Y.原蚕種製造所(明治44年)

1.蚕種統一論議の背景
 すでに述べたようにフランス、イタリアでは微粒子病を克服した安定的な生産が行われていたこと、それに関連してこれらの諸国では国内の養蚕、絹業保護策を強化したこと、中国でも生糸生産が増加したことなどから、世界市場での競争が激化し、その結果日本の生糸の輸出先としてはそれまでの欧州から、アメリカへと比重が移ってきた。アメリカ向け輸出の増加過程の中では、アメリカ市場から、品質が一定でない、糸質が雑駁である、といった苦情が頻繁によせられるようになってきた。アメリカ市場の品質改良要求に応えた蚕糸改良運動の推進、輸出用の生糸検査といった点も重視され、その過程で明治28年8月横浜に生糸検査所が開設された。
 欧米の視察を終えた蚕業講習所技師本多岩次郎は、明治30(1897)年7月発行の『大日本農會報』第百九拾號の中で、イタリア、フランスの蚕繭は概ね同一品種で、日本のように一地区に多数の蚕種のあるところはほとんどなく、それが生糸の品位一定を生み出していると考えられる、と次のように報告している。

歐米に於ける本邦生絲の需用 (第十六回大集會に於いて演述)
 私は昨年官命を帯びまして歐羅巴及び亜米利加へ蠶業視察の為め出張を致しまして本年早々歸って參りました。(中略)
 亜米利加で使用する処の生絲は殆ど五割二分程も日本の生絲を以て充して居る有様でございます故に亜米利加は日本に對して最も大切なる御得意先きであります、最も亜米利加絲況の盛衰は日本の蠶絲業に關係することが多いのでございますからして亜米利加に於て日本の生絲の評判が如何であるかと云うことを調ぶるのは最も必要なことであります、夫れに就て調べた所は今迄領事及び我當業者若くは合名會社同伸會社等から續々日本に報告があって日本の絲は亜米利加に於て評判が悪い、其評判の悪いと云うのは色々ありますが、之はもう再三向ふから報告が來て新聞紙や雜誌に載って居りますから既に諸君は御承知でありませうが、先ず唯今の所で此評判の悪いのは六箇條であります、其第一は即ち生絲が統一でなく太い細いが有る事、第二は絲に細毛を生じて居る即ち細いけばが有る、立派に織物にしても透かして見ると其織物の上に非常にけばが立って居ると云ふ缺點がある、第三は類の多いと云ふことである、伊太利、仏蘭西及び支那から來る絲は割合に類が少ないが、日本のは多いと云ふのが是亦向ふの苦情の一つである、第四は綾が不完全で有る、綾を懸けることが十分でないから繰り返しに非常に困難である、第五は同じ何會社の絲で同じ等級、商標の下にある生絲が常に同一の品位でなきこと即ち今日來た一等絲と二三箇月經て來た一等絲とでは其品質が違う、夫れでありますから何時にても之が良い之が悪いと云ふ判断を下すことが出來ない都合でございます、夫れで同じ製絲場から同じ質の絲を出さぬと云ふのが向ふの賣買上圓滑を缺く所の苦情でございます、第六は是は近頃起った苦情であります、三四年前迄は此苦情は無かったそうであります、夫れは二本上り三本上り乃至は四本上りであります即ち此等數本上りのある生絲を混して織物に織るときは恰かも細大の絲を交ぜて織ったと同じやうでむらが出來るから非常に機屋が困る、夫故此苦情が昨今大いに起りました、以上六ヶ條の苦情に就きましては向ふから色々報告が來ました

 明治25年に発足した大日本蚕糸会の会報第1号に、名誉会員速水堅曹が「大日本蠶絲會之創設に付一言を述」と題する論説を寄せ、その中で“蠶種の種類頗る多くして同一の生絲を製するに難く又細軟の良質に乏しくて機織家の望に應するの製絲に苦み又近來良質の蠶を養はんよりも寧中以下のものを數多養育するを勝れりとの妄説に迷惑するの傾向あり又製絲業としては兩三年以來粗製濫造の弊を來たし既に米國にては信用を失したること同國領事より詳報あり”と述べており、生絲の品質の不揃いの原因が蚕品種の種類の多さにあることを指摘している。
 『群馬の養蚕』の中にも、“このころ本県の蚕種家には糸質のよい中国種や欧州種を入手して、それによる新品種の育成を試みる者もあったが、いずれの蚕種家も新品種を看板として、販売を広げるために好みの品種の選出をきそった。なかには育成・選抜らしいことはまったくせず、在来品種による製造蚕種に家号や自分の名前をつけて、新品種として売りだす者もあった。この結果、異名同種・同名異種も相当はびこって、蚕品種はおびただしい多数となった”と書かれているように、明治30年を前後して、蚕糸業界で活発に起こった議論は、蚕種統一という問題であった。

