、翌明治32(1899)年3月、蚕業講習所官制が改正され(勅令第89号)、6月の告示第61号によって京都にも蚕業講習所が設置された。京都の蚕業講習所は、名称を「京都蚕業講習所」といい、松永伍作が初代所長に任命された。京都蚕業講習所新設に伴い、東京の蚕業講習所は、東京蚕業講習所と改められ、引き続き澤野 淳が初代所長として就任した。


図3 初代農事試験場長澤野 淳の胸像
  (つくばリサーチギャラリーに保管展示されている)

勅令第八十九號                          (明治三十二年三月三十日)
 蠶業講習所官制
第一條 蠶業講習所ハ二箇所トス農商務大臣ノ管理ニ属シ左ノ事務ヲ掌ル
 一 蠶業ニ關スル講習
 二 蠶業ニ關スル試験及調査
 三 巡回講話
 四 蠶種配布
 五 質問應答
第二條 蠶業講習所ニ左ノ職員ヲ置ク
 所長
 技師
 舎監
 技手
 書記
第三條 所長ハ一人技師ヲ以テ之ニ充ツ農商務大臣ノ指揮監督ヲ承ケ所中全般ノ事務ヲ掌理ス
第四條 技師ハ上官ノ指揮ヲ承ケ所務ヲ掌ル
第五條 舎監ハ二人技師又ハ技手ヲ以テ之ニ充ツ上官ノ命ヲ承ケ講習生ノ取締ヲ掌ル
第六條 技手ハ上官ノ命ヲ承ケ所務ニ従事ス
第七條 書記ハ判任トス上官ノ命ヲ承ケ庶務ニ従事ス
第八條 蠶業講習所ヲ通ジテ専任技師七人専任技手十二人専任書記六人ヲ以テ定員トス
第九條 蠶業講習所ノ位置及名稱ハ農商務大臣之ヲ定ム
  附  則
本令ハ明治三十二年四月一日ヨリ施行ス
蠶業講習所名稱位置    明治三十二年六月告示第六十一號
  名  稱        位  置
 東京蚕業講習所    東京府下北豊島郡瀧ノ川村元西ヶ原
 京都蚕業講習所    京都府下葛野郡衣笠村

 以上のように明治32年6月に拡大整備された蚕業講習所の組織は、試験部と伝習部の2部に分かれ、試験研究と技術の指導伝習を行ってきたが、その内容はもっぱら裁桑、養蚕、蚕種といった蚕業部門が中心であった。

2.蚕業講習所製糸部の設置
 明治の初め頃、わが国の輸出生糸の主力は、日本在来の座繰繰糸によるものが中心であったが、明治6年には官立の富岡製糸場が設立され、洋式製糸が始められた(当時の様子は、和田英の『富岡日記』に詳しい)。またそれを遡る明治3年には前橋藩営の洋式製糸所が(深沢こうの『上州蚕業秘史・関根夜話(器械糸繰り事始め)』に詳しい)、明治4年には民営の小野組築地製糸場が東京築地に開設された。長野県の岡谷を中心とした諏訪地方で生産された生糸が、横浜の生糸商人によって「信州上一番」という名称で呼ばれるようになった明治30年頃には、器械製糸が主流になってきたが、当時の製糸業の情況を見ると、小規模な家内工業的業者が機械を取り替えたものが多く、技術面においても立ち後れており、新しい先進技術を導入するためには、蚕糸教育の普及が急務とされた。
 例えば、平成12年6月発行の『製糸科ものがたり−信州大学繊維学部』には、「御法川直三郎自伝」(1933)の次の部分を引用して製糸教育の胎動期を紹介している。

