司会: それでは、シルク・サミット2004 in 八王子の基調講演に入らせていただきます。ご講演くださいますのは、八王子織物工業組合理事長の田中貞男さんです。よろしくお願いいたします。

  基調講演
八王子の歴史と織物

八王子織物工業組合理事長  田中 貞男

 ご紹介をいただきました八王子織物工業組合の理事長を務めております田中でございます。
 きょうは、シルク・サミット2004 in 八王子の基調講演をというご依頼を受けまして、小此木先生には再三にわたってお断りを申し上げておったところでございます。たまたま私も体調がちょっとすぐれませんものですから、そんなことで皆様のご期待に沿えるお話ができるかどうか大変心配をいたしておりますけれども、与えられた時間の中で努力をしてまとめてまいりたいというふうに考えております。

 八王子という地名はいつからできたんだろうか。八王子の織物はいつから始まったんだろうか。文献が大変少のうございまして定かではございませんが、今から 400年前に小田原の北条氏が現在の元八王子の城山に城を築きまして、八王子権現を祭って八王子城と名づけました。そのときから、この地方が「八王子」と呼ばれるようになったというふうに言われております。それ以前、今から1,470年前には「日本書紀」に、武蔵の多摩の横、いわゆる「横山」と記されているとおり、この地方は「多摩の横山」というふうに呼ばれておりました。
 飛鳥から天平の時代、いわゆる奈良の時代に大化の改新で全国に国府が設置をされました。今の知事でございますが、それに任命をされた国司が府中に赴任をいたします。国分寺も創建をされました。八王子にある高尾山もこの時代に開山されました。行基菩薩によって開山をされたのが高尾山であります。こんなことに当時は織物にどういう関係があるのかなということをちょっと調べてまいりました。

 多摩川の沿岸の村落には、当然のことながら人々の営みがありました。万葉集に「多摩川にさらす手作りさらさらに なんぞこの子のここだ愛(かな)しき」と歌われております。既に万葉の時代には、多摩川の沿岸で人々が麻や絹の織物を織っていたという営みの記録がわかるわけであります。
 今、調布、砧など、絹、麻に関係する地名が残っております。もちろん、調布は、当時の絹の織物を上納、物納をした、今でいえば税務署のあったところでございますし、砧とは、麻を川辺で、石の上でこづちでたたいてやわらかくする、そういう技法の「砧」という言葉が地名として残っているところを見ても、まさに多摩川の沿岸では麻や絹の織物が織られていたということが事実としてわかっております。
 特に上代から、中国の秦氏、そして朝鮮半島を経て百済、高句麗、いわゆる高麗の人々が、日本に国王を先頭に渡来をして帰化いたします。この人たちが、仏教を初め、いわゆる生糸をつくる、米をつくるという、人間として一番大事な生活の上で必要なこと、より高度な技術を伝来してくれました。多摩の横山、特に武蔵野は、高麗(こうらい)、いわゆる高麗(こま)の一族が、若光、国王を引き連れて……。文献によりますと、1万人程度の人間をここへ引き連れて、東国の開発に、当時の奈良朝の元正天皇の命令で赴任をいたしてまいりました。今の埼玉県の高麗町に定着をいたしました。これらの人たちは荒野であった武蔵国を耕し、そして桑を入れ、蚕を飼い、生糸を紡いで、機を織る技法を武蔵の人々に教え伝えたわけであります。
 延喜7年といいますと908年でございますから、今から1,100年前になります。この時代には規格書という全国それぞれの物産の名が入った書物があるわけでありますが、延喜式と言われております。この中に「武蔵」という名前があります。そこで初めて武蔵国の八王子を中心とした物産の名前が出てくるわけであります。府中に住み着いた小野義孝という国司は、6年の任期が終わっても京都に帰らずに八王子に住み着きます。今の元横山町に住み着きました。「横山党」というふうな荘園をつくりまして、最大軍団を形成するわけであります。
 横山党は鎌倉時代まで続きました。分倍河原の合戦等を経て、当時の北条軍に敗れて滅亡するわけでありますけれども、鎌倉時代に入りますと、まさにこの地方は鎌倉幕府の勢力下に入ります。時の名僧西行法師、先ほど市長もちょっと触れられておりましたが、全国行脚の旅の中でたまたま八王子を通り過ぎまして、「あさかわを渡ればふじのかげきよく 桑の都にあおあらしふく」と800年も前の昔に歌っているわけであります。この当時、八王子は既に高麗一族で覚えた蚕、絹、八王子一帯に桑の都にふさわしい桑の葉が美しくたなびいていたということが歌われているわけでありまして、桑都、桑の都八王子というゆえんはここから出たと言われております。その当時から桑都と言われたわけではございませんが、後の千人同心のメイクンである「武蔵風土記」であるとか「桑都日記」の中に「桑都」という言葉が出てくるわけであります。そんなことで、そのもとは西行法師の歌であろうというふうに言われているわけであります。