2.蚕種統一・繭質統一を巡る意見
 一方、明治40年頃、製糸家の規模が大きくなり、製糸家が希望する原料繭を狭い地域で集めることが出来ず、方々から買い付けるということが起こり、製糸家の方からも、蚕種統一、言い換えれば繭質統一を巡る論議を求める声が大きくなった。こうした状況を受けて政府は、明治42年10月大日本蚕糸会に対し、繭質統一の程度並びにその方法を諮問した。この諮問に対する大日本蚕糸会の答申は、“繭質の統一は本邦蚕糸業の重要問題であり、且つ刻下の急務であるから、政府は中央に蚕種試験所を置き、地方適当の場所に之が支所を設け、種類の試験を行い、其の成績に依り原種の製造を為し、之を系統的に飼育させるのが最も良い方法である”具体的施行方法としては、“原種の製造を特定の資格のある蚕種製造者に限り、原原種は無償を以て之に配布するものとし、蚕品種の選定に関し、蚕種試験所に商議員を置くこと等”というものであった。
 このような答申がだされると、賛否両論が盛んに闘わされた。“まず、反対の烽火をあげたものは長野県東筑摩郡蚕種同業組合であって、同組合は蚕種統一の方法として、原原種官営または原種県営の如きは、民業を奪うのみならず、危険極めて多きものであるから、絶対に不可なりと強調した”(明石 弘『近代蠶絲業発達史』)。廣瀬次郎は、“如何に生絲貿易が日本の命運に重大なる關係ありとするも、之は二十世紀の世の中には珍しき過酷の法案で人権を蹂躙すること甚だしい”(大日本蚕糸会報第221号)と述べている。大日本蚕糸会報第227号では、“蠶絲業問題は国家的大問題なり故を以て編者は内外諸大家の意見を叩きて本欄に収め以て斯業研鑽の資にせんと欲す”ということで特集を組んでいる。その中で伯爵大隈重信は、“蠶種統一が如何に急務ぢゃといっても原原種の製造を官営にして全國の蠶種を統一しやうといふことは、到底不可能の問題ではあるまいか。蠶種は死物ではない。死物でない以上は郵便や葉煙草や食塩などゝ同一に取扱ふことの出來ないことは三歳の童子も能く知って居ることである。夫れを強て官營にせようなどといふことは全く無謀の計畫たるを免れまい(中略)蠶種の統一は理想としては最も良い。良いから出來る丈け其統一に盡力せねばならぬ問題である。が併し官営などゝいふ干渉的政略を止めて他に良法を選澤するが宜しいと考へる”と、趣旨は賛成だが方法は反対という意見を述べている。農学博士横井時敬は、「何故に蠶種統一案に反對するか」の中で、“今度の蠶種統一の政策は大體より云へば國家は無責任である。稍間接責任の位置に立て良種の供給に努むるより、より以上の事は盡さず、危険と思はるる統一の仕事は地方に行はしめんとするのである”“吾々は此法案の全體は害の方が利の方よりも多いといふ結論に帰着すると信ずる”“更に一歩を進めて云へば、我国の大體から云えば、蠶種統一よりも、貿易商品としての生絲統一が更に必要である。而して蠶種統一を以て此目的を達することは出來得べからざることである”と反対意見を述べている。農務局長下岡忠治は、“蠶種統一問題に就てはイロイロ議論もあるが、統一するが是かせざるが是かの問題は今更議論すべきものでないと思ふが、人の意見といふものは兎角一方に偏し易いもので、今日迄聞く處の議論は其賛成といふのも反對といふのも大底極端だから困る、併し絶對に統一の出来やう筈がないといって現在のまゝで良いかといへば、国際貿易とか對外競争とかといふ大きい眼から之を見れば到底現在の儘に捨てゝは置かれぬに依て賛成と反對との中間を採り此の問題の解決を試みやうといふのが吾々の意見ぢや”“固より全國の蠶種を一種や二種に限定しやうといふのではない、統一の出来る丈け統一して、換言すれば雑駁なる蠶種を整理して其土地土地の風土、気候に適應した良種類の普及を圖らうといふのである”“此特設の機關に對しては蠶業試験場といふ名稱をつけた方が適當かとも考へたが、併し名稱は兎も角此所にて原蠶種の製造を行ふ積りにて愈々原蠶種を製造するやうになるのは明後年の春蠶期からでなくてはイケまい”“其製造したる原々種は兎に角現在に於ては強請的に飼育せしむるやうなことをせず希望に依って頒布する積りである”と当事者として賛成意見を寄せている。下岡農務局長は、続けて当時の蚕糸業界の問題点について、“尚今一つ吾輩の考へて居る處を語れば兎角従来は養蠶家と製絲家との關係が密接でない、之は蠶絲業の為に甚だ感心すべからざることで、固と養蠶製絲の二業は歯唇輔車の關係を有すれば、養蠶家の利害は製絲家の利害、製絲家の損得は養蠶家の損得といふ位に各自が考へて親子兄弟も啻ならざる密接の關係を持たせたいものである、彼の伊佛の如きは養蚕家と製絲家との關係は恰も小作と地主といふやうな間柄で一製絲家の要する原料繭は其周囲に在る養蚕家が供給するといふ風であるから、相互に其責任を重んじ自然立派の生絲が生産せらるゝやうになってをる、然るに本邦現時の状態はと顧みれば一部の例外を除く外彼の伊佛の状態とは大に其趣きを異にして製絲家は全国ドコヘでも飛び廻はりて繭を仕入れるから本年の原料仕入地は必ずしも翌年の原料仕入地とは極て居らない、であるから養蠶家と製絲家との關係の圓満でないのは固より怪むに足らずで、製絲家の仕入れた繭が雑駁であるのも當然のことであると考ヘる”“予の理想とする處を遠慮なく語れば大製絲家が一方に偏在して全國から繭を集むるといふ現在の遣方を改めて各養蚕地の中央に一つづゝ製絲場を設け其周圍の産繭額に應じて製絲することにし尚蠶種家と養蠶家との關係を直接にせないで其中間に製絲家を入れ蠶種家は製絲家の好みに応たる蠶種を製造して以て養蠶家に飼育せしむるやうにすれば蠶種の統一は自ら出来るやうになると思ふ”、と述べている。さらに、明治43年3月11日開催の第26回帝国議会には、松田正久他8名により蚕種統一建議案が提出された。