 本邦の蚕糸業は年と共に発達し、明治十九年から東京西ヶ原に蚕病試験場が設けられ、次いで蚕業試験場、蚕業講習所等と改称せられたが、主として養蚕方面の研究の傍ら、その教育に当たり、又地方には蚕業学校、農学校蚕業科、農事講習所其他の蚕業教育の機関は設けられていたが、これ又養蚕中心で、製糸業に対しては最も大切な教育機関は明治三十年代になっても全然設けられていなかったのであります。従って製糸に就事する人々を見るに、経験のみで、基礎知識を有っていない、所謂見番上りと云った人達が中心になっているのであるから、他の工業のやうに時勢の進歩と併合し、或いは一歩これに先行するような進んだ考への所有者は殆ど見出せない。若しあるとしたならそれは稀に観る天才の士で他は孰れも時勢の進運に対して殆ど無関心に過ごしていた。これが製糸業不振の一原因をなすものだとの考えを私は夙に持っていたのであります。それには国家が率先して製糸教育の機関を設くべきであると思ひ、知己の代議士目黒貞治君を通じ明治三十二年自由党総理板垣退助伯に西ヶ原蚕業講習所を見て頂いたこともありました。当時の政府も製糸教育の必要を感じてはいたが予算が許さないので着手するに至らない。然らば民間の有力者がこの与に出づるかと思ふに、誰も手を出すものがないのであります。そこで私は意を決し私財を投じ東京市小石川区戸崎町に校舎を新設し、明治三十三年修業年限一ヶ年の製糸専修学校を開校した。これが本邦における製糸教育の嚆矢であります。

 こうした時代の要請に応え、明治35(1902)年3月「蠶業講習所官制」改正(勅令第百六號)、更に同年4月「訓令第九號處務規程」が改正され、これにより、従来の試験部と伝習部を廃止し、養蚕部と製糸部が設置された。従来行われていた、試験および調査は、この後、養蚕部・製糸部に分けて行うこととされた。但し、この規程の付則によると、製糸部は東京蚕業講習所にしか設置が認められなかったため、京都蚕業講習所においては、養蚕部において製糸に関する事務も所掌することとされた。
 さらに6月、東京蚕業講習所においては、従来の伝習規程に代わって次のように講習規程を定め、従来の講習科は養蚕講習科と改称し、新たに製糸講習科を設置した。

 科 名 終業年限 定 員
養蚕講習科 本  科 2 年 50名
  別  科 6カ月 60名以内
製糸講習科 本  科 2 年 40名
  女生本科 2 年 40名以上
  女生別科 10カ月 40名以上
研究科 3カ月/1年 10名以上

 『本多岩次郎先生傳』(昭和13年)によると、本多岩次郎は横浜生糸検査所今西技師に相談し、製糸科新設当時の陣容を次のように整えたという。
    石居一郎:赤坂内藤新宿試験場に学び、当時近江八幡製糸株式会社の工場長
    町田 穣:蚕業試験場出身、富岡製糸場を経て当時神戸生糸検査所技手
    岩淵修三:小野組築地製糸場を経て製糸教導者を経験。当時横浜生糸検査所
    三谷 徹:御法川製糸学校教師
    松下憲三郎:京都城丹蚕業講習所教師
    圓中文助:横浜生糸検査所技師
 ちなみに、御法川の造った東京製糸専修学校は、西ヶ原東京蚕業講習所に製糸科が新設された明治35年3月に閉校している。  明治35(1902)年11月には、新蚕業講習所の蚕種配付規則が次のように改正されている。

                                                 (官報第5814号 明治35年11月19日 水曜日)
農商務省令第二十二號
 蠶業講習所蠶種配付規則左ノ通改正ス
    明治三十五年十一月十九日        農商務大臣 男爵 平田東助
 蠶業講習所蠶種配付規則
第一條 蠶業講習所ニ於テ製造スル蠶種ハ原種トシテ左ノ各號ノ一ニ該當スル者ニ限リ無代償ニテ配付ス
 一 蠶種検査法ニ依ル蠶種製造者
 二 蠶種業ニ關スル學校、講習所、傳習所又ハ試驗場
第二條 蠶種ノ配付ヲ請求セムトスル者ハ管轄道府縣廳ノ證明ヲ得テ毎年四月十五日迄ニ種名及蛾數ヲ明 記シ所轄蠶業講習所ニ出願スヘシ
第三條 蠶種ノ配付ハ請求者一名ニ付五百蛾以内トス
第四條 蠶種ノ配當ハ出願ノ順序ニ依リ之ヲ定ム
 配當ヲ受クルコト能ハサル者ニハ九月三十日迄ニ其ノ旨ヲ通知スヘシ
第五條 蠶種ノ配付ヲ受ケタル者ハ別記雛形ノ飼育成績表ニ其ノ蠶種ヨリ得タル繭二升ヲ添付シ翌年八月 三十一日限リ所轄蠶業講習所ニ報告スヘシ但シ數種類ノ配付ヲ受ケタル者ハ一種類毎ニ本文ノ手續ヲナ スヘシ
第六條 前條ノ義務ヲ履行セサル者ハ爾後三箇年間蠶種ノ配付ヲ受クルコトヲ得ス
第七條 第一條第二號ニ該當スル者ノ出願ニ對シテハ第二條ノ證明及期日竝第五條ノ繭添付ニ關スル規定 ヲ適用セス
(別 記) 
  配付蠶種成績表(省略)

