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下記のアドレスに、桐生の鋸屋根工場という題で「桐生タイムス」の記事の紹介等があります。
http://www.ftnet.or.jp/nokogiriyane/
その中に、前橋工業高等学校教諭野口三郎さんの「桐生の鋸屋根」を考察する、というページ
があります。一部を下に紹介します。織物工場における理由として、於保さんが書いておられ
るのと同じ理由が書かれています。
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1 鋸屋根とは−採光機能をもつ屋根(中略)
2 桐生の鋸屋根
2.1 建築年と数
 これまでの調査でわかった年代別の一覧を表に示します。(中略)
2.2 木造が圧倒的(中略)
2.3 なぜ鋸屋根にしたのか
 群馬県内の高崎・前橋・伊勢崎・館林・太田の各市内にも鋸屋根工場は散見されますが、数
は桐生には及びません。どうして桐生にはこんなにも多数あるのでしょうか。工場の経営者は、
ジャガードを使い紋織物を製造するためであったといいます。図1に示すように通常の織機の
上に縦糸を上下させる装置を載せました。一定の空間が必要となります。また、桐生に限りま
せんが、電気の乏しい時代、昼光は作業上はもちろん、製品の仕上がり具合や色あいなどを見
るのに欠かせませんでした。多くの工場はガラス窓を北側にとりつけています。電気が豊富に
なった現在でも、反物の出来不出来については一日中変化の少ない柔らかい「北光線」のもと
でおこなわれていると聞いております。アトリエが北窓になっているのとあい通じるものがあ
ります。
2.4 最古と最新
(中略)現存の最古は1902年(明治35)、取り壊されたものでは1890年(明治23)
となっております。一方最新は1969年(昭和44)で今も帯の工場として稼働しておりま
す。2年前に鋸屋根を採用した住宅が建ちましたが、工場に限っていえば、桐生の鋸屋根は8
0年間の命です。

3 語意と表記について
 ギザギザ屋根を建築し始めた当時、どのような表わし方をしていたかを振り返ってみましょ
う。清水建設に『清水方家屋建築撮影』が所蔵され種々書き残されています。「屋根五側片流
棟明り取硝子窓」「屋根鋸形」「家根明り取り附鋸歯状造り」。内国勧業博覧会の建物や全国
の紡績と織物工場が竣工した時の記録です。
 一方、桐生では唯一煉瓦造の金谷レース工場が当時金芳織物と呼ばれていましたが、その設
計書に「木造鋸歯」と墨書。現在、桐生市近代化遺産絹撚記念館として事務所が保存されてい
る旧日本絹撚の鋸屋根工場は、「家根連接明り取硝子張」と社史に書き記しています。
 鋸屋根が語彙として建築雑誌に登場するのは1911年(明治43)8月の第296号でし
た。建築学会は建築語彙編纂委員会を設け、検討を重ね同年6月の委員会で「saw tooth roof」
を鋸屋根と決定し、2カ月後の建築雑誌に掲載されました。

4 鋸屋根の日本でのはじまり(以下略)
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Chikayoshi Kitamura (NIAS/MAFF) kitamura@affrc.go.jp