3.生産調査会への諮問
 こうした情勢を踏まえ政府は、明治43年6月20日から農商務省で開催された生産調査会に対し、蚕種統一に関する事項を諮問した。この生産調査会は、“本邦生産に関する重要の事項を調査審議し、及関係各大臣の諮詢に応じて意見を開申するものとし、会長(農商務大臣)、副会長(大臣の奏請に依り内閣に於いて之を命じた)、委員70人以内をもって組織し、特別の事項を審議する時には臨時委員を置く”ものとされ、明治43年4月1日より施行され、大正2年6月廃止されている。生産調査会に設置された蚕糸関係特別委員会のメンバーは、次のとおりであった。
  委員長 加納久宣・子爵
  委員  田健次郎・男爵    箕浦勝人       桑田熊蔵・法博
       野田卯太郎      森村市左衛門    稲田周之助
       外山亀太郎      船越 衞・男爵    横井時敬・農博
       益田 孝        大岡育造       原 富太郎
       千早正次郎      本多岩次郎
 諮問の際の農務局参考案として“(1)国立蚕業試験場を中央に本場1ヶ所、地方に支場数ヶ所を設置して、全国所要原原種の十分の一に該当する、原蚕種を道府県に配布し、将来完全なる統一を行うの段階と為し、且此の機関に依り、蚕糸業に関する技術的試験研究を行はしむること、(2)道府県に於いて政府より配布したる原蚕種を基礎とし、且当分地方在来種中優良のものを選択せしめて、其の管内に於ける蚕種統一に関する施設を行はしむること”の2項を示した。この諮問案は、生産調査会の特別委員会において慎重審議されたが、多くの委員の意見は“蚕種の統一改良は刻下の急務であって一日も之を忽にすることは出来ない。然るに此の機関を蚕業試験場と云う名称にしておくと、学者は徒に品種の研究にのみ没頭して、容易に原蚕種の配布をするようにならない処がある。故に之を原蚕種製造場と為し、其の使命を明確にしておく方がよい”というところに落ち着き、修正の上可決された。この時の参考案には“之を以て将来完全なる統一を行ふの段階とする”としてあったのが、“漸次製造高を増加し、結局強制的に全国の統一を行ふものとす”と変更させられたこと、“國立原蠶種製造場に、官民合同の評議員若干名を置き、蠶種の選定其の他重要事項を議せしむること”の一項が付け加えられた(明石 弘『近代蠶絲業発達史』)。
 政府はこの答申を受け、明治44(1911)年度予算に原蚕種製造所設置に要する経費26万312円を計上し、予算成立と共に原蚕種製造所建設に着手した。同時に、原蚕種配布事業を法制面から補完するものとして「蠶絲業法」を制定した。

