Q: 関東の桐生、八王子、青梅や愛知の知多などに今でも現存している「鋸屋根」工場は誰が日本に持ち込み、どのような理由で、そしてどのように広がったのでしょうか。


A1: 八王子の実習工場も鋸型でした。当時の先生の話(大分前の話なので正確ではありませんが)、昔の諸先輩の話、私の友人の話(八王子で織物工場を経営していた)等の共通している点は、鋸型にも二種類あって、(1)山型の連続したもの(2)片屋根の連続したものがあって、(1)は主に織物工場に、(2)は精練・染色工場に多くあったようです。(1)(2)に共通して言えることは明るさの確保で、特に織物工場では、ジャガード織機のように織機の上に紋紙機械がセットされているような場合、上部が暗いため、紋紙の点検や機械の修理等の際、天窓の明かりが必要だったようです。そして建物の奥の方にある織機でも明かりがとれるように山型が連続しています。勿論、全体の明るさ確保が一番でしょうが。
 (2)の方は、湯気対策と刺激臭対策が主なようです。石けん精練のように100度近い状態で精練をおこなうと大変な蒸気です。作業を安全に行うために、蒸気を逃がす必要があります。天井を高く取り、明るく、かつ窓が開閉できるように工夫してあります。
 また、戦後工業高校の実習施設が鋸型を含めてたくさん設置された背景には、昭和25年6月に朝鮮動乱が勃発して特需景気となり、国をあげて工業生産の増強に励む事となり、工業教育についてもその重要性が見直され、産業教育振興法の制定、打ち切られていた産業教育に対する国庫補助が復活が大きな要因となっているようです。

A2:下記のアドレスに、桐生の鋸屋根工場という題で「桐生タイムス」の記事の紹介等があります。
      
http://www.ftnet.or.jp/nokogiriyane/
その中に、前橋工業高等学校教諭野口三郎さんの「桐生の鋸屋根」を考察する、というページがあります。一部を下に紹介します。織物工場における理由として、
A1で書かれているのと同じ理由が書かれています。

1 鋸屋根とは−採光機能をもつ屋根(中略)
2 桐生の鋸屋根
2.1 建築年と数
 これまでの調査でわかった年代別の一覧を表に示します。(中略)
2.2 木造が圧倒的(中略)
2.3 なぜ鋸屋根にしたのか
 群馬県内の高崎・前橋・伊勢崎・館林・太田の各市内にも鋸屋根工場は散見されますが、数は桐生には及びません。どうして桐生にはこんなにも多数あるのでしょうか。工場の経営者は、ジャガードを使い紋織物を製造するためであったといいます。図1に示すように通常の織機の上に縦糸を上下させる装置を載せました。一定の空間が必要となります。また、桐生に限りませんが、電気の乏しい時代、昼光は作業上はもちろん、製品の仕上がり具合や色あいなどを見るのに欠かせませんでした。多くの工場はガラス窓を北側にとりつけています。電気が豊富になった現在でも、反物の出来不出来については一日中変化の少ない柔らかい「北光線」のもとでおこなわれていると聞いております。アトリエが北窓になっているのとあい通じるものがあります。
2.4 最古と最新
(中略)現存の最古は1902年(明治35)、取り壊されたものでは1890年(明治23)となっております。一方最新は1969年(昭和44)で今も帯の工場として稼働しております。2年前に鋸屋根を採用した住宅が建ちましたが、工場に限っていえば、桐生の鋸屋根は80年間の命です。
3 語意と表記について
 ギザギザ屋根を建築し始めた当時、どのような表わし方をしていたかを振り返ってみましょう。清水建設に『清水方家屋建築撮影』が所蔵され種々書き残されています。「屋根五側片流棟明り取硝子窓」「屋根鋸形」「家根明り取り附鋸歯状造り」。内国勧業博覧会の建物や全国の紡績と織物工場が竣工した時の記録です。
 一方、桐生では唯一煉瓦造の金谷レース工場が当時金芳織物と呼ばれていましたが、その設計書に「木造鋸歯」と墨書。現在、桐生市近代化遺産絹撚記念館として事務所が保存されている旧日本絹撚の鋸屋根工場は、「家根連接明り取硝子張」と社史に書き記しています。
 鋸屋根が語彙として建築雑誌に登場するのは1911年(明治43)8月の第296号でした。建築学会は建築語彙編纂委員会を設け、検討を重ね同年6月の委員会で「saw tooth roof」を鋸屋根と決定し、2カ月後の建築雑誌に掲載されました。
4 鋸屋根の日本でのはじまり(以下略)


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