 時は戦国時代に移ります。越後の上杉、甲斐の武田に対峙する北条の三男、氏照が、八王子の北部にある滝山城に入城いたします。大石家の居城であったんですが、婿養子として入りまして実権を握ってしまうわけであります。この北条氏照が滝山を中心とした城下町を形成して、初めて八日市、横山、八幡の3宿をここで開くわけであります。たまたま氏照は、「滝が落ちる」という言葉が悪いということで、西のほうにある現在の八王子市、元八王子の八王子城に移るわけでありますが、この滝山の城下町をそっくり元八王子に移転をしてまいります。
 これが天正18年には、元八王子のいわゆる八王子城の城下町の宿場に紬座という座を設けております。織物の売り場を設けているということが史実でわかってまいりました。これは八王子の地名が、絹織物というものも初めて本格的に出た最初であります。したがって、八王子織物の起源は400年前の北条時代であるというふうに言われているところでございます。
 八王子城は、既にご承知のとおり、豊臣秀吉の命を受けた前田利家軍に攻められまして落城をいたします。しかし、北条の遺臣であった長田作左衛門が前田利家に見込まれまして、新しい八王子の町をつくることを命じます。元八王子から現在の八王子へ宿場町を移動するわけでありますけれども、たまたま徳川家康が後に江戸入城をいたしました。代官として、石見守大久保長安が八王子の小門に代官を設置いたしました。長田作左衛門とともに八王子のまちづくりに挺身いたします。3宿であった八王子の町は15宿まで拡大をされました。
 また、甲斐の武田の遺臣であった千人同心を八王子に移住させます。千人町を中心として江戸城西部の防衛の任務に北条の遺臣をまじえて1,000人の同心を組織いたしまして、八王子千人同心ということで発足をいたします。
 千人同心は織物にはそれほど関係はございませんけれども、甲州から出たということで、甲州も織物の販売は特に許されました。もともと禄高が低い武士集団でございますので、子女の内職等、それから、みずから農業を営むというようなことをしないと生計が成り立たないという極めて禄高の低い武士集団でありますけれども、いわゆる旗本待遇でございますものですから、旗本集団としてその格式だけは守っていたわけであります。
 この年代に八王子は、4の日と8の日、いわゆる6斎市という6回の市日を開きました。大変にぎわいをしたそうであります。4の日は4、14、24、これは横山町。8の日は8、18、28と八日町が市日の場所であります。当時の大変なにぎわいの様子の歌がございます。「かいこ飼ふ 桑の都の青嵐 市のかりやにさわぐ諸びと」と、市場が大変にぎわったということがこの歌からもうかがわれるわけであります。
 後に、寛永4年に出版された「毛吹草」には、滝山紬、横山紬縞等の名前も出てまいります。享保17年に発刊された「万金産業袋」には、十文字桑、上田紬、八王子平、上田縞というような……。もともと縞は織物という意味でございますものですから、ただ縞でない、縞の柄でないということだけご認識をいただければ、当時の織物の状態がわかるだろうと思います。
 天明から寛政にかけては、八王子の郊外、五日市を中心として黒八丈。黒八丈というのは、当時、襟は別襟で縫いつけます。それから、そで口。これをつける布地なんですが、黒八丈が大変人気を博しまして、八王子の6斎市の市場の主導権を握ったという説もあるわけであります。
 実は私どもの明治6年の日記に、8月4日の市日で、私の祖祖母になりますか、黒八丈を織って5両3分2朱もらう、というような日誌も出てまいりました。明治6年には既に千人同心ではなくて、亭主は失業をいたしておりますから、内儀が家計を支えたんではないかなと、そんな考え方を持っております。

 そんなことで、八王子の町は大変にぎわったわけであります。
 さらには、上州の桐生、今の群馬県の桐生、それから長野県の上田などからも職人が移住をしてまいりまして、それらの技術も導入されて、八王子の織物の知名度が全国的に高まってまいりました。
 一方で、千人同心が引き連れてきました関係で、上野原、都留などの山梨の郡内、それから、あきる野、五日市、青梅、津久井など、織物も八王子の中で取引をされました。中心街は活況を呈して繁盛いたしました。今の八王子の中心商店街のもとでありまして、かなりのにぎわいをしたということがあらわれるわけです。
 後に、この市日に関西、特に滋賀県の商人たちが続々と八王子の市日に押しかけてまいります。滋賀県の商人は、向こうで作った夏蚊帳を来るときに持ってきて八王子で販売をし、八王子の織物を買って帰る。往復の商売をするという大変滋賀商人らしい賢い商売をしていたという記録も残っております。その中で、八王子に居ついてしまった買い付け商の方も数名ございまして、今なお続いております。その方々の祖先は滋賀人、江州商人と言われた方々でございます。
 特に、江戸時代、いわゆる徳川の時代に八王子の名を高めたのは、天保の改革による奢侈禁止令のふれ書きであります。京都西陣、上州桐生、武州八王子織を初め云々というふうに書いてございまして、これらは全国を代表する産地になったことを示されておりまして、とりわけ八王子は地味な柄物が多かったものでございますから、この禁止令に触れることが、影響が少のうございましたので、かえって利を得たということでございました。
 後の明治15年に発刊されました桐生の商況を通じた朝野新聞の記事の中に、遊女にやるなら桐生物、本妻にやるなら八王子物を買えと。桐生足利産は外見は美しけれど八王子物は徳用なり、というふうに記事で載っておりますように、八王子産は実用的であり大衆商品であったということであります。