 蠶絲業法                   (明治四十四年三月二十八日 法律第四十七號)
第一條 本法に於て蠶絲業者と稱するは養蠶、蠶種製造、生絲製造、眞綿製造、殺蛹乾繭又は蠶種、繭、生絲、屑物類の賣買、仲立若は保管を業とする者を謂ふ
第二條 本法に於て蠶種製造者と稱するは他人に譲渡すの目的を以て蠶種を製造する者を謂ふ
第三條 本法に於て蠶病と稱するは微粒子病、軟化病、硬化病、膿病及び?蛆病を謂ふ
第四條 蠶兒の飼育又は生繭の取扱を為す者は命令の定むる所に依り病蠶及斃蠶の病原微生物並きょう蛆及其の蛹、蠅を滅殺し其の他蠶病豫防の為必要なる施設を為すべし
 主務大臣は學術研究の為蠶兒の飼育又は生繭の取扱を為す者に對し前項の規定を適用せざることを得
第五條 蠶種製造者たらむとする者は地方長官の免許を受くべし
第六條 蠶種製造者は命令の定むる所に依り蠶室及蠶具の消毒を行ふべし
第七條 蠶種製造者は第十一條第二項及第十二條の規定に依る特別蠶種より産出したる繭を用うるに非ざれば蠶種を製造することを得ず
第八條 蠶種製造者は左の各號の一に該當する又は蛾を以て蠶種を製造することを得ず
 一 蠶兒の合同して作りたる繭
 二 繭屑片薄なる繭又は形状不整なる繭
 三 繭屑の量繭の全量百に對し一化性に在りては十一、 化性に在りては八、多化性に在りては七に達せざるもの
 四 蠶兒の發育不良にして収繭の量著しく減少したるもの
 五 體躯の不完全なる蛾
 六 免許を受けたる蠶種製造者に非ざる者の飼育したる蠶兒より産出したる繭
第九條 蠶種製造者は蠶種製造用の蠶兒と同一の飼育時期に於て製絲用の蠶兒を飼育するを得ず蠶種製造者は地方長官の許可を受くるに非ざれば蠶種製造用の蠶兒を譲渡し又は譲受くることを得ず
第十條 蠶種製造者は蠶種製造用の蠶兒を掃立より蠶種の製造を終る迄他の蠶種製造者又は養蠶者と同一の建物又は蠶具を共用することを得ず
第十一條 蠶種製造者は収繭後に於て掃殻及繭、産卵後に在りては出殻繭に付檢査を受くべし但し不越年蠶種に在りても卵の檢査を受けしむることを得
 蠶種製造者蠶種を特別蠶種と為さむとするとき之を框製とし前項の檢査の外越年蠶種に在りては母蛾、不越年蠶種に在りては卵及母蛾の檢査を受くべし
第十二條 主務大臣は前條の規定に拘らず原蠶種製造所、學校、講習所、試験場等に於て製造したる蠶種を特別蠶種と指定することを得
第十三條 地方長官は第十一條の檢査に合格したる蠶種には證印を押捺し其の檢査に合格せざる蠶種は之を焼棄すべし
第十四條 檢査合格の證印なき蠶種及其の蠶兒は之を譲渡し又は飼育することを得ず但し第十二條の規定に依る指定せられたる特別蠶種及其の蠶兒を飼育することを妨げず
第十五條 地方長官は錯誤に依り又は不法に押捺せられたる檢査合格の證印を發見したるときは遅滞なく之を抹消すべし
第十六條 蠶種製造者に非ざる者は蠶種を製造することを得ず
 主務大臣必要と認むるときは學術研究又は自家用の為にする蠶種の製造及其の蠶兒の飼育を許可することを得此の場合に於ては命令の定むる所に依り本法中蠶種製造者に關する規定の全部又は一部を準用す ることを得
 前項の規定に依り製造したる蠶種及其の蠶兒は第十二條の規定に依り指定せられたる特別蠶種及其の蠶兒を除くの外之を譲渡すことを得ず
第十七條 本法を施行せさる地又は外國に於て製造したる蠶種は之を移入し又は輸入することを得ず但し學術研究の為主務大臣の許可を受けたるときは此の限りに在らず
第十八條 主務大臣は必要と認むるときは原蠶種の製造者若は其の譲受又は原蠶種の種類を制限することを得主務大臣は地方特別の状況に依り地方長官をして前項の制限を為さしむることを得
第十九條 主務大臣は蠶種又は繭の賣買又は取引市場に關し取締上必要なる命令を發することを得
第二十條 蠶種の臺紙に關し取締上必要なる事項は命令を以て之を定む
第二十一條 蠶種の冷藏を業とせむとする者は地方長官の免許を受くべし
第二十二條 府縣は命令の定むる所に依り第十一條の檢査其の他蠶病豫防の為必要なる吏員を置くべし
第二十三條 主務大臣及地方長官は必要に應じ種繭の審査及原蠶種の選定を行はしむる為種繭審査會を設くべし
 種繭審査會の設置組織権限及審査選定に關する事項は勅令を以て之を定む
第二十四條 第五條、第七條、第八條第六號、第十一條及第三十八條乃至第四十一條の規定は府縣に之を適用せず
第二十五條 地方長官必要と認むるときは野蠶の飼育採種又は野蠶生繭の取扱を業とする者に第四條第一項の規定を準用することを得
第二十六條 蠶病豫防事務及地方種繭審査會に關し必要なる費用は府縣の負擔とす但し國庫は其の半額以内を補助することを得
第二十七條 府縣は命令の定むる所に依り第十一條の檢査其の他蠶病豫防の為必要なる吏員を置くべし
第二十八條 蠶絲業者を以て組織する同業組合聯合會の設置に付ては重要物産同業組合法第三條及第四條の規定を準用す
第二十九條 前條の同業組合聯合會及一府縣以上を地區とする蠶絲業者の同業組合にして同業組合聯合會に加入せざる者は相互の氣脈を通じ及蠶絲類の海外貿易の發展其他蠶絲業の利益増進を圖る為全國を地區として蠶絲業同業組合中央會を設置することを得
 主務大臣必要と認むるときは前項に掲げたる者の外同業組合聯合會に加入せざる蠶絲業者の同業組合にして蠶絲業同業組合中央會に加入すべき者を指定することを得
第三十條 蠶絲業同業組合中央會の設置を發起せむとする者は主務大臣の認可を受くべし
 前項の認可ありたるときは發起人は同業組合聯合會一府縣以上を地區とする同業組合にして同業組合聯合會に加入せざる者及前條第二項の規定に依り主務大臣の指定したる同業組合の三分の二以上の同意を得て創立總會を開き定款を議決し主務大臣の認可を受くべし
第三十一條 蠶絲業同業組合中央會成立したるときは同業組合聯合會一府縣以上を地區とする同業組合にして同業組合聯合會に加入せざる者及第二十九條第二項の規定に依り主務大臣の指定したる同業組合は 之に加入すべし
第三十二條 蠶絲業同業組合中央會の會議は之を組織する同業組合聯合會及同業組合に於て同業組合の組合員中より選擧したる議員を以て組織すべし
 主務大臣は蠶絲業同業組合中央會の議員定數の五分の一を超えざる特別議員を命ずることを得
第三十三條 蠶絲業同業組合中央會議員の定數配當及選出法竝役員の名稱選任解任及権限に關し必要なる事項は命令を以て之を定む
第三十四條 重要物産同業組合法第六條及第十一條乃至第十六條の規定は蠶絲業同業組合中央會に之を準用す
第三十五條 當該官吏吏員は蠶病豫防に關し蠶種又は生繭の取扱を為す者の店舗、倉庫、製造場飼育場等に臨檢し物品及帳簿其の他の書類を調査し又は必要なる分量に限り無償にて物品を収去することを得
 地方長官法又は本法に基きて發する命令に違反する所為ありと認むるときは當該官吏吏員をして前項に掲げたる場所に臨検檢し犯罪嫌疑者若は参考人を尋問し又は犯罪の事實を證明すべき物件、帳簿、書類を捜索し若は之が差押を為さしむることを得
 臨檢、尋問、捜索又は差押に關しては間接國税犯則者處分法を準用す
第三十六條 當該官吏吏員は自己、親族又は同居者に對し第十一條の檢査を為すことを得ず
第三十七條 蠶絲業者の所為にして本法若は本法に基づきて發する命令に違反し又は公益を害するの虞ありと認むるときは地方長官は其の業務を停止し若は制限し又は其の免許を取消すことを得
 前項の處分に不服ある者は訴願を提起することを得
 其の違法に権利を傷害せられたりとする者は行政訴訟を提起することを得
第三十八條 左の各號の一に該當する者は五百圓以下の罰金に處す
 一 詐欺の所為を以て第十一條の檢査を受けたる者
 二 第十四條又は第十七條の規定に違反したる者
第三十九條 左の各號の一に該當する者は三百圓以下の罰金に處す
 一 免許を受けずして他人に譲渡すの目的を以て蠶種を製造したる者
 二 免許を受けずして蠶種冷蔵の業を為したる者
 三 第四條第一項又は第六條の規定に違反したる者
 四 第七條、第八條又は第十六條第三項の規定に違反したる者
第四十條 左の各號の一に該當する者は二百圓以下の罰金又は科料に處す
 一 第九條又は第十條の規定に違反したる者
 二 第十六條第一項の規定に違反したる者
第四十一條 第三十八條、第三十九條第一號第四號又は前條第二號の犯罪に係る蠶種蠶兒又は繭は之を没収し既に譲渡したる場合に於ては其の價額を追徴す
 前項の蠶種又は蠶兒犯人以外の者に屬するときは行政官廳の處分を以て之を没収することを得
第四十二條 第三十五條の規定に依る職務の執行を拒み若は妨げたる者又は臨檢の際當該官吏吏員の尋問に對し答辧を為さざる者は二百圓以下の罰金又は科料に處す
第四十三條 蠶絲業者未成年又は禁治産者なるときは本法又は本法に基きて發する命令に依り之に適用すべき罰則は之を法定代理人に適用す但し其の營業に關し成年者と同一の能力を有する未成年者に付ては 此の限に在らず
第四十四條 蠶絲業者は其の代理人戸主家族雇人其の他の從業者にして本法又は本法に基きて發する命令に違反する所為を為したるときは自己の指揮に出でざるの故を以てその處罰を免るることを得ず但し相當の注意を為したるときは此の限に在らず
第四十五條 明治三十三年法律第五十二號は本法又は本法に基きて發する命令に依る犯罪に之を準用す
第四十六條 本法中府縣に關する規定は北海道に於ては北海道地方費に之を準用す
   附 則
第四十七條 本法施行の期日は勅令を以て之を定む
第四十八條 本法は沖縄縣、小笠原島、伊豆七島其の他命令を以て指定する地域に之を施行せず
第四十九條 蠶病豫防法に依る檢査合格の證印は之を本法に依る檢査合格の證印と看做す
第五十條 蠶病豫防法に依り檢査合格したる原種は之を特別蠶種と看做す
第五十一條 本法施行前製造したる自家用蠶種の蠶兒は本法施行後と雖之を飼育することを得
第五十二條 本法施行の際蠶種の冷藏を業とする者は本法施行後一年を限り免許を受けずして其の營業を繼續することを得

