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最後は《赤熟、青熟》です。
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 黄繭の消滅に伴ひ世に出現して大に賞讃を得たるものは赤熟青熟の二種とす。此二
種の發見に就ては其年暦詳ならずと雖も左に一二の傳説を掲ぐ。

  赤熟の發見は天和元年(今を距る二百十三年)福島縣伊達郡掛田村佐藤友信の祖
 父にして世々該家に傳ふ。明和二年(今を距る百二十九年)前より絲質の美なるを
 以て同村の養蠶家之を飼育し來りしと雖も飼養の難易絲量の多寡等に至ては精撰全
 からざるに由り、文政元年(今を距る七十六年)同村の佐藤久之助、一名川久と稱
 するもの、絲量の多きと蠶兒の強壮ならんことを望み務めて精撰すること久し。漸
 く天保元年(今を距る六十四年)に至り数年の實験其効を奏するに至れり。是れ今
 の赤熟にして爾來該種を飼育するもの年を逐て多きに至れりと。

  又、一説には寳暦二年(今を距る百四十二年)仝村大橋伊三郎の發見にして世々
 相傳ふ。然れども精撰未だ完からざるを以て文政元年(今を距る七十六年)其子伊
 三郎絲目の多量と蠶兒の強壮にして凶蠶の患ひなからんことを望み積年刻苦して精
 撰し、終に仝十二年(今を距る六十五年)に至り其効を顯はす。是れ今の赤熟元質
 にして天保二年(今を距る六十三年)より大に世の讃賞を受けて該種を本國及出羽
 地方に販売すと。

 青熟種に就ては嘉永五六年の頃(今を距る四十一二年)福島縣伊達郡掛田村大橋重
左衛門なる者赤熟種中より撰擇せしものなりとのことは、去る十八年繭絲織物陶漆器
共進會審査報告中に詳なり。今之を轉載すれぱ左の如し

  福島縣川俣地方に於て輕目絹を製す。即西京の本紅(もみ)にして該絹四反に付
 縦絲の重量は四十三四匁を最上とす。其需用する處の繭は古くより赤熟を用ゐたり
 しが、嘉永二三年の頃は其大巣を好みしに由り、絲繊太きに過ぎ一時機織家に於て
 甚だ困難を極めたりき。是故に競ふて赤熟繭中縮緬の細かなるを撰摘せしに、其弊
 反て絲繊細きに失し、為に解舒し難きに至れり。此に於て重左衛門、刻苦研究多年
 の經驗に因り漸く青熟の本質を得、而して製絲家も皆之を貴重するに至れりと云ふ

 抑も赤熟の世に賞用されしは、當時此種が各地の博覧會共進曾等に於て大に高評を
博したるに原始し、是が為め當業者は競ふて之を飼育し、一時は赤熟にあらざれば蠶
種にあらず、又之を飼育せざれば養蠶家にあらずとするが如き奇観を呈するに至れり。
赤熱の流行斯の如く盛なるより、濫に火力を與へて蠶兒の大なるを貴び、以て之を赤
熟種の本質と誤認し、其極遂に明治二十年頃より赤熟は飼育困難なると絲量太きに失
するとの二言を以て蠶業社會に擯斥せられ、是に於てか蠶種の小巣説又世に出で、爾
後は小石丸又昔の如き小巣蠶種の世とはなれり。
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Chikayoshi Kitamura (NIAS/MAFF) kitamura@affrc.go.jp