 明治35年8月1日に挙行された東京蚕業講習所卒業証書授与式における澤野所長の式辞は、新しい段階を迎えた蚕業講習所について、次のように述べている。少し長いが、当時の講習所の想いが表れていると思われるので、全文を引用する(『大日本蠶絲會報第壱百弐拾弐號』54〜55頁)。

所 長 式 辭
 農商務大臣閣下來賓諸君本日本所の卒業證書授與式を擧行するに當リ親く賁臨の榮を辱ふしたるは本所の深く感謝に堪へさる所なり
 本日卒業證書を授與したるは本科二十名、別科四十一名及修業生二名なり修業生に清國の留學生にして本所に在學すること三年間本所規定の別科相當の學理と技藝とを修得したる者なりとす
 抑も本所は去る明治十七年農商務省に於て創設されたる蠶病試驗場に胚胎せるものにして爾來茲に十有九年此間斯業の進歩と發達とに伴ふて漸次其規模を擴張し組織を改善し或は斯業に聞する各種の試驗研究を行ひ或は技術者の教養に努め以て今日に至る其沿革の概要は前に諸君に呈したる本所一覧に詳記せるを以て既に諸君の了知せらるゝ所なる可し
 去二十九年蠶業講習所官制の發布されて以來在學期二箇年の本科卒業生を出すこと五回別科卒業生を出すこと六回即本年までに於ける卒業者は本科百七十一名別科二百八十一名にして之を明治二十九年以前に於ける卒業者一千百六十三名に合すれば其總數は實に一千六百十五名の多きに上れり此外京都蠶業講習所に於て去三十二年設置以來養成せる生徒の數は合計百六十一名ありとす
 東西蠶業講習所は本科別科の外其卒業生にして更に既修の學科に就き深く調査研究せんとする者の爲めに研究科なるものを設けあり而して本所研究科に入學せる者は總て五十一名にして内研究の成績満足なりと認め證明書を附與せる者三十四名あり此外一昨三十三年農商務省訓令第十四號に基き蠶病消毒法の普及と勵行とを企圖せんが爲め之が講習を開設し各地方長官の推薦に係る講習生四十名に對し其學理と技術とを講習せり本年も亦昨年と同く各府縣より五十名を召集して講習せんとするの準備已に成れり而して右等本所の養成したる多くの卒業生が現下從事しつゝあるの業務は各府縣に於ける技術官又は農學校蠶業學校養蠶傳習所等の教師若くは蠶種檢査員等の公職に從事する者其大部を占め其他の者にありては概ね皆郷里に在りて養蠶製絲の業に従事し之が改良發達の卒先者として各其専門の途に盡瘁し貢献しつゝあるなリ
 又卒業生中には清國の傭聘に應じて斯業の教育に從事せる者前後六名今尚彼地に在りて職に從ふ者三名あり又海外より來りて斯業を本所に學びし留學生は清韓合せて前後九名内既に業を卒り歸國して斯業教育に従事する者三名今回修業せる者二名今尚在學せる者二名中途退學せる者二名なり
 以上の如く斯業に關しては去明治十七年以來試驗傳習に力を盡せるの效空しからず今や卒業生を出すこと一千八百有餘名の多きに達し其試驗の成績を編輯して當業者に頒布せるもの亦枚擧に遑あらず本邦斯業の改善と發達とに資せる所のもの蓋し尠からざるへきを信ずるなリ
 而して養蠶業と最も密接の關係を有する製絲業に就ては本邦未だ之が試驗調査若くは技術者の養成に關し殆んど其機關の設備を缺如せるは本官の常に遣憾とせる所なりしが幸にして本年度より本所に於て製絲業に關する試驗及講習を開設することゝなり多年の宿望茲に始めて其緒に就くを得るに至れり是を以て本所從來の組織を改め養蠶製絲の二部と報告庶務の二課を置き事務を處理することゝなせり即ち養蠶部にありては從來の通專ら養蠶に関する講習と試驗とを施行し製絲部にありては専ら製絲に關する講習と試驗とを施行することゝなし本年十一月より開始するの運びとなり居れり而して今回は本科男生二十名本科女生十名別科女生三十名を募集す其の在學年限は本科に在りては養蠶部本科講習生と同じく男生女生共に二箇年別科は十箇月間にして卒業後は男生にありては主として製絲技術の指導者となし女生にありては專ら製絲工場の教婦となすの目的を以て養成せんとす想ふに將來此卒業生が各地に出でゝ修得せる學術を斯業に應用するに至らんか本邦斯業界に偉大の效果を收むべきは今日より本官の深く信して疑はざる所なりとす
 終に臨み尚一言すべきものあり本所に於て経營する事業は他の學校試驗場等とは大に其趣を異にする鮎少からざること是なり即ち第一には講習生は入學以前既に三箇年以上の實地経験を有する者のみを募集すること第二には教授科目は單に既知の事項のみに止まらず試驗の結果より得たる嶄新の事績を直接に授け或は講習生をして之が實験を爲さしむること第三には試驗及講習の事業は常に斯業行政官廳たる農商務省の方針に伴ふこと例之蠶種検査法の發布あるに於ては當該技術員たるへき者を養成し蠶病消毒法施行の訓示あるに於ては之に關する試驗竝に講習曾を開始する等の如き之なり第四には本所に入學する講習生は前記の如く三年以上の實驗を有する者たるのみならず悉く丁年以上の者なるが故に其卒業後は在學中に於て修得したる學理技藝を實地に應用し竝に之が普及を圖る上に於て遺憾とするの鮎少きこと等其重もなるものなり
 以上は本所の普通の學校試驗場等と異なる點の概要にして其名稱は蠶業講習所なるも事實に於ては蠶業試驗兼講習所なりと謂ふを得べし
 次に卒業生諸子に一言すべきものあり諸子は入所以來能く本所の規則命令を守り能く勤勉精勵せる效空からず本所規定の學科を卒へ考試完くして茲に農商務大臣閣下を始め朝野貴賓の面前に於て卒業證書を受くるの榮を荷はれたるは本官の洵に慶賀に堪へざる所なりとす
 諸子は本所に入學するの前既に三箇年以上の経驗を有し其入學せるの後は最も嶄新なる學理と最も進歩せる技藝とを修得せられたるものなり社曾は喜んで諸子の如き學理に富み技藝に熟せるの士を迎へつゝあるなり而して諸子は本日此式と共に社曾に紹介せられたるものにして諸子が將來本邦斯業の改善進歩を期するの上に於て負ふ所の責任決して輕しと爲さヾるなり
 夫れ諸子の先輩は既に出でゝ其公共事業に従事すると個人事業に従事するとに論なく斯業に利uを與へつゝあるなり諸子は此等先輩諸子と相提携し其修得せる學理と技藝とを應用し一層の勉勵と一層の忍耐とを以て斯業に盡瘁するところなかるべからず諸子が今後社曾に出でゝ實地に當るに及んでは種々なる困難と障礙との蟠ることを記臆せざるベからず故に諸子は宜しく其品行を正しくし其志操を高くし誠實熟心能く困難に堪へ障碍を排しu進んで學理を修め技藝を練り以て諸子が將來に負へる責任を全ふし本所養成の主旨に辜負する勿らんことを是れ本官の切に希望するところなり聊か一言を述べて式辭となす