 この法律に対し外山亀太郎から、“第1条より第27条までは、第18条及び第23条(蚕種統一に関する規定)を除けば、全て蚕病上の取締を規定した現行の予防法と大差ない。又、第28条から第34条は組合法を規定し、以下52条までは取扱手続き又は罰則を規定したものに過ぎない。言い換えれば、この法案は、現行蚕病予防法に従来の同業組合法の一部を継ぎ合わせ、これに種類統一の香りをつけたものに過ぎない”“蚕病予防の根源である病原及び病原体の発達、外界の刺激に対する抵抗力、消毒等に関しては学理上不明の点が多く、この程度の知識では法律で強行すべき段階ではない”“膿病軟化病等については、その原因が生理的なのか、伝染的に起こるのかについても学者間で諸説あり一致していない”“これでは蚕病予防法というより、製種業者取締法でしかない”という手厳しい批判のあったことも記録しておきたい(外山亀太郎:“蠶絲業法案を評す”、蚕業新報 19(215): 104-109)。

※明治44年には、「蠶絲業法」と共に、“12歳未満の者を働かせてはいけない、15歳未満の者と女子を1日12時間以上働かせてはいけない、15歳未満の者と女子を午後4時〜午前4時の間働かせてはいけない、15歳未満の者と女子には月2回の休日を与えなければならない”といったことを規定した「工場法」も制定されている。詳細に読めば“ざる法”といわれても仕方ない部分もあるし、現在の常識から言えば到底信じがたい条件ではあるが、とにかくもこのような法律を制定せざるをえない、という製糸工場の現実があったことは事実と思われる。大正10年に「工場法」改正が行われているが、それでも劣悪な就労条件の改善を求めて昭和2年には、岡谷で山一林組争議が起こっている。この山一争議の余話、あるいは工場法を巡っての会社経営者と監督署の工場監督官との間の駆け引きの様子等について、山本茂実『続あゝ野麦峠」』(昭和55年、角川書店)に詳細な記録が書かれている。

4.蚕業講習所と原蚕種製造所の併存
 上記の『近代蠶絲業発達史』によると、“蚕業試験場と云う名称にしておくと、学者は徒に品種の研究にのみ没頭して、容易に原蚕種の配布をするようにならない処がある。故に之を原蚕種製造場と為し”という意見が多数を占めたことから原蚕種製造所が設置されたとされている。その結果、蚕業講習所を原蚕種製造所に変更したのではなく、蚕業講習所は残したままで、別個に原蚕種製造所を作ったわけである。その背景は知るよしもないが、蠶業新報 219号(明治44年6月発行)の巻頭社説「新任加賀山原蠶種製造所長に望む」の中に、当時の世論の考えの一端を垣間見ることができる。

