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Subject: [silkmail:43] 上毛新聞「繭の記憶」( 14 ) <Chikayoshi Kitamura > 2001/11/04

第3部「希望」−9−紅葉山
 生糸は海を洩り、外貨を稼いだ。日本の近代化は養蚕に支えられていた。皇后さまが
宮中で蚕を飼う習わしは、養蚕が国づくりの基本だったことの証でもある。上州は養蚕
の国。昔から宮中の繭づくりをお手伝いしてきた。来年4月から6月まで、「皇居の御
養蚕展」が県立日本絹の里(群馬町)で開かれる。同展には宮中秘蔵の写真や蚕具なども
展示される。御養蚕展の企画を担当する小山千明さん(39)は「最初は宮内庁の中にも宣
伝に使われては困るという心配があったようです。でも、養蚕の力になりましょうとい
うことで話が進んで…」と顔をほころばせる。……皇居宮殿の北。小高い丘に広がる御
養蚕所は紅葉山と呼ばれている。1871(明治4)年、境町島村の田島武平らが、手ほどき
して以来、数多くの上州人がかかわってきた。御養蚕所で奉仕したことのある人々でつ
くるのが紅葉山会。会員およそ200人のうち50人以上が群馬。…会長の佐藤好祐さん(72)
は県蚕業試験場長を定年退職し、5年前から御養蚕所飼育主任を務めている。……繭か
らひいた糸で織られた絹布は、外国元首への贈り物となる。美智子さまの養蚕を慈しむ
思いはとりわけ強い。「美智子さまの原風景に養蚕があるのかもしれません」と佐藤さ
ん。美智子さまが幼少のころの思い出を素直に語った「橋をかける子供時代の読書の思
い出」(すえもりブックス・98年刊)にそのことを示す個所があるという。…〈田舎で
の生活は、時に病気がちだった私をすっかり健康にし、私は蚕を飼ったリ、草刈りをし
たり、時にはゲンノショーコとカラマツ草を、それぞれ干して4キロずつ供出するとい
う、宿題のノルマにも挑戦しました〉…美智子さまは太平洋戦争中に館林市に疎開され、
地元の小学校で学ばれている。心の奥にしまわれた養蚕の記憶はこの時のものでは−と
佐藤さん。
 御養蚕所の桑園も古株が目立つようになった。県と宮内庁のパイプ役を務める佐藤さ
んは、来年の「皇居の御養蚕展」を前に御養蚕所の古株500本を県に植え替えてもらお
うと考えた。…作業は3月中。桑苗商の大竹文明さん(51)がトラックで運んだ。昔は鎮
守の森のお祭りで桑苗を売った。日に1万本、2万本とはけた。それが昨年は年間3万
本足らず。大学の試験研究などに使われるものが多いという。……「『糸』に『冬』っ
て書くと、『終』って漢字だよね。養蚕も冬が来て終わりかな。おれは皇居に苗を配達
するだけだけど、おれの作った桑が皇居に残るんだ」。大竹さんは照れくさそうに言う。
今や断ち切れそうな細い糸だが、そこに夢を託す人々がいる限り養蚕に「冬」は来ない。
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第3部「希望」−10−心を結ぶ
 須川とめこさん(51)は「繭の記憶」の連載記事を読んで、便りを寄せてくれた一人。
1984(昭和59)年に夫を亡くし、2人の男の子と前橋市内から富士見村に引っ越した。山
の暮らしにも慣れたころ、「機を織っていた母親のことを思い出したら我慢できなくて」
機織りを始めた。間もなく、座繰りで糸を引くおばあさんがいるという記事を読み、「織
りだけでなく、糸も自分の手でつくりたい」と思った。寄せられた文面は、その手だてが
ないかというもの。この問い合わせにすぐに、おばあさんたちの座繰りの糸を商っている
石田明雄さん(53)に相談してみては−と勧めた。……それから3カ月、石田さんと一緒に
訪ねた須川さんは、すでに座繰りを使わずに手で糸を引き、自分だけの糸を見つけていた。
「こっちの方が座繰りより原始的な引き方で、糸のできる量は少ないけど、糸に負担がか
からないんだ」と石田さん。……一本の糸が人の心をつないでいく。石田さんの元にも、
県庁を通じて「養蚕を始めて間むないネパールに座繰りの技術を伝えてほしい」という依
頼が飛び込んできた。風土の異なる国に座操りを根付かせるのは難しい。フィリピンで苦
い経験をしている石田さんは「どうしたものか」と考えあぐねている。
 石田さんは「それでも…」と自問する。「おばあさんたちがどれだけ頑張っても、赤城
の糸はあと10年たてば終わってしまう。ネパールにっていうことだけど、必要な国や人た
ちがいるんなら、技術を譲っても、それはそれでいいんかな」。
 糸引きのおばあさんたちの顔が浮かぶ。もう一度会いたいと、土間のガラス戸を引くと、
そこに星野智次さん(72)の人懐っこい笑顔があった。あの時と同じで、囲炉裏に桑の枝を
くべている。だが、妻の正子さん(74)は座繰りの前にいない。「腰が悪くてなあ。体も大
事だからここんところ3、4日休んでるん」。長い間、養蚕は智次さん、糸引きは正子さ
んの仕事。栄ではほとんどの農家が、星野さん夫婦と同じ暮らし向きを続けてきた。今、
養蚕を続けているのほわずかに3戸だけ。「まあ、損得勘定すりゃ割が合わねえ。年寄り
の趣味ってことだいな」と智次さん。後ろから正子さんの張りのある声。「いま、ちょっ
と休んでるけど、糸引きをやめるわけじゃない。また始めるよ」。
 「繭の記憶」を続ける中、読者から数多くの手紙か寄せられた。ほとんどがお年寄りで、
中でも女性が目立った。「お蚕が桑を食べる雨降りのようなザーザーという音がしていた」
「母は機を織って、嫁ぐ私に着物を持たせてくれた」「座繰りの小さな歯車が回るかすかで、
心地よい音を覚えている」…。連載が始まったころは母親、お蚕、そして桑、これらの幼い
日の思い出をつづった内容が多く、連載が進むにつれて、ただ懐かしむだけでなく「なんと
か残してほしい」と切々と訴える文面も増えた。
 桑を植え、お蚕を飼い、糸を引き、布を織る仕事への思いを心に刻んでいる人々がいる。
その数の多さをあらためて手紙に教えてもらった。取材を通じて、思い出だけにとらわれず、
糸に夢を託し、未来を見据えている人たちがいることも知った。心に残る「繭の記憶」から
細い糸をたぐり寄せることで、新しい世紀の明かりが見えてきた。(おわり)
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Chikayoshi Kitamura (NIAS/MAFF) kitamura@affrc.go.jp