 翌36年2月大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に審査官として出張していた、澤野所長が急病で死去したことにより、本多岩次郎が東京蚕業講習所長に任命された。

3.夏秋蚕部の設置
(1)夏秋蚕部設置の経緯

 それまで、養蚕といえば春蚕が中心であった。しかし当時は、蚕種冷蔵庫がなく、浸酸人工孵化法なども知られておらず、夏秋蚕用には専ら2化もしくは多化性の不越年種、または1化もしくは2化性越年種(風穴で発生を抑えたもの)が用いられていた頃のことで、夏秋蚕に関しては蚕種保護から栽桑、飼育法に至るまで試験研究が少なく、技術もきわめて幼稚であった。そのため夏秋蚕を行っても違作したり繭質の劣る例が少なくなく、「夏秋蚕と味噌汁は当たったためしがない」と言われるような情況であった。しかし、水田作業等とかち合わず、労働配分や施設の利用度を高めるうえから好都合であり、現金収入も増やせたので、農家は好んでこれをとり入れたため夏秋蚕飼育は年々盛んになっていた(明治40年総産繭量約12.9万トンのうち夏秋蚕繭は約4.5万トン)。
 また、夏秋蚕飼育に関しては学識者の間でも賛否両論で、夏秋蚕亡国論が言われる反面、「夏秋蠶に対する世の迷妄を排す」(『大日本蠶絲會報』第弐百壱拾九號)といった論説が書かれるというように、その得失について両論があることから、政府としてもその方針を決することができなかった。
 このような情勢の中で東京蚕業講習所夏秋蚕部が松本に設置されるようになった発端は、明治39年11月12日に、東筑摩、南・北安曇、諏訪の4郡の、蚕種同業組合長が集まり、「政府は夏秋蚕にあまりに無関心である」として「国立夏秋蚕専門講習所」の設立要請を決め、代表が請願書をもって上京したのにはじまるといわれる(『長野県蚕糸業外史』)。これを契機として長野県選出代議士らによる「夏秋蚕講習所設置の急務」と題する印刷物の貴族院・衆議院両院への配布などの啓蒙活動、全国農事会および関東区実業大会における夏秋蚕研究の必要性の決議、大日本蚕糸会会頭松平正直による松岡農商務大臣への夏秋蚕講習所を要望する建議(明治40年1月18日)などが相次ぎ、設立機運が高められた。

   建 議 書
 本邦ノ蠶絲業ハ國家經濟ノ現状ニ鑑ミ大ニ之ヲ奬勵啓發セサルヘカス就中夏秋蠶ハ普通農事トノ關係上將又蠶絲産額ノ急増ヲ期スル上ニ於テ之カ發展振興ヲ企圖スルノ極テ切要ナルヲ感スルナリ
 輓近夏秋蠶ハ春蠶ニ比シ長足ノ進歩ヲ為シ其飼育戸數ト掃立蠶種ノ枚數トハ漸次増加シ随テ産繭額モ亦多キヲ加ヘ頗ル欣躍スヘキモノアリ然レトモ此等ハ表面ノ現象ニシテ退テ其實況ヲ洞觀スレハ甚寒心ニ堪ヘサルモノアリ何トナレハ夏秋蠶ハ年ニ依リテ豊凶ノ差甚シク當業者ヲシテ往々數枚ノ蠶種ヲ掃立テ若干ノ桑代金ト幾何ノ勞力トヲ擧ケテ水泡ニ屬セシムルコトアリ之ニ加ルニ繭ノ品位モ亦概シテ良好ナラス是レ固ヨリ夏秋蠶ニ對スル當業者ノ智識幼稚ニシテ其技術ノ未タ熟セサルモノアルニ職由スヘシト雖モ蓋シ學術的研究ノ之闡明スルモノアラサルハ之カ調査攻究ノ機關ナキニ依ルハ瞭ナル事實ナリ調査攻究ノ機關ハ到底之ヲ民間ニ求ムヘカラスシテ必ス政府ノ施設ニ待サルヘカラス然ルニ未タ政府ニ之カ施設ナキハ頗ル遺憾トスル所ナリ若シ夫レ蠶種ノ貯藏、生種ト風穴種トノ利害得失ノ研究及桑樹栽培上ノ經濟調査ノ如キニ至リテハ實ニ焦眉ノ急ニシテ一日モ寛假スルヲ許サヽルモノアリ
 要スルニ現今夏秋蠶ノ發達ハ眞ノ發達ニアラス産額ノ増加ニ過キスシテ其裏面ニ大ニ憂フヘキモノアリテ存ス故ニ此等ノ問題ヲ速ニ調査攻究シテ解決ヲ與フルニアラスンハ容易ニ斯業ノ發達安固ヲ望ムヘカラサルモノアリ従來東西蠶業講習所ニ於テ之カ試驗研究ヲ行フトハ雖モ其規模狭少又所在ノ地理其宜シキヲ得サルヲ以テ夏秋蠶ノ發達急速ヲ要スルノ今日此問題ヲ解決スルニハ頗ル不備ナルヲ認ムルナリ依テハ是非本年度ニ於テ専門ノ夏秋蠶講習所ヲ施置セラルヽカ或ハ蠶業講習所ヲ攪張シ適當ナル地方ニ其支所ヲ設置セラレ夏秋蠶ニ關スル問題ヲ解決シ當業者ヲシテ安シテ夏秋蠶ノ飼育ニ従事セシムルト同時ニ之カ智識ヲ有スル人物ヲ養成シ以テ實地指導ノ任ニ膺ラシメ本邦蠶業ノ基礎ヲ確立シ國富増進ノ資ニ供セラレンコトヲ希望ニ堪ヘサルナリ
右建議仕候也
 明治四十年一月十八日           大日本蠶絲會頭男爵 松平正直
  農商務大臣松岡康毅殿