新任加賀山原蠶種製造所長に望む
(前略)官設蠶業試驗が二十餘年間巨萬の金額を投じながら我蠶界に是ぞといふ利益発明を與へざりし為め、今回の施設に對しても世人の豫想する強がち無理ならず左れど吾人は時勢上より断言せんとす従來の研究試驗は毎時も同一の問題を掲げて其結論は輙ち曰く、更に翌年を待たんと云ふのみ、今日は最早斯る定文句を以て一時を糊塗するを許さず(中略)従來蠶業講習所等にて配付するが如き物ならんには、今更國費多端の際鉅費を投じて之を行ふの必要なし、君も亦定めて胸中成竹あらん、所長として試驗技師に命じ勝手に問題を擇ばせ其試驗報告を待って活字に付し、是を以て能事畢れりとするが如き従來の方式は、今後は堅く禁物なり、當試驗所長として、事務外交の操縦も左る事ながら、技術官をして専心喜んで自由に働かしむべし、決して小節に區々として俗吏的掣肘すべからず、而してまた時あっては彼等の我儘横着を制し、曖昧無責任なる行動を恣にせしむべからず(中略)殊に試驗の大局は所長之を指導せざるべからず、其日送りの試驗、一時逃れの遊泳術を弄するが如きは實に衣冠の賊なり(中略)常に國家が財政窮乏の中より多額の費用を割いて新たに施設したる主旨と責任とを思ひ、夙夜励精努力以て此名誉ある大任の負担に堪ふるの決心あらんことを望む

 原蠶種製造所が蠶業試験場になった大正3年の大日本蠶絲會報(第271号)に「蠶業試験場論」(石田孫太郎)という記事があるが、その内容もこの問題を考える上で参考になる。要約すると次のとおりである。“蚕種統一を目的とした機関を設立するよりも一大研究機関を作って試験研究をやらせた方が良いという意見もあったが、結局原蠶種製造所案が勝った。しかし、配付するべき優良種がないのに名前ばかり原蚕種製造所では意味がない。だとすると、先ずしっかり研究することになる。かつて農務局に蠶業試験場なるものがあったが、試験場というよりもその実は人材養成機関であった。その後、蠶業講習所となってからはいよいよ人材養成所であり、試験研究に全力をあげたとは思えない”。  生産調査会における議論は、以上のような世論の動向を反映していたと考えることができる。

5.原蚕種製造所の設置
 このようにして明治44(1911)年5月1日勅令第150号によって、原蚕種製造所官制が公布され、加賀山辰四郎が所長に任命された。当初は事務所を一時農商務省内に置き、設立のための事務を開始した。記録によると、原蚕種製造所建築の入札には22名が応札し、その中から東京市本 所区緑町土木請負業田淵順藏が3万8600円で落札したとある。


図5 原蠶種製造所(東京府豊多摩郡杉並村大字高圓寺)  

                                  (官報第8363号 明治44年5月11日 木曜日)
朕原蠶種製造所官制ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
 御名 御璽
      明治四十四年五月十日
                      内閣総理大臣 公爵 桂 太郎
                      農商務大臣  男爵 大浦兼武
勅令第百五十號
   原蠶種製造所官制
第一條 原蠶種製造所ハ農商務大臣ノ管理ニ属シ左ノ事務ヲ掌ル
  一 原蠶種ノ製造及配付
  二 蠶絲業ニ関スル試験及調査
第二條 原蠶種製造所ニ左ノ職員ヲ置ク
  所長
  技師  専任十一人
  技手  専任十六人
  書記  専任九人
第三條 所長ハ技師ヲ以テ之ニ充ツ農商務大臣ノ指揮監督ヲ承ケ所中全般ノ事務ヲ掌理ス
第四條 技師ハ上官ノ指揮ヲ承ケ技術ヲ掌ル
第五條 技手ハ上官ノ指揮ヲ承ケ技術ニ従事ス
第六條 書記ハ判任トス上官ノ指揮ヲ承ケ處務ニ従事ス
第七條 農商務大臣ハ必要と認ムル地ニ原蠶種製造所支所ヲ置キ本所ノ事務ヲ分掌セシムルコトヲ得
第八條 原蠶種製造所ノ位置並支所ノ位置名稱ハ農商務大臣之ヲ定ム
  附 則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
                                  (官報第8365号 明治44年5月13日 土曜日)
農商務省告示第二百八十號
 原蠶種製造所ハ當分ノ内農商務省内ニ之ヲ置ク
    明治四十四年五月十三日         農商務大臣 男爵 大浦兼武


図6 設立当初(明治45年)の原蠶種製造所職員(蚕業新報20(231) 明治45年6月に掲載)
前列右より丸山庶務課長、工藤六三郎、森繁太郎、十時雄次郎松本支所長、高島容孝綾部支所長、
加賀山辰四郎、石渡繁胤、辻保次郎福島支所長、肥後俊彦前橋支所長、渡邊勘次学士
中列右より4人目新井技手、6人目古山学士、菊池助松技手、10人目小田切書記、瀬川書記
後列右より4人目大庭技手、6人目鈴木技手、8人目平塚英吉その他所員一同

   原蚕種製造所としては、本所の他に、綾部支所(京都府何鹿郡綾部町字本宮村)、前橋支所(群馬県前橋市岩神町)、福島支所(福島県福島市大字腰浜、曽根田)の3支所が設置された。翌明治45年3月、東京府豊多摩郡杉並村大字高円寺に庁舎が完成したことに伴い、本所をここに移転した。

                                            (官報第8553号 明治44年12月22日 金曜日)
農商務省告示第六百三號
 原蠶種製造所支所ノ位置及名稱ヲ左ノ通定ム但シ明治四十五年一月十日ヨリ當分ノ内假事務所ヲ左ノ場所ニ開設ス
    明治四十四年十二月二十二日      農商務大臣 男爵 牧野伸顯
   名  称             位   置                   假 事 務 所
原蠶種製造所綾部支所 京都府何鹿郡綾部町字本宮村      綾部町何鹿郡立女子實業學校内
原蠶種製造所前橋支所 群馬縣前橋市岩神町            前橋市群馬縣農會事務所内
原蠶種製造所福島支所 福島縣福島市大字腰浜同大字曽根田  福島縣廳内
                                            (官報第8616号 明治45年3月12日 火曜日)
農商務省告示第五十八號
 原蠶種製造所ヲ東京府豊多摩郡杉並村大字高圓寺ニ移轉ス
    明治四十五年三月十二日      農商務大臣 男爵 牧野伸顯


