司会:いろんな百選の里・綾町で手紬、染織を続けられております、現代の名工秋山眞和先生よりご講演をいただきたいと思います。ご講演に先立ちまして、先生のプロフィールをご紹介申し上げます。  秋山先生は昭和41年に綾の手紬染織工房を創設され、主宰者として現在に至っております。昭和47年には社団法人日本工芸会正会員に認定をされまして、昭和59年には宮崎県伝統工芸士、第1次指定を受けられております。  先生は、古代の染織を再現した織物づくりを手がけられまして、幻の紫と言われてきました貝紫染め等で、平成7年には労働大臣より卓越した技能者、現代の名工として日本で第1号の指定を受けられております。これまで、養蚕農家とのつながりの中で小石丸にこだわり続けられ、独特の作品を創出されております。  本日は、「伝統技術へのこだわり」と題し、先生の絹への熱い思いを語っていただきたいと思います。では、お願いいたします。


伝統技術へのこだわり
−養蚕農家と染織工房とのつながり−

綾の手紬染織工房主宰 現代の名工 秋山眞和

 このような大きな絹の産地で家内工業にも満たないような私どもの仕事内容を語るのは、ちょっとお恥ずかしい気もいたしますけれども、ご指名ですので、すべてをさらけ出してお話しさせていただきたいと思っております。
 私の住んでいる綾町(あやちょう)は、日本名水百選の1つとか、日本一の照葉樹林地帯を抱えた大変な山奥でして、ことしの夏現在で人口7,600人です。こんなに小さな町です。過疎地だったのですが、30年前が7,300人で、30年で300人がふえているわけです。それで、去年、過疎地帯から外されまして、町政は大分困っております。過疎地域へのいろいろな助成金が来なくなって、1年で10人ふえただけで過疎地帯から指定を外されたような町です。交通公社の時間表にもつい数年前まで載っておらず、時間表にない町18の一つだったのです。しかし、最近は酒のテーマパークなどができましたので、こちらに来るときに時間表を買いましたら、綾町が載っておりました。
 網野町も並の不便さではなくて、昨夜こちらには横浜から来たのですが、綾部まで隣の加悦町の加畑さんに迎えに来ていただいて、そこから6時間もかかり、相当びっくりいたしました。しかしこの網野には鉄道も通っておりまして、人口も1万人を超えているということで、綾町よりもずっと都会だと認識しております。
 小さなパンフレットをお渡ししております。綾町長から綾町のPRをしてくれと頼まれまして、200部もらってまいりましたので、この中から綾町のことをちょっとだけご紹介させていただいて、お話をさせていただきたいと思います。
 今、綾町には40軒ぐらいの工芸工房があります。綾町にない工芸といいますと、金工と紙漉きぐらいのもので、ほかの工芸は全部そろっております。隣の加悦町でも工芸の村おこしで盛んに頑張っておられますけれども、綾町も、昭和40年までは日向の碁盤以外は何もない町でした。
 なぜ綾町に織物や工芸ができたかということからお話をします。私の先代、父親が、戦前沖縄で織物業を営んでおりまして、実は第二次大戦で、沖縄の大空襲の2カ月前に軍からの命令で父親の郷里の福岡に疎開してきました。そのときに沖縄で仕事をしていました職人や従業員が宮崎に疎開して1つの集落を作っておりましたので、宮崎に行って沖縄の伝統的な工芸を始めたわけです。織物と漆、ですから、宮崎の漆も琉球とそっくりです。
 そういうことで、昭和26年ごろから盛んに宮崎では琉球の織物を製造しておりました。それを室町の問屋さんにそのまま卸していたのですが、流通の方では、焦土の沖縄で早速このような伝統織物が復活したのだというキャッチフレーズで売りに出しまして、物のない時代でしたから、それこそ飛ぶように売れていました。宮崎で織りながら沖縄のブランドとして世に出ていたのが、私どもの先代の宮崎での織物でした。
 昭和40年に私が仕事を引き継ぐときに、生産者と生産地をきちんと明記できないような織物、いわゆる隠し工房のようなものでは作り手として意味がないのではないか、せっかく作っていても、たとえいくら優秀であっても、よその産地の名前をつけているのでは、それは偽物にしかなれないということを考えました。それには宮崎ブランドの織物を作ろうということで、織物に縁のある綾という町名の地に工房を創設した訳です。
 パンフレットにもありますように、綾は水やいろいろな自然の素材、特に木材などがとても豊富です。しかし、そういうものに恵まれていても、綾町が「綾」の名前ではなかったら、多分行かなかったと思います。そういうことで、綾というネーミングで綾に織物を持っていったというのが正直なところです。