 明治40年2月16日、工藤善助代議士他5名の連名で“夏秋蠶に關する研究は、目下の急務なるにより、速に其講習所を適當の地に設置するの計畫を立て、之に要する経費は明治四十年度追加豫算として、本期議會に提案せられんことを望む”という趣旨の夏秋蚕講習所設置建議案が帝国議会に提出された。政府はこれをいれ、41年度予算に東京蚕業講習所分場設置費4万円を計上し、設置候補地として群馬、山梨、長野の3県を選定した。綿密な調査を経て候補地は群馬と長野にしぼられ、両県に用地選定の依頼、実地踏査などがなされ、明治41(1908)年6月、最終的に松本市への設置が決定した。松本が選ばれたのは、この地方は風穴での蚕種保護発祥の地で、その数も多く、夏秋蚕種の本場として知られ、飼育量も多く、気候・風土なども夏秋蚕に適しているとみなされたことが決め手になったものとみられる(『大日本蚕史』)。
 東筑摩郡と松本市では、東京蚕業講習所夏秋蚕部の設置が地元に決まったことを大いに歓迎し、その用地50,820u(代金10,013円)を郡と市の費用折半で負担して寄付した。また市は夏秋蚕部のために中町から同部までの直線道路(現日の出町)を市費2,500円をかけて開通させた。夏秋蚕部の用地は、畑(66枚)と原野、墓地などで、付近の民家は4戸だけであった。夏秋蚕部の建設は41年10月にはじまり、翌42年3月に完成した。夏秋蚕部長には、十時雄次郎が任命された。開所当初の職員は7名で、うち技師は4名であった。
 開所当時の夏秋蚕部内外の模様を地元の新聞は次のように伝えている。「新しい夏秋蚕部は松本市四ッ谷にあり、松本停車場より東方15〜6町のやや高所に位置している。東は東筑摩・小県両郡の境を走る武石峠の連山をせおい、北西南は松本平につらなり、日本アルプス連峰を望み、風光絶佳にして概して乾燥の地である。市内中町を東へ向っていくと、東町の方へ曲るその角から新しい道が開かれている。その新道を真すぐに行くと、むこうに洋風の建物が見える。それが夏秋蚕部である」「構内の東より西に向って1本の水路が走っている。桑畑の中央に小さな丘があり、そこにのぼれば畑全体が見わたせ、はるかに目を転ずれば日本アルプスが望める。丘には樹齢数百年を経た榎の老木がうっそうと茂っている。‥‥‥」。


図4 原蠶種製造所松本支所(元の蠶業講習所夏秋蚕部)

 夏秋蚕部の開所式は42年6月30日、農商務次官、県知事など400余名を迎えて行われた。本多東京蚕業講習所長はその式辞で「東京の本所から遠く距離をへだてて統轄上いろいろ不便があるにもかかわらず夏秋蚕部を松本に設けたのは、当地が秋蚕の発祥地として古い歴史をもち、かつ最も隆盛であることから、現場の実態をつまびらかにしたり、実社会の要請にこたえる適切な問題をとらえるのに便益が多いと信じたためである」と述べている。式につづいて祝宴があり、余興として手踊り、素人相撲、打上げ花火などがなされ、参会者には開所記念の絵葉書等が贈与された、と記録にはある。