図7 原蠶種製造所綾部支所


図8 原蠶種製造所前橋支所


図9 原蠶種製造所福島支所

 原蚕種製造所前橋支所の開所式の模様が、大日本蚕糸会報263号に記録されているが、その席において加賀山辰四郎所長は次のような挨拶を行っている。

 閣下竝に諸君本日は當支所開所式を擧行するに當りまして多數御賁臨を辱ふし茲に盛大なる式を擧ぐるを得まするのは本官の深く光榮とする處であります、抑も本所は明治四十四年五月十日勅令第百五十號を以て原蠶種製造所官制發布せられ同年十二月二十二日農商務省告示第六百三號を以て當支所の位置決定するや當縣下諸君は熱心に之を迎へられて多大の便宜を與へられたるのみならず、當縣より前橋市岩神町に敷地九千餘坪勢多郡南橘村に桑園用地として一萬餘坪合計七町歩餘の土地を寄付せられ茲に位置の確定を見るに至り同年十二月支所長以下職員の任命を見、四十五年一月十日假事務所を群馬縣農會に置き諸般の準備に着手し、同年五月新廳舎成るに及び茲に移轉し本年三月工事竣成を告げ、茲に開所式を擧ぐるに至った次第であります 此の際多數御参同を得ましたのを幸ひ本所並に支所即ち原蠶種製造所の任務及希望を述ぶるの光榮を得たいと思ひます
 抑も我蠶絲業は近時頗る發達して今や其輸出額一億六千余萬圓を數へ之に絹織物其他を加へますれば、二億余圓に達して、我輸出貿易額の三割六分余を占むるの盛況に至って居ります、從って之が一張一弛は國力の消長に至大の關係を有する様な次第でありまして、此の業が斯く盛なると共に之に從事する養蠶家は全國百十六萬を數へ蠶種製造家一萬五千余製絲家三萬五千の多きに達しまして、本邦生産業の主要なる部分を占むるに到りましたが、御承知の通り逐年の發達に伴ひまして内其品質は雑駁を加へ、外市場に激甚なる競争があるに不拘、内には經營難の聲が高まって参りました
 熟々考ふるに生絲が日本の獨占事業であれば兎も角も外に競争者のある以上には、内品質の向上改善に努め以て本邦主要の生産業の發展を圖らねばなりませぬのは必然の話しで是即ち本所の設置ある所以でありますが本所は単に原蠶種の製造を為すに止らず極めて廣き意味の蠶絲業に關する試驗研究所である……殊に蠶絲業に關するものに在りては、日本が研究の先進者であり又将来も而かあらねばならぬ地位になって居る、從って多方面のものであれば、外國で研究したるものを直ちに移して應用も出来るけれども蠶絲業に關しては、日本程の研究調査が外國では出来て居らぬ、故に外國の研究を移して、之を應用する事は難い、從って一層本所の任務は重いのである、
 例えば桑の事にしても今の處果して如何なる桑が善良で如何なる栽培が最も可なるかは決定しては居らぬ、養蠶の事にしても、如何なる飼育が果たして適當であるかも決定して居らぬ、殊に桑の葉が蠶の腹の中に入って如何にして絹絲となるかも科學的に研究されて居らぬ、本所は之等を闡明して斯業の根本的に改善發達を圖らんとする目的を持って居る
 が此目的を達せんとすれば當路者が黽勉努力するの外はないが、來賓諸彦の御援助も事業進行上極めて必要のことであるから御聲援を與ふるに吝ならざらんことを希望す

それまで、蚕業講習所では、講習、蚕糸業に関する試験、蚕種配布が行われてきたが、官制公布の結果、蚕業講習所における試験研究に関する事務はすべて、原蚕種製造所に委譲しなければならないことになった。
※蚕業講習所の蚕種配付規則は、明治45年5月には省令第15号をもって廃止されている。

                官報第8665号 明治45年5月10日 金曜日)
農商務省令第十五號
 明治三十五年農商務省令第二十二號蠶種配付規則ハ之ヲ廢止ス
    明治四十五年五月十日      農商務大臣 男爵 牧野伸顯

既に述べたように、蚕業講習所夏秋蚕部設置の背景には、夏秋蚕に関する基礎的な試験研究を行い、その結果に基づいて講習を行い、夏秋蚕飼育の実務者、指導者を養成してほしいという蚕糸業界の要望があった。しかし、当初の意図がどうであれ、夏秋蚕部においては、現実には試験研究しか行われていなかったため、45年4月、東京蚕業講習所夏秋蚕部を原蚕種製造所に移管し、これを松本支所とした。その結果、蚕業講習所においては、専ら技術講習だけを行うということになった。
 この間の事情について、明治41年農商務省に入省後、長い間農林行政の中枢にいた石黒忠篤氏を招いて行われた座談会の記録(『日本の蚕糸業について語る』農業総合研究所、1997)には次のように書かれている。

