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今回は《小如来=又昔、青白、掛合、黄繭》についてです。
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 斯く大巣の蠶種を好て飼育せしより、蠶は漸次虚弱となり、随て飼育に困難を來せ
しを以て小巣の蠶種を望むもの年一年に増加し、終に大如來は廢せられて專ら小如來
の世と為れり。是に於て福島縣伊達郡の伊藤彦次郎なる人、又の昔に復するの意を以
て小如來に又の昔なる名稱を附し廣く世に販賣せしより、文化以降文政の末年(今を
距る九十年乃至六十四年)には全國の蠶種は悉く此の又の昔に變ぜりと云ふ。又斯く
小巣の蠶種盛に世に行はれたるが為め蠶種に不足を生ぜしより、之を補はん為め、青
白種なる黄繭及掛合蚕種なるもの世に出現したるが如し。抑(そもそ)も青白種なる
ものは家蠶と野蠶との掛合にして、之を發見せし人は何人なるや明瞭ならずと雖も左
に其發見者なりと傳ふる者を列挙して識者の判断を待つ。

  埼玉縣萩原杢衛氏著の蠶事眞説に據れば、文政年間(今を距る七十六年乃至六十
 五年)上野國緑野郡上大塚村の蠶種製造人、織茂周平の家に於て、蠶種製造の際曠
 野より一羽の蝶飛來りて蠶蛾と交合せしを認め、之を別紙に取置き其蠶卵を次年に
 及で養ひしに青色を帯たる繭を為せり。又此蛾へ桑蠶の蛾と交合せしめ、次年に之
 を養ふて其成繭を見るに黄色を帯べり。之が繭巣とちゝらを撰みて復製すること三
 ケ年、都合五ケ年の勞を盡し、而して之を閲するに結構なる眞の春蠶の質とはなれ
 り。之れ青白色なるを以て今に至るまで青白と唱ふるなりと。

  長野縣蠶種調査表には、文化十年六月(今を距る八十一年)長野縣小縣郡上塩尻
 村藤本善右衛門(現時善右衛門氏の祖父)野蠶の雄蛾と春蠶白繭の雌蛾に孳尾せし
 めて得たるものにして繭は黄色なり。蠶質強壮なるを以て大に世に行れ云々。

  長野縣藤本縄葛氏の説に據れば、文政十年(今を距る六十七年)奥州伊達郡の伊
 藤彦次郎氏の父善右衛門なるもの、信州高井郡小布施村にありて蠶種製造に從事し
 たる折、蠶室の窓を開き置きたるに、桑蠶と稱する山野自然生の蠶蛾來りて、又昔
 の蛾に交尾せしを心付ず其儘甲州都留郡へ販賣したるに、白繭の又昔より黄色の繭
 を生じたれば人々大に驚きしが實用如何と黄繭のみを撰出して製絲せしに絲質美に
 して弾力強ければ、試に機に掛け反物を織りたるに頗る奇麗なり。因て終に其原因
 を探り白繭と野蠶と交接して斯る黄繭の生ぜしことならんと心附。野蠶の繭を集め
 其雄蛾を採て白繭又昔の雌蛾に掛合彌々黄繭を製造せしは、文政十二年(今を距る
 六十五年)にて日本黄繭種の行れたる始めなりと(黄繭の始めに就ては別に意見あ
 り)。
 
  掛合は弘化年間(今を距る五十年乃至四十六年)信州小縣郡上塩尻村の藤本善右
 衛門、仝郡中條村の中山重作氏相謀り、春蠶と夏蠶とを掛合せ蠶種を製造せしに飼
 育易きを以て塩尻の掛合と稱し今日あるに至れりと云ふ。

 以上の如く發見者と稱する者數多ありと雖も、此種の世に出でしは文化文政の頃た
るは盖し掩ふべからざる事實なるが如し。爾後安政六年(今を距る三十五年)横濱開
港以來養蠶家皆好で青白を飼育し、全國の蠶繭をして悉く黄色に変ぜしむるの勢ひに
至れり。是れ他なし。當時伊佛には蠶病甚しかりしが為め、我蠶種の輸出一たぴ開け
て當業者一時非常の大利を得たるより、各自相競ふて蠶種の製造に従事し、而して其
種類の良否絲質の善悪は措て問はず、唯蠶兒強壮にして飼育容易なるものを貴ぴしが
故なり。
 其後蠶種の輸出年を逐て衰へしより當業者稍や悟る所あり随て黄繭は漸次減少すに
至れりと雖も明治十四五年頃までは尚其半は黄繭に属せり。爰に其一證を挙ぐれば明
治十二年横濱港に於て開設ありし繭絲茶共進會に出品せし繭の総數は四百六十七點に
して、其内白繭二百零七點、黄繭二百六十點なり。
 又去る十四年の第二回内國勧業博覧曾の出品繭數は詳ならずと雖も審査報告書に拠
れば、今回の出品を檢せしに或は黄繭のみを出せるあり、或は黄白相錯雑せるあり、
要するに黄多くして白少し、然るに獨り福島縣の出品は一望晧然雪の如く其黄あるは
千分の一に過ずと。
 以て黄繭の多かりしを知るに足る當時の實況斯の如くなりしと雖も本邦の蠶業は去
る十六七年の頃より長足の進歩を為せしを以て黄繭は遂に消滅するに至れり。
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Chikayoshi Kitamura (NIAS/MAFF) kitamura@affrc.go.jp