  本多岩次郎蠶業講習所長挨拶
(前略)當時(明治32年)に於て蠶業講習所が當に為すべきして為さざりし二個の緊要なる事業が残って居ったのでござります一は製絲に關する試驗竝に講習二は夏秋蠶に關する試驗竝に講習、これであります、右の二者は吾々當局に於て何れも緊急施設を要すべき事業と認めたるのみならず斯業界の與論も亦之れが急設を要望致しましたが、當時内外の事情はこの両者の施設を同時にすることを許さず遂に第一の製絲に關する事業を開始することになりまして先づ東京蠶業講習所に於て製絲部を特設致しました是れ實に去る明治三十五年の事であります、次に直に夏秋蠶に關する試驗竝に講習の事業をも施設すべく計畫致しましたが、未だ其時機に達せずして三十七八年事件が起りましたそのためこの儀は暫く中絶するの已むを得ざるに至りました。
 諸君三十七八年事件は我國に於きましては誠に光輝あり名誉ある結果を以て平和克復に至りましたが併し之と同時に國家は戦後經營なる一層複雑多端にして且つ重大なる事業を負擔せねばならぬ事となりました、為めに當時殖産奬勵の急要一般に認められしにも拘らず本事業の如きも容易に其目的を達する機會を得まぜず荏苒日を送りましたが朝野人士の盡力に因り遂に第二十四議會の協賛を得茲に始めて多年の宿望を現實にすることを得ました次第であります。而して又夏秋蠶に於て掌るべき業務は諸君の既に知らるるが如く夏秋蠶に關する全般の事項即ち蠶種々類の調査、蠶種の製造及び保護法、夏秋蠶の飼育法夏秋蠶用桑樹竝に栽培法等に關する試驗調査を以て主要の目的とするのであります。
 今規程の示す所に依り其大綱を擧ぐれば次の通りであります即ち(一)夏秋蠶に關する試驗及調査(二)夏秋蠶に關する巡囘講話(三)夏秋蠶に關する質問應答、これであります。而して尚當部設置の目的の一たる講習の事は故ありて未だ開始の運に到ざるを遺憾と致します。
 諸君當夏秋蠶部は誠に以上の如き長き年月と困難なる經過とを以て初めて生れたのであります而して今後以上の如き業務を負擔せんとするのであります、然れども今や僅かに其産聲を擧げ得たるのみであります自今以後成長して活社會の實用をなすに至る迄には前途誠に遼遠なのでござります。加之實業に關する試驗なるものは純粋の學者が純粋なる學術上の研究に從事するものとは大に其趣を異にする點があるのであります即ち純粋の學者として學術上の研究を爲すには必ずしも世間の實務に接觸するの要なけれども實業に關する試驗事業に至つては然らず能く時代の要求に應じ實務の經營上直接必要あり且つ利益あるべき問題の解決を以て主要の目的とせねばならぬのであります。故に試驗事業を經營するには先ず斯業者の實情を詳かにして以て實社會の要求に應ずべき適切なる問題を捕へる事極めて緊要なものであります此の適切なる問題を捕へ得ると否とが即ち試驗事業の成否の分るる處であると云ふて不可ないのであります、是れ實に東京を距ること遠くして統轄上幾多の不便あるにも拘らず敢て本部を當地に設けたる理由の重なる點であります。
 蓋し當地方は秋蠶の發現地にして最も古き歴史を有し且つ最も隆盛にして此等の點に對する便利甚だ多しと信じたからであります。