 夏秋蚕の研究は非常に等閑視されていました。これが急速に発達する必要が出て参ったので、之を蚕業講習所が力を入れてやっていた。これを今度は原蚕種製造所に移管しなければならない。これがなかなか問題で、殊に御大の本多岩次郎大御所がすわっていました。これら原蚕種の製造及びその研究の二つの大きな仕事を受け取るという問題は、蚕業講習所は沢山の卒業生を出しており、地方の主任官になっている人も多いので大問題になりました。之を談合したところ、かなり議論もありましたが、その結果原蚕種の製造及び蚕品種の研究が移管になることに決まり、残ったものが技術講習という仕事だけになりました。たまたま文部省が諸学校の統一をやり、いろいろの学校をひっぱった。商船学校もひっぱった。蚕業講習所もひっぱって文部省に入れた。そのために東京も京都も移管になったのです。農商務省では水産講習所だけががんとしてきかなかった。生徒も無論でした。これには文部省も手を入れないで、それで今日まできているのが水産講習所であります。(47頁)
 当時は蚕業講習所が、蚕種に関する試験をして多少蚕種の配布もしており、殊に夏秋蚕の配布をしていましたが、原蚕種製造所が出来てからこの配布は全部原蚕種製造所がやるようになった。そのため蚕業講習所は純然たる講習所になるという風に変更がありました。之は仲々年来の根拠の固い西ヶ原の講習所にとっては大変なことで、卒業生が各方面に張って居ますから仲々大変なことでした。そこで加賀山さんの仕事がやりづらくて仕方がない。その結果、地方での蚕業技術面に誠に微力であった大学の系統が入り込んできた。そういうことで勢力が二つに分かれて、大正二年に蚕業講習所が文部省に移り、高等蚕糸学校として全く教育機関になったわけです。(69頁)

 大正3(1914)年1月29日の帝国議会に、国民党代議士小西 和、相島勘次郎、清水仁三郎の3氏から、「東京蚕業講習所及び京都蚕業講習所を改め、東京蚕糸専門学校及び京都蚕糸専門学校とする」旨の建議案が提出されたが、これは、蚕糸業法改正法律案と同一委員に付託された。次いで、3月14日の本会議において武藤金吉代議士は、この案が委員会において否決されたことを次のように報告している。

 當席から報告することを許されんことを望みます(「宜しうございます」「簡単に願ひます」と呼ぶ者あり)本案は既に豫算に計上されて蠶業講習所は高等専門学校に引直すことになって居るのであります、而して委員會に置きましては折角の御提案でもあり豫算に出て居りまするが斯の如き學校は必要がないから次年度に於て廢すべしと云ふ意味に於て本案は否決を致しました云々

 この報告後採決の結果、この建議案は否決となった。当時、文部省は諸学校の統一を画策し、実業教育機関を含めて教育機関はすべて文部省の管轄とすることを決めていたため、大正2年(1913)6月蚕業講習所官制が一部改正され、蚕業講習所は文部省所管とされ、翌3年3月勅令第四十四号によって東京蚕業講習所は東京高等蚕糸学校(後の東京農工大学)と改称され、同様に、京都蚕業講習所は京都高等蚕業学校と改称された(昭和6年3月30日勅令第24号によって京都高等蚕糸学校と改称された。後の京都工芸繊維大学)。

 大正三年三月三十一日           内閣総理大臣 伯爵 山本權兵衞
                          文部大臣      大岡育造
勅令第四十四號
 文部省直轄諸學校官制中左の通改正す
第一條中「上田蠶絲専門學校」の次に「東京高等蠶絲學校」及「京都高等蠶業學校」を加ふ。
  附  則
本令は公布の日より之を施行す。
蠶業講習所官制は之を廢止す。
本令施行の際別に辭令書を交付せられざるときは現に東京蠶業講習所に在勤する蠶業講習所の技師は東京高等蠶絲學校の教授に、技手は助教授に、書記は書記に、現に京都蠶業講習所に在勤する技師は、京都高等蠶業學校の教授に、技手は助教授に、書記は書記に同官等俸給を以て任ぜられたるものとす。
  大正三年四月十五日
勅令第六十九號
蠶業講習所技師にして蠶業講習所長の職に在りたる者は本令施行の際に限り特に之を東京高等蠶絲學校又は京都高等蠶業學校長に任用することを得
   附  則
本令は公布の日より之を施行す

 原蚕種製造所設置に先立つこと明治43年に、政府は長野県上田町に文部省所管の上田蚕糸専門学校を設置し文部省図書局の針塚長太郎を校長に任命していたので、文部省所管の実業教育機関と農商務省所管の実業教育機関(蚕業講習所)とが併存することとなっていた。すでに述べたように、農商務省設置の際に、その所掌を巡って、農商務省と文部省との間でやりとりのあったことが、『日本農業発達史別篇−農業教育の成立−』(東畑精一・盛永俊太郎監修)に記されているが、原蚕種製造所設置を巡っても、農商務省と文部省の“所管争い”のあったことが、上記の石黒忠篤座談会記録からも窺うことができる。この間の騒々しい情況と職員の不安な気持ちは、昭和17年発行の『東京高等蠶絲學校五十年史』から垣間見ることができる。

 斯くの如く明治四十四年農商務省所管の國立原蠶種製造所が設置され、舊來の蠶業講習所の行ひ來たつた業務の大半を大規模に起すことゝなりて、農商務省所管としての蠶業講習所に何等か行政上の改革が齎されるのではないかとの豫感を生じ、殊に當時文部省は學制改革刷新を標榜しての專門教育實業教育の發展を大抱負の下に、企圖しつつあつたので一層その感を強めた。此間にありて種々な風説蜚語が傳はり、當時政府は行政整理に着手せんとする際とて或は東西兩蠶業講習所の廢止説があつたり、或は東京蠶業講習所の農科大學併合説が起つたりして、本所在所生は素より本所出身同窓生や當業者も相當神經過敏となつた。現に當時の帝國議會に國民黨代議士小西和外二名より大正三年一月二十九日衆議院へ、東西兩蠶業講習所を夫々東京、京都蠶絲專門學校と爲さんことを望むとの建議案が提出されたりし(併し委員會で否決)亦政友會代議士武藤金吉の如きは別に蠶絲大學新設の必要を説き蠶業講習所廢止論を唱へたりして、政治家當業者其他諸方面に於ける諸説は紛々として、本所の興廢に關して端倪すべからざるものがあつた。

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