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Subject: [silkmail:35] 上毛新聞「繭の記憶」(6) <Chikayoshi Kitamura > 2001/10/29

第2部「残照」−1−汗と涙
 養蚕とは不思議な仕事である。同じ家の中で育てた小さな命を絶ち、そこから糸をつむ
ぐ。船荷となった糸はやがて海を渡り、世界と結ばれていく。養蚕、生糸の国、そして織
物の国だった上州−。人々は一本の細く長い糸にそれぞれの願いを込めていた。第2部
「残照」はかつての栄光の日々から未来を見据えてみよう。失われようとしているものの
中から、二十一世紀へ託した夢が、かすかによみがえってくる。
                   ○
 「お蚕が命をかけて吐いた糸から、なんとか命の輝きを引き出してやりたいと思ってた」。
竹重百合枝さん(52)=富岡市七日市=はそう言うと、テーブルの上に紙の箱を置いた。中
に繭が入っている。真ん中がくびれ、やや小ぶり。「又昔(またむかし)」という明治の初
めに普及した古い原蚕種である。……蚕を飼い、糸を引き、布を織る。母から娘へと伝わ
った命をはぐくむ仕事が、農村の風景から消えてどのくらいたつのだろう。養蚕農家に生
まれた竹重さんはもう一度、かつての技法をよみがえらせようと思った。三十年ほど前の
こと。故郷に戻り、ささやかな工房を構えた。以来、一人ですべての作業をこなす。その
竹重さんが、数年前に又昔と出合った。……1859(安政6)年の横浜開港が上州の農村に大
きな変化をもたらした。空前の生糸ブームに乗り遅れまいと、農家はこぞって養蚕を始め
た。蚕の卵を売る蚕種製造業が盛んになったのは、こうした農家が良質な繭をつくる蚕を
求めていたからだった。……丈夫な蚕にするには掛け合せ、親の原蚕種を保存しておく必
要があった。とはいえ蚕は生き物、冷凍保存はできない。毎年、繭からさなぎを取り出し、
交配させて、卵を生ませ、涼しいところで保存して再びかえす。人の手によって、気の遠
くなるような“命のリレー”が続けられてきたのだ。……やがて、原蚕種は業者の手から
県蚕業試験場(前橋市総社町)に集められた。……試験場に今でも保存されている原蚕種は
二百種ほど。染織家の竹重さんが「命のぬくもりに満ちた糸」と評した又昔もその中のひ
とつだった。
 映画のセットかと見まがうほど、巨大な木造の建造物が小さな丘の上にそびえている。
長屋門をくぐると、右手に桑を蓄えたという蔵が軒を連ね、正面に三層の母屋、その上に
風を取り入れる小さな屋根がかかっている。「多いときは150人くらいがここで働いてた
んだ」と塩原栄太郎さん(70)=前橋市田口町=は屋根がわらを見上げた。……塩原さんの
家は代々、蚕種製造業を営んでいた。塩原産の又昔は「塩原又」と呼ばれ、全国から注文
がきた。十五年の歳月を費やし、九十年前に完成したという母屋はその時の富を惜しげも
なくつぎ込んだものだ。……だが、養蚕の衰退とともに蚕種製造業の先行きも見える。塩
原さんは自分の代で家業をやめた。「この商売を将来、続けていくのはとても無理。でも、
私とすれば先祖に申し訳ない。やつぱり寂しい」といい、黒く光るケヤキの大黒柱をさすった。
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第2部「残照」−2−西郷の言葉
 一冊の古書に志が込められている。ぺージをめくると、河原でかいがいしくかごを洗う
女たちを描いた図と解説。挿絵画家の遊び心か、その近くに乳飲み子を背負う女の子がい
る。色刷り。挿絵が多く、難しい漢字には仮名がふられている。人々のしぐさや表情に見
入っていると、養蚕の技術書だということを思わず忘れてしまうほどだ。
 1872(明治5)年発刊の「養蚕新論」。著者は境町島村の田島弥平である。弥平から数え
て五代目の子孫に当たる田島健一さん(71)=境町島村=は「当時とすりゃベストセラー。
だから古本としての価値はあまりないんだね。今でも北海道を除いて日本中、どこの古本
屋からも出てくる」と言うと、こたつに足を伸ばすように勧めた。ふすまを開けば大広間
に使えるという8畳の間は、ひっそりとしている。蚕は風通しのよい広々とした場所で育
てるべし、と提唱した弥平が建てた家に今でも住んでいる。
 健一さんは本の巻頭を指差した。伸びやかな筆使いで「満蔟如雲」と印刷されている。
書の主は西郷隆盛。「蔟(まぶし)に満つること雲のごとし」。「蔟は蚕に繭をつくらせる
道具のこと。この本を読めば良質な繭がたくさんできますよって意味だね」
 弥平は当時、蚕種製造業者として知られ、明治政府も養蚕を奨励していた。しかし、そ
れにしても明治維新の英雄がなぜ−。「どうやって西郷先生に頼みに行ったんか。そこが
分からない」と首をかしげた。
 弥平と西郷。上州と薩摩に接点はあるのだろうか。金井義明さん(58)=境町島村=は一
人の草莽(もう)の志士が二人を結びつけたとみる。後に弥平の碑文を書くことになる金井
之恭がその人。書の大家だった之恭の人生は、維新の動乱に彩られているという。
 之恭は若くして倒幕運動に身を投じ、投獄されたが、処刑を前に官軍が攻め上ってきた
ために危ういところで、一命をとりとめた。世が改まると、西郷の盟友だった大久保利通
のそば近くにいて、内閣大書記官、貴族院議員などを務めている。
 西郷が征韓論に敗れて下野するのは1873(明治6)年、弥平が養蚕新論を著す翌年のこと。
当時はまだ、西郷と大久保はたもとを分かっていない。之恭は同郷の友のために、推薦の
言葉を頼んだのだと、之恭の兄の子孫に当たる義明さんは推測する。
 「薩長閥の時代にめずらしい出世ですね、之恭は。尊大なところがない人物で、故郷の
人たちの相談にも気軽に乗っていた。大久保が殺された時は真っ先に駆けつけたそうです」
と義明さん。その顔は誇らしげだ。
 弥平がさらに研究を進め「続養蚕新論」を発刊するのは西郷、大久保ともに非業の死を
とげた後の1879(明治12)年。その年に弥平は仲間二人と蚕種の販売のためにイタリアに旅
立っている。
 当時、日本の蚕種は粗悪品が出回り、国際的な信用が地に落ちていた。そこで、品質に
自信を持っていた島村の人たちは、ミラノに販売所を開いて、直接、売り込もうという壮
大な計画を立てた。足かけ5年、計4回に及ぶ直輸出の始まりだった。
 「ヨーロッパまで片道40日もかかるんだから、命がけ。すべて書き残しておこうって気
持ちだったんじゃないかな」と健一さんは続養蚕新論を出した弥平の心境をわがことのよ
うに推し量る。
 弥平はその時、57歳。当時の年齢からすればすでに老境にさしかかっている。
※(今回は、全文です)。
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Chikayoshi Kitamura (NIAS/MAFF) kitamura@affrc.go.jp