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Subject: [silkmail:32] 上毛新聞「世紀をつなぐ−繭の記憶−」(3) <Chikayoshi Kitamura > 2001/10/23

第1部「夢」−5−アジアの糸
 資本がなくても、家の中で簡単にできる。座繰りの糸引きは国を興す道具に適していた
のだろう。・・・・あと10年もすれば絶えてしまう。なんとしてもこの技術をアジアの国に伝
えたい。・・・・移転先の候補に挙がったのはフィリピン。・・・・1989(平成元)年に設立された
「県日比シルク生産技術交流協会」のあっせんで研修生が毎年、県内の農家にやってきた。
・・・・青山勝弥会長(68)(大間々町高津戸)に座繰りのあばあさんを紹介したのが石田さん。
・・・・石田さんは青山さんと共にフィリピンに飛んで座繰りの現地指導もした。・・・・しかし、
どうしても着物に合う糸ができなかった。「着物に使う糸は繊細だから。ボランティアで
やっているうちはいい。でもその先、商売ってことになると、商品として自信が持てなか
った」と石田さんは振り返る。・・・・石田さんは再チャレンジの舞台を生糸と織物の伝統の
ある中国に移した。ここで引いた糸はすばらしい出来栄えだったのになぜか物足りなかっ
た。座繰りは農家の女性が一人で引いたもの。大きな工場で座繰りを並べて糸を引く中国
の方式には限界があるのだろうか。・・・・
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第1部「夢」−6−碓氷社
 萩原鐐太郎(1843〜1916年)は東上磯部(現安中市)の豪農で、1878(明治11)年に「
わが国の代表的な製糸組合」といわれた碓氷社を創立した。この時期、生糸の輸出量が急
増、それが粗製乱造につながり、輸出先の信用を落とし、糸を生産する農家は収入を減ら
し、苦境に陥った。・・・・座繰りの糸は、太かったり、細かったりしたため、単独では大き
な収入につながらなかった。碓氷社はたくさんの農家をまとめることで、他種類の糸を大
量に集め、それらを均一の品質に分類し、海外の織物業者のニーズにこたえるシステムを
つくりあげた。・・・・萩原鐐太郎の創業の言葉「吾が碓氷社の組織は即ち此の一家団欒とい
うことに最も重きを置き・・・・」という言葉の裏には、同じ時期に長野県などで発達した器
械製糸への批判がある。大きな工場を作り、農家の子女をたくさん集め、長時間の労働を
強いていることを、萩原は「今や文明の余勢は此の尊むべき一家団欒の一部を破壊しつつ
ある」と指摘している。
 碓氷社は第二次大戦後発展的に解消し、地盤はグンサンに引き継がれた。そのグンサン
も98年には生糸生産部門の操業停止、2000年10月31日に会社解散を決め、県内に残る製糸
工場は碓氷製糸農業協同組合(松井田町)と吉野組製糸所(渋川市)の2つ、全国でも7
社しかなくなった。

Chikayoshi Kitamura (NIAS/MAFF) kitamura@affrc.go.jp