 然れども既に述べたるが如く當部は今や僅に産聲を擧げたるに過ぎずして設備未だ整頓せず規模亦甚だ小にして現に技術に關係ある職員の如き全體を通して僅か四人に過ぎませぬので親しく地方を巡視して其状況を一見する事すら容易に許さぬ樣な次第であります。故に急速に蠶業界に期待する所に應ぜんことは甚だ困難とする所であります是吾々が夙に憂慮して惜がざる所であります。(中略)當夏秋蠶部の設置は上來述べ來りたるが如く吾々當局多年の希望ではありましたが併し他の一面より之れを云へば、全く當業者諸君の要求と盡力とに因りて成りたるものと云はなければなりませぬ、特に當縣前代議士諸君の如きは、一面に於ては社會に向つて之が設置の必要を唱導して輿論を喚起し、一面に於ては議會に於て或は其建議案を提出し或は之が通過に盡力せられたるが如き其功勞は決して沒すべからざるもので、本部は實に此等諸君の提唱盡力に因りて生じたるものと云ふて不可ないのであります。又當部の位置選定に就きましては大山知事閣下並に岡田内務部長以下縣廰吏員當東筑摩郡前郡長水上君現郡長濱君以下郡役所員松本市長小里君以下市役所員並に當部蠶種同業組合長鳥羽君蠶病豫防事務所々長長澤君其他當業者諸君より多大の熱誠と盡力とを蒙りましたが此設置を選定し得たるものは全く此等諸君の盡力に因ることであります。又東筑摩郡及び松本市に於ては當部の設置に就いては多大の同情と好意とを以て迎へられ敷地並に試驗地の全部即ち一萬五千有餘坪の土地を寄附せられました尚ほ又當市に於ては市街より當所に通ずる道路の不便なるを憂ひ特に數百間の新道を開鑿されましたのであります當部の設備上並に事業の爲に受けたる便益は頗る多大であります、茲に謹で御披露申上げ且つ深く感謝の意を表します 云々
  十時部長の報告書
 閣下竝に諸君余はこの盛典に際し當部既往の概要を陳述するの光榮を有す、昨春當夏秋蠶部設置の決議せらるるや當局は事業の經營上必要と便宜なる條件を具備せる地方に、之が設置の方針を樹て其候補地を群馬山梨及び長野の三縣に取り就中群馬及長野縣を適當と認め二縣當局に對し右候補地の豫選を依頼し、次で實地踏査の結果松本市を以て比較的優良と認め更に縣當局郡當局竝に地元關係人士と協議を遂げ再應調査の結果愈々この地を卜するに至りしは實に昨年六月なりとす、超へて昨年十月假事務所を當地に設け土地整理竝に建築工事に着手せしも時恰も嚴寒の候に際し漸く本年三月を以て昨年度豫定の工事を了するに至れり、而して本年三月十八日東京蠶業講習所官制改正せられ當部は東京蠶業講習所夏秋蠶部なる名稱を以て當地に設立する旨發布せらる。今當部の概況を述べん、
 土地は一五三〇一坪五合にして内敷地二九四一坪五合桑園一〇二三六坪なり、建築物は事務室四〇坪一棟蠶室七四坪二棟冷藏庫六五坪一棟其他附属物四棟にして合計二八六坪七合八勺六才也、冷藏庫は冷藏及機關の二室に大別せられ米國シミントン會社製アンモニア壓搾機及機關を据へ付け冷藏室の攝氏五度より二七度五に至る二二度五を十室に分けアンモニアの氣化作用により冷却せし鹽水を通して各室を冷却せしむるの装置なりとす、尚本年度に於て建設するべきもの實驗室一棟貯桑室一棟其他附属建築五棟なりとす、恕上の如く當部はその規模小に設備未だ整はず其局に當るもの不敏なり、果して豫期の効果を奏し得べきや自ら疑はざるを得ず、希くは上局の鞭撻と來賓諸君の熱き同情と深き補助により一日も早く發達を遂げ當部設置の目的に近からんことを祈るのみ。

