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Subject: [silkmail:36] 上毛新聞「繭の記憶」(7) <Chikayoshi Kitamura > 2001/10/29

第2部「残照」−3−1枚の名刺
 ローマ出身。ローマ大学文学部で日本語を学んだフランチェスカ・トラバァリーニさん
(31)=東京都府中市。テーブルの上には日本語の本が積まれている。いずれも120年前、
蚕種販売のためにイタリアに渡った境町島村の田島弥平にかかわる歴史書である。その中
の一冊をめくると、興味を持ったいきさつを話し始めた。日本の近代化に生糸が大きな役
割を果たしたことを知り、卒論のテーマに「日本の製糸業の歴史」を選んだ。調べるうち
に一人の人物のことが気になりだした。それが弥平だった。蚕糸だけにとどまらない魅力
にひかれた。……「文化も言葉も違う遠い国に商売に行くってすごいこと」と、まずフロ
ンティア精神に感服した。「日本人とイタリア人の交流をもっと知りたい」と、都立大学
大学院に留学した。暇を見つけては弥平ら蚕種の直輸出にかかわった人々の子孫を訪ねた。
そこで、一枚の名刺に巡り合った。色あせてはいるが、イタリア語の名前がはっきりと読
めた。ポンペオ・マッゾーキ。イタリアの貿易商の名刺である。
 弥平ら一行3人がイタリアに着いたのは1880(明治13)年2月。4カ月とどまリ、蚕種を
販売した。マッゾーキとも商談したのだろう。その際に交換したものだと、名刺に記され
た日付から分かる。……幕末のころのヨーロッパでは蚕の病気がはやり、日本の蚕種を買
い求める商人が多かった。マッゾーキもその一人。しかも、来日15回に及ぶという知日派
だった。彼は美術工芸品を収集していた。繭や糸のサンプルだけではない。中には風景写
真から浮世絵、人形、陶磁器に至るまで、当時の“日本”そのものが含まれていた。持ち
帰った品々は今も故郷、ブレッシャ市のマッゾーキ財団か管理している。生家が博物館に
なっていて、そこに展示しているという。トラバァリーニさんは二つの国の研究者の橋渡
し役を務めることで、新たな交流の形を探してみようと決めた。……夢は今年の秋に実を
結ぶ。2001年は「日本におけるイタリア年」。日伊政府の後援でイタリア文化を紹介する
さまざまな催しがある。その一つに県立日本絹の里とブレッシャ博物館との交流展が組み
込まれた。今年は絹の里、来年はブレッシャで所蔵品を持ち寄った企画展を開こうという
のだ。……忙しくなるのはこれから。二年半の勉強を終えて3月に帰国すると、2つの博
物館の連絡窓口となる仕事が待っている。蚕をめぐるドラマは二十一世紀に引き継がれた。
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第2部「残照」−4−父の思い
 長屋門をくぐると、広い庭で高山重憲さん(54)=神奈川県平塚市=が出迎えてくれた。大
手企業の部長を務める重憲さんが、藤岡市高山の生家に戻ったのは久しぶり。父親の吉重さ
んを2年ほど前に亡くし、残された母親の淑子さん(77)は家を空けている。……がらんとし
た母屋に招き入れ、本棚の中から冊子を取り出した。表紙に「日本蚕糸業史のなかの養蚕改
良高山社」とある。長男の重晴さん(27)が大学時代に書き上げた卒業論文だった。高山社は
この家にあった日本で最初の養蚕学校。……高山杜は重憲さんから数えて5代前の先祖に当
たる高山長五郎が1884(明治17)年に設立した。自ら考案した「清温育」という蚕の飼い方を
普及するためだった。当時、蚕は“運の虫”と言われていた。当たれば大もうけするが、病
気がはやれば全滅−という不安定な仕事だった。……清温育は蚕の成長を自然の成り行きに
任せていたのを改め、蚕室の温度と湿度を調節した飼育法。長五郎は清温育だけにとどまら
す、桑切り包丁、桑の栽培、蚕室の構造まで幅広い改良を加えた。山あいの高山は貧しかっ
た。長五郎は新しい技術によって、故郷を救おうとした。やがて、高山社は農民の結社から
私立の養蚕学校へと発展し、1927(昭和2)年まで続いた。そこでは日本ばかりか、大陸から
の留学生も学んでいた。……社会科の教師だった吉重さんは、公立の高校長で退職してから、
高山社が近代史の中で果たした役割を解き明かそうとした。そのために、家に残っていた古
文書を集め、庭の隅に建てた資料室に保管した。だが、手付かずのまま時が過ぎた。………
資料室にはなにもなかった。一人で家を守ってきた淑子さんが、アメリカに嫁いだ長女のも
とで冬を越すことになり、旅立つ前の11月、県立歴史博物館(高崎市岩鼻町)に引き取って
もらったからだ。段ボール箱に詰めると170個。……「とにかく膨大な資料。しっかりとし
た整理方針を立ててから、じっくり取り組みますよ」と学芸員。展示するまでには1年以上
かかるという。高山社で学んだ若者たちは養蚕革命の担い手だった。彼らはそれぞれの故郷
に帰り、最新の技術を伝えた。その志の一端が、資料を通して見えてくるはずだ。
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Chikayoshi Kitamura (NIAS/MAFF) kitamura@affrc.go.jp