 その後、綾町で私どもの織物工房を実験工房とし、今度は、せっかく手づくりの産業ができたのだから、自然を生かした手づくりの里運動をしようという気風になりまして、「工芸の里づくり」事業が町の肝いりで始まりました。昭和48年から、地元の者に技術を教えるのではなく、全国各地からものづくりをしたい人を導入したわけです。役所的に言いますと、「優良工房導入事業」です。そのために、多数のいろいろな工芸が根づいたというのが今の状況です。
 綾町には織物に関係する事業所が全くありませんでした。例えば、京都でしたらいろいろな分業がありまして、染めは染め屋、しかも染め屋も色が違います。紅屋があり、黒屋があり、茶屋があります。もちろん整経屋さんも糸繰屋さんも、すべてが分業でやっております。そういうものがまったくないところですので、仕方なく織物に関するすべての工程を自分のところでやらざるを得ないという状態で織物を作っていったわけです。ですから、今でも撚糸以外はすべて私どもの工房内で作業しております。
 昭和41〜42年ごろ、この網野町でも白生地の最盛期ではなかったかと思うのですが、そういうときにも名のない綾という町の織物が、売れるわけでもありません。そこで、どのようにして新しいブランドを根づかせるかということで、いろいろと試行錯誤しました。
 丹後のような京都の大産地とはとても競合しようにも力もありません。それで結局、大産地とは逆のことをしてみよう、いわゆる先祖返りの仕事をしてみようではないかということで始めたのが、綾の手紬の最初の方針です。高い理想をもって始めたというよりは、そうせざるを得なかったということです。幸いにして、ちょうど糸へんの景気がよかったときだったもので、そんな冒険もできたのかもしれません。
 そのためにまず、古代の染織の復元をしてみよう、本来の織物の意味を考えてみようということで、例えば、なぜ衣装に色を施したか、なぜこういう繊維を使うかということを考えました。例えば、すぐに思いついたのが、色を施すというのは、今はおしゃれのためですが、本来は身を守るために漢方で染色したというのが起源ではないかということで、化学染色を可能な限りやめて、天然染色をしてみようということを始めました。
 また、その当時、私どもは紬地風が多く、紬糸を使っていたのですが、紬も自分のところで作ろう。紬を作るにしても、さらに良真綿がほしい。それなら真綿を作ろうと。最後には繭まで作ってしまおうということになったわけです。

