[TOP]
[親メール][子メール][次メール][前メール]
Subject: [silkmail:37] 上毛新聞「繭の記憶」(8) <Chikayoshi Kitamura > 2001/11/02

第2部「残照」−5−糸の町
(特記する内容はありません)
--------------------------------------------------------------------------------
第2部「残照」−6−前橋駅
(特記する内容はありません)
--------------------------------------------------------------------------------
第2部「残照」−7−約束の地
 「もうこれ1冊だけなので」。大切そうに見せてくれた冊子は茶色く変色していた。「友
禅染二代」。本間憲治さん(88)=高崎市江木町=が父豊栄と自らの「捺染(なっせん)人生」
をつづったものだ。……京都で友禅職人をしていた本間豊栄は友禅染に使う絹を仕入れるた
め訪れた高崎で、絹市のにぎわいを目の当たりにする。「捺染業者が1軒もない。高崎で開
業すれば成功できる」。そして父母らを連れ高崎へ移住した。ちょうど今から百年ほど前の
話だ。……捺染とは形付け染めとも呼ばれ、色糊(のり)で模様を印刷する染色方法。型紙を
用いることでより繊細な模様、華麗な色彩の染めを可能とし、しかも量産できた。もともと、
高崎は豊富な絹を背景に染色業が栄えていた地。本格的に始まった「捺染」はあっと言う間
に広まり、明治後期以降、「高崎染」として「京染」「江戸小紋」「加賀友禅」と肩を並べ
る4大産地になっていった。……元禄文化が華やかな江戸時代には田町に集荷市場が開かれ、
高崎周辺だけでなく、埼玉、長野などから絹が集まった。ここで精練加工された「高崎絹」
は関東をはじめ、東北、関西へ流通していった。高崎絹はもともと着物の裏地に使われる
「裏絹」として用いられた。原料は玉繭など「売れない繭」。それを農家が副業として手機
で織り、高崎の絹市に持ち込んだ。「お江戸見たけりゃ高崎田町」。そんなにぎわいの名残
が残る街中に生まれ育った高崎経済大学名誉教授の高階勇輔さん(69)=高崎市昭和町=は、
それを自らの研究テーマのひとつにした。「絹市は、ものの売買にとどまらず人の交流、例
えば就職や結婚、につながった。高崎に来れば成功できる、という『約束の地』であり、だ
からこそ近郷近在からたくさんの人が集まった」……全国に流通した高崎絹と高崎染。そこ
に全国から人が集まり、街は拡大していった。時代の花形産業を担っているという人たちの
自負が、圧倒的な力となって街づくりを推し進めた。絹が今日の「商都」を形成する大きな
原動力となったのだ。しかし、いま街にその面形はほとんどみられない。本間さんは7年前
に工場を閉鎖した。「日本人が畳で生活する限り捺染は不滅」。そんな父の口癖も、時代の
流れにのみこまれた。栄華を極めた高崎捺染協同組合も今残るのは7軒。後継者がいるとこ
ろはない。理事長を務める清水英徳さん(64)=高崎市昭和町=は親子二代で業界を引っ張っ
てきた。「産業として成り立つ時代じゃない。しかし、どんな形でも残さなければ」。そん
な思いから次代を担う子供たちへ体験教室を始めた。「高崎のいまが絹なしにはあり得なか
った」という事実。語り継ぐのは自分たちしかいない、そう信じている。
--------------------------------------------------------------------------------
第2部「残照」−8−機の音
 高柳なみさん(92)=伊勢崎市安堀町=は伝統的工芸品「伊勢崎絣(かすり)」の技術を引き
継ぐ伝統工芸士。85歳まで敷地内にある10坪ほどの仕事場で毎日、朝早くから機を織った。
「機織りの聞こえる家」と言えば、近所の人はたいてい分かった。15歳の時から本格的に織
り始め、「『カラスが鳴かない日はあっても、ばあさんが機織りをしない日はない』って笑
われたんさ」。昭和の初めに結婚、4人の子を育てながら、機を織り続けた。「だれよりも
速く、たくさん良いものを織る」のが自慢だった。……そんな高柳さんのところに機屋が訪
れた。7年前のこと。いつもと違う様子で、申し訳なさそうに4本の反物を渡された。「も
う仕事がないんです」。突然の話に、機屋の顔を見られなかった。涙があふれて、言葉も出
なかった。
 伊勢崎では江戸以降、農家が玉糸やのし糸といった太糸を使って農閑期に手織りで生産し
た。「太織(ふとり)」と呼ばれ、渋みがあり、生地が丈夫だったことから普段着として人気
を呼んだ。全国で売れ始めると、農閑期だけの生産では間に合わず、農家に手間賃を払って
織らせる専業の織物業者「元機屋」が現れ、組織的な生産体制がつくられた。その主力が高
柳さんのような女性だった。それぞれが技術を競い合い、「娘3人いれば蔵が建つ」といわ
れるほど盛んに織られた。こうして生産された絹織物は、明治未から「銘仙」の名で流行し
た。大正期には、生産額3千5百万円、県の年間予算の実に6倍という「銘仙王国」を築き
上げ、足利、秩父と並ぶ三大銘仙産地となった。
 伊勢崎織物協同組合理事長の田村直之さん(71)=伊勢崎市茂呂=は2代目。機屋の長男は
伊勢崎工業高へ行き、家業を継ぐのが当たり前だった。父が理事長を務めた昭和30年代は最
後の黄金期。市長に公用車のない時代に理事長には黒塗りの専用車があった。……伊勢崎銘
仙が高く評価されたのは手織リ独特の風合いと素朴な柄にある。代表的な「括(くく)り絣」
には15もの工程があり、そこにそれぞれ熟練の職人がかかわった。他の産地で機械化が進ん
でも、伊勢崎だけはほとんど手織りで生産され、それは高度成長期になっても続いた。それ
ほどまでにこだわって織り出された知恵の結晶なのだ。
 銘仙に魅せられ、収集している武藤和夫さん(69)=桐生市西久方町=は県繊維工業試験場
に勤め、伊勢崎勤務時代に衰退していく銘仙を目の当たりにした。「銘仙には日本人の器用
さ、繊細な感覚など手づくりの良さがある。それはものづくりの基本。日本人が忘れちゃな
んないものさ」。武藤さんは桐生市梅田町で「桐生織塾」という工房を主宰し、銘仙の展示
や教室を開き、技術保存、後継者育成にあたっている。
--------------------------------------------------------------------------------

Chikayoshi Kitamura (NIAS/MAFF) kitamura@affrc.go.jp