(2)夏秋蚕部における研究
 夏秋蚕部においては“明治42年には、生種冷蔵試験、生種保護試験、風穴蠶種催青試験、生種抵抗力試験、不越年蠶種胚子発育温度調査等の試験が、明治43年には、秋蚕生種原種取採製試験、化性変化の研究、生種原蚕飼育試験、生種と黒種との比較試験、入庫時期と胚子発育との関係調査、出庫時期と胚子発育との関係調査、貯蔵温度と胚子発育との関係調査、風穴蚕種不発生卵の原因調査、風穴蚕種の貯蔵温度と貯蔵期間に関する試験、風穴蚕種の貯蔵温度の変化に関する試験、風穴蚕種の低温接触期間に関する試験が行われ、明治44年には、生種黒種比較試験、黒種製造時期試験、越年蚕卵貯蔵温度試験、越年蚕卵催青温度試験、催青容積試験、秋蚕黒種再入庫試験、生種製造試験、風穴蚕種貯蔵温度試験、風穴蚕種貯蔵前に於ける保護温度試験、風穴蚕種の貯蔵前高温接触試験、化性試験、原種貯蔵並に究理法と第二期製との関係試験、人工三化試験、風穴蚕種貯蔵器容積試験、秋蚕種類試験、人工越冬法試験、高温貯蔵越年卵胚子調査、秋蚕原種試験等が行われる予定のようであるが、これらの試験結果は年一回の成蹟報告以外には世の中に出て行かない。知識は普及してこそ価値があるので、夏秋蚕部は之を独立させ、拡張して夏秋蚕講習所とすべきである”(鳥羽久吾、大日本蚕糸会報第233号)という意見に見られるように“蚕業講習所”夏秋蚕部であったが、試験調査が主業務であり、業者からの要望の強かった講習生の養成課程は実現しなかった。こうした情況も一因しているのであろうか、翌明治43年4月には、従来の養蚕部、製糸部、夏秋蚕部として養蚕講習科、製糸講習科を設置していた体制を改め、講習部、試験部、夏秋蚕部と組織改正を行っている。


 目次に戻る