 そういうことが発端で、例えば藍染めをしていますが、苛性ソーダを使わずに、綾町にふんだんにある照葉樹林の最たるものであるカシの木を使います。カシの材木を綾町は非常に多く産出し、隣の都城市がくわやスコップの柄の産地として、全国の6割近くを作っております。四角い材木から丸い柄を取ると、3分の1ぐらいは廃材として残りますので、それを燃やしてもらって灰を作ります。そのカシの木の灰で藍を仕込みます。無理してやるのではなく、周りを見回せば、捨てられているものがたくさんありますので、そういうものを利用しております。
 綾町は、今は工芸の里というよりもお酒のテーマパーク、酒泉の杜を中心に年間120万人、7,600人の町に月10万人の観光客が来ます。産業を見るための観光という意味での産業観光として、少しは地位を築いたように思っております。ご存じの方もあるかもしれませんが、昔は宮崎県といえば新婚旅行の町で、大方は青島でしたが、今は綾町にお見えになるお客さんの方が多くなっています。多ければまたそれに伴う問題もあり、その辺の兼ね合いが非常に難しいですが。もし九州にお見えになるときには宮崎空港から車で1時間ほどのところですので、記憶のどこかにとめておいていただければと思っております。
 それから、もう一つ、『染織α』の増刷を皆さんにお配りいたしました。これは、京都の染織と生活社が1991年に出した本を、今回のために増刷りしてきたものです。10年以上昔のもので、今改めて読んでみますと、非常に不都合な箇所や、作業内容も大分変わっておりますが、そこは目をつぶっていただいて、ある程度、そのころから仕事をしていたということを、ちょっとご承知おきいただければと思っております。
 最近、ある糸へん関係の業者が、ここに書いてあるのと全く同じことをして、生繭の取引売買法が廃止されて、初めて小石丸の養蚕が可能になったと盛んにいろいろな本に出て書いてありますので、稚拙な記録文ですが、あえてこれをお配りいたしました。

 今日お話しすることはすべてこれに載っておりますが、せっかく繭まで加工しようというのなら、付加価値のある、差別化した繭を作ってみたいということで、いろいろと農水省の方にもお世話をいただきました。十数年前までは宮崎と屋久島に農水省の繭の試験場があって、そこのお力を借りていろいろと繭の特性を調べていただいて、毛羽立ちの一番少ないものが小石丸だという報告を受けました。それで、どうしても小石丸をやってみようということになりました。毛羽立ちというのは、実は藍染めをしている場合に、普通の絹糸を染めた場合、ラウジネス現象で困っていました。それを直せる方法はないかということで、まず小石丸を考えて養蚕したわけです。
 昭和60年代ですので、おいそれと養蚕ができるわけではありませんし、まず農水省の小淵沢の種の製造所でも一般には分譲しません。それで、昭和60年に小石丸養蚕の体制を整えるために「照葉樹林文化研究所」なるものを作りました(照葉樹林帯:中国の雲南省あたりから九州を通っている、カシやツバキなどの照り葉の樹木の茂っている地帯)。先ほど言いました木の灰を売ったりして、何とか照葉樹林文化研究所を温存していました。昭和63年に宮崎県並びに農水省に、小石丸蚕の種の分譲を、照葉樹林文化研究所という名前で申請しました。
 平成元年に3蛾分の分譲を受けて、それから始まったのが現在の綾町の養蚕です。3蛾分からはまだほんのわずかしかできませんので2年ぐらいかけて量をふやし、平成3年に初めての小石丸で作った反物ができたわけです。回していただけますか。それは増刷りに載っていると思いますが、そういう布を作りました。そこで、せっかく小石丸を座繰りにするのだったら、乾燥ではなくて生繭を座繰りにしてみようということになりました。20ページに座繰りが載っておりますが、この座繰り機も岡谷の方にいろいろとお手伝いいただいて、植木鉢にしていた焼き物で作った煮繭器を見つけ、それで座繰り機を作っています。生繭も、そのままでは1週間ぐらいしたら繭を食い破って出てきますから、1℃以下の氷温で保存して、生繭の座繰りを何とかやるようにいたしました。
 先ほど理事長が、絹の値段がこの20年間で10分の1以下に下がっているとおっしゃっておられましたが、小石丸というのは相当コストがかかることは事実です。繭100グラムからできる糸が7〜8グラム、つまり7〜8%しか解じょ率がありません。これを機械で製糸しているという話もありますが、俵型になった繭ですから、これを幾ら遅くしても機械でやるというのは、よく切れて無理だったものですから座繰りにしました。糸の太さは平均して1粒1.9デニールで、2デニールを切っております。小石丸の切り繭を回しますのでご覧下さい。
 群馬県などは盛んに養蚕に県が力を入れて公の施設が残っておりますが、宮崎県は繭検定所も農業試験場の蚕業部も廃止されまして、今は孤軍奮闘しております。現在では、県の繭検定事業は継続しなくてはいけないので、私の工房が委託を受けて、座繰りで行っております。養蚕から糸づくりというのが、いかに世間から切り捨てられている産業かということです。ことし宮崎県の春繭の養蚕農家が10軒でしたから、この秋は7〜8軒しかないと思います。そのうちの5軒は私どもの周辺に点在しております。なんとか最後まで、伝統的な技法や、昔の日本の農村の原風景を残せればと思っております。
 座繰り機も、今度は小型のものを作って、各農家の農閑期に糸づくりをしないかという計画をしております。糸の太さが不ぞろいになるかということもあってなかなか踏み切れないのですが、それは着物以外に使えればいいのではないかということで、解決できないかと思っております。

 皆さん方は少しでも蚕に関係のある方だと思っておりますので、改めて画像を見ていただくこともないかもしれません。実は私の工房で、繭の種まで作っております。蚕の種、昔は鐘紡やグンゼなど、きちんと種の工場があったのですが、それもなくなりましたので、機屋で蚕の種まで製造しなくてはならないという厳しい状態ではあります。しかし、逆に種まで抑えておけば大丈夫だという強みにもなります。そういう種づくりから繭かけまでをデジカメで撮ったものがありますので、見なれていらっしゃるかもしれませんが、一通り映像を流したいと思います。
 これは、今お回ししました小石丸の切り繭作業です。まず、春繭を集めたら、いい繭を取り出して中の蛹を出します。蛹を傷つけないようにカミソリで切って、生きた蛹を出します。これを雌雄鑑別します。どちらが雄か雌かわかりませんが、蛹の雌雄鑑別ができればひよこの鑑別も簡単にできるそうです。そういうものもやっておりまして、雌雄鑑別をして1週間ほど箱に入れておきます。このようなもみ殻に蛹を置いて、羽化させます。
 そして、雌雄を交配させます。これはすごく鱗粉が出ますのでマスクをしながらやっております。このように交配させます。羽が短くて胴体の大きなものが雌で、羽の大きいのが雄です。次お願いします。
 こういうふうに交配させたら、すぐに分け離して卵を産ませます。専門家の前でこんな映像で申しわけありませんが、このように産ませて、大体20蛾分を1枚の紙に置きます。これが大体8,000粒あります。つまり、小石丸で着物1反分だと思ってください。それをそのまま置いて孵化させて繭を作りますが、そのまま放っておいたら、きょう孵化したり4〜5日後に孵化するものがあったりして、孵化する時期が一定しませんので、一応衝撃を与えます。皆さんご承知のように、塩酸の液に入れて蚕をびっくりさせて、すぐに孵化させるような状態にするわけです。どうぞ。
 産んだ卵をすぐに孵化させる場合は「即浸」といいまして、25℃で比重が1.11の塩酸に50〜60分漬けておけば、すぐにかえすことができます。来年の春繭用に1年間冷蔵庫に保存しますが、冷蔵庫に保存したものは48℃の湯で、比重をちょっと下げて、1.1で6〜7分でちょっと衝撃を与えて目を覚まさせます。どうぞ。
 これを水洗して乾燥させて、そのまま置いておきますと動めいてまいります。このように、最初は色がちょっと変わっております。たまに白いのがありますが、無精卵ですので孵化しません。それを紙の中に、これを保存して孵化させます。そうして紙を開けたらこのように小さな毛蚕が出ています。これは生まれたばかりの毛蚕ですが、これをまたいろいろ等分して拡蚕していきます。
 これはそろそろ人工飼料を与えてふやしていきます。このように掃き立てをしています。緑色が人工飼料です。これは桑の葉を主成分にした練り餌です。小さかったものが段々ふえて大きくなっていくわけです。これはもう2令ぐらいになっています。
 私どもの方では、3令になるまで工房で育てております。3令になりますと養蚕農家に配蚕して、実際に桑の葉を食べさせてやります。これは農協の車です。せっかく全てを工房内でやったものも、生繭売買法というのは廃止されていますが、養蚕は必ず農協を通さなければいけないという取り決めが歴然と残っておりまして、きちんと農協には分け前を自動的に取られるようなシステムになっています。お米は自主流通米というのがありますが、蚕は誰も知らないのですね、そういう約束がまだ残っていまして、農協に手数料を何割か払わされています。配達するぐらいの手間で何%か取られてしまいます。これが3令で、盛んに食べて大きくなっております。
 これは4令ぐらいです。ほかのものと比べるものがないのですが、小石丸の蚕と普通の蚕では、3倍以上大きさが違います。普通の交雑種が私の人指し指ぐらいだとすると、小石丸は5令になっても娘さんの小指ぐらいの大きさです。これは5令ですが、この人は昔の娘さんですので指がちょっと大きいのですが、このぐらいです。これは5令です。これはそろそろ糸を吐く上蔟(じょうぞく)の時期ですので、それを選び出して「まぶし」に入れます。小石丸は原種だからとても弱いという話を業者の方がされますが、決してそうではないです。3令まで完全に予防を施しておけば、決して弱くはないです。
 ただし、微粒子病などが3令までに入る危険性が高いので、それまでは十分神経を使って無菌室で、人工飼料で養蚕しております。指定品種ならば、もし病気で全滅しても共済金が下りて、農家も全然損害を受けないのですが、小石丸は国の指定品種ではないものですから、もし病気で全滅したら補償はありません。ですから、絶対に病気を起こしてはいけないという前提で養蚕をしておりますから、3令まで無菌室でやっております。
 このように回転まぶしで入ります。ご承知のように蚕は上に向かう習性を持っておりますから、上に向かったら上部が重くなって、また空いたところに入ります。小石丸ですから、本来はもう少し小さな回転マブシを使いたいのですが、このような養蚕に関する小道具を作るところもなくなりまして、こういう材料を確保するのに苦労しております。
 桑のご専門家がいらっしゃるかと思いますが、綾町ではこの種類の桑を使っております。小石丸を養っていない季節は、普通の梅雨蚕や晩々秋など、一般の交雑種を養ってもらっております。こういう桑畑が私どもの町にはまだたくさんあります。もちろん網野町にもたくさん残っているとは思いますが、何とかこの桑畑をいつまでも活用できるように、地場産業としても頑張りたいと思っております。
 それから、この桑畑が一つだけ違うところは、農薬を使わないということです。ご承知のように綾町は、有機野菜の町第1号に指定されております。例えば、木綿でもオーガニック・コットンといって、農薬を使わないようにしているのが注目をあびていますが、桑畑も農薬をまかないようにやってほしいということで、下に地鶏を飼って、これで虫を捕ったり、鶏の糞を肥料にしたりしております。また、鶏は地鶏で、副産物として評判を集めています。そういう状態です。ありがとうございました。

 先ほど申しましたように、もともと織物の産地ではなかったものですから、どのようにして織物の技法を綾町に根づかせるかということに一番コストがかかりました。我々は、「納屋蚕業」という言葉をつかって、何とか農家の主婦を説得しました。例えば、パートに行けば時給800〜900円は稼げるかもしれないけれども、子どもが学校から帰ってきて母親が家にいるということの方が、お金には代えられない何かがあるのではないか。何とかそれを家庭の中で、内職として農家でやってほしいということを、この40年近く口を酸っぱくして言ってきました。
 以前はお年寄りの手がたくさん空いていて、理解していただいたのですが、最近はゲートボールとかいう遊びがはやりまして、皆そっちに行ってしまって、かえって今の方が苦労しております。あれは誘われると断れないのですね。
 回覧いただいている布のように、濃い藍に30回以上染めても全然白粉(ラウジネス)がふかないというのは、確かに小石丸の本当の大きな特徴の一つです。
 ただ、最近小石丸というのは希少価値とか、皇居で養蚕されているということで価値づけされています。しかし、小石丸そのものの特性も大変すぐれたものです。細いけれども張力もあるし、座繰りでゆっくり糸を引くことにより、縮んだ糸になります。縮んだ糸になれば、また伸びる弾力性があるということで、空気も含まれているし、織物になった場合に角がすり切れないという大きな特性があります。ですから、いわゆる懐古主義で手づくりをしているわけではなく、やはりそうではないと本来の素材の味を出せないということがわかりまして、こだわっているわけです。
 小石丸の養蚕費も、一般の交雑種の養蚕の4倍のお金を払ってやっております。次の世代の人たちは、宮崎の場合はハウス園芸が盛んでして、米づくりより何倍ももうかる仕事をしているものですから、若い人たちで養蚕をするという希望者がなかなか出ないのも事実です。何年かしたらもっと減るかもしれません。それに備えて、我が工房で桑園を開墾中です。そういうことをしながら、昭和41年から今まで燃やし続けた伝統工芸を残していきたいと思っています。
 先ほど人手のことを言いましたが、養蚕農家だけではなく、綾町のいろいろな人とのつながりで私どもの手工芸はあります。例えば、シルバー人材が各地にあると思いますが、その人たちにいろいろな植物染料の採取や、灰汁(あく)を取る作業をお願いしています。単純作業で非常に面倒なものです。木の灰をこし器に入れてお湯をかけて、それを取って貯えたりします。また、各家庭の植木の剪定があります。宮崎県には照葉樹林が多く、カシやツバキの枝がたくさん入りますので、それも灰づくりのために工房に運んでもらったりしております。
 今日は養蚕以外の他の映像を持ってこなかったのですが、秋には「まゆ祭り」という行事があります。養蚕農家と私どものつながりや、生きた繭を煮沸してしまうので、繭の霊を慰めるとか、そういう意味でのまゆ祭りです。そのときには町内の人がいろいろと手伝ってくれております。それから先ほど述べましたが、カシ灰から作る木灰で藍染めをやっておりまして、苛性ソーダや石灰を使わずに、藍染めをしております。
 市田先生からも貝紫の話が出るのではないか仰っていただきましたが、貝紫も藍染めと全く同じ原理の建て染め染法で染色しています。ただ、化学式の亀の甲にブロムインジゴの手がついていないだけです。 くさいタンパク質の腐ったものが除去される建て染め式による貝紫染は貴重です。
 しばらく質問の時間を取ってくれということで、5分前で終わらせていただきますが、いろいろご質問があればお受けしていきたいと思います。いかがでしょうか。(拍手)
 すみません、忘れていました。最近は小石丸だけの糸に更に変化をつけ、このように小石丸と天蚕の混繰、天蚕はこれはちょっと太い糸です。天蚕と小石丸を2粒ずつ4粒づけで作ったものです。糸の収縮率が違いますので、織ったときに縮みが出ます。その縮み具合がとてもおもしろいので、そういう布を織っています。この糸が14〜15デニールで、経緯同じ糸で織っております。

司会:  ありがとうございました。ただいま秋山先生より、平成3年から小石丸にこだわって蚕の飼育、糸づくり、織物というように、先生独自の技術でずっとやってこられたというお話を聞いたところです。  あと5分ほど時間がありますので、何か皆様の方からご質問等ありましたらお願いをいたします。いかがでしょうか。  ありませんようでしたら、秋山先生には本日宮崎県、大変遠くからお越しいただきまして、このように貴重なご講演をいただき、厚く御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

秋山氏:  ありがとうございました。(拍手)


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