 明治維新を境に、政府の富国勧業政策の先導的役割として生糸が取り上げられました。八王子は、繊維、とりわけ生糸産業の集散地になりました。生糸産業は当時の日本の外資獲得のための輸出の花形商品でありました。今、「新選組!」で大変話題になっております徳川末期に開港した横浜へ絹が非常に運ばれた、その街道筋の要点でございました。ことしは日米和親条約が締結をされてちょうど 150年になるわけで、記念すべき年であります。そんなことで新選組が大河ドラマに出たのかなという気もしないわけではございませんが、新選組が出ましたものですから、新選組で活躍した近藤勇、土方歳三、沖田総司等は、天然理心流を主として学んでいた剣法の門弟たちでありました。近藤勇や土方歳三、沖田総司は千人同心ではございません。農家の出身でございますけれども、天然理心の剣術を習った門弟であるということでございます。
 話がそれて申しわけありませんでした。当時、山形米沢の糸織、それから九州博多の袴地等も八王子は次々と技術導入をいたしました。品種が多くなりまして、西郷隆盛が起こした「西南の役」の明治10年に、第1回の日本政府の内国勧業博覧会が上野池之端で開催されます。このときに八王子織物は多数の出品をいたしまして大変好評を博しました。そして八王子織物はますます拡大を続けました。明治32年に、それまで任意組合であった織物組合を、農商務省という今の経済産業省の前身でありますが、これの承認のもとに正式に八王子織物同業組合が設立されました。その政府・農商務統計の全国産地順位も、西陣、桐生、福井、石川、八王子の順に挙がっております。それ以下は大きく数字的に引き離しているというのが当時の資料であります。

 明治から大正に年代が変わります。八王子は産業革命を迎えるわけであります。従来、手織工業であった八王子が、近代化を迫られて動力機械に体質を改善してまいります。しかし、周辺の農村地帯が主に生産部分でございましたが、そこへ電力がなかなか引けません。電灯は引けたんですが動力電気の敷設が不可能ということで、農村部の織物屋は続々と中心部に進出をしてまいりました。八王子の織物も、従来農村工業であったものが都市工業へと変貌し、主導権もまた周辺業者から町方業者に握られるようになっていきました。ここで農村工業の歴史は役割を務め終えたわけであります。
 一方、時の変遷は、人々の服装にも大きな変化をもたらしました。男性は着物から洋服に、女性の着物は縞柄から模様柄に変わってまいりまして、流行の変化が早まりました。八王子も製品の転換を余儀なくされます。早速、女物専業業者は、八王子織物柄の会を設立いたしました。男物の業者も洋装に注目をして、ネクタイの創作に着手をいたしました。昭和5年には、ネクタイ業者は六十余名になり、産地の有力商品に上がってくるわけであります。成長いたしました。大正10年の記録調査によると、1位が八王子、続いて、伊勢崎、西陣、米沢、秩父、以下、見附、十日町、山形、五泉、青梅と続いて、八王子は大変健闘しておりました。しかし、やがて訪れる関東大震災などの苦難を経なければなりません。そして昭和を迎えるわけであります。

 昭和の初期は、世界恐慌に始まった金融恐慌が日本を覆います。金解禁など、さまざまな経済苦境に立たされました。その中で八王子も、これを乗り越えるには、品質の改良と改善をしなければいけないということで、当時の八王子市と織物工業組合が共同で資金を拠出いたしまして、東京府立染色試験所−今の繊維産業研究所の前身でありますが、昭和2年にこの設立を実現いたしました。そして昭和4年には、伝統的な御召織物を「多摩結城」と命名して市場に送り出しました。
 このような状況の中で、日本は次第に軍事色に包まれてまいりました。ついに大東亜戦争に突入し、経済体制も自由から統制経済に移行をいたします。特筆すべきことは、昭和18年、戦力増強企業整備令という政令ができました。後に総理をした岸信介が当時商工大臣でございまして、八王子の織物工業組合に出向いて、国家のために諸君の織機を供出してくれ、機械を弾丸にかえてくれというのを熱烈にされまして、八王子の業者の3分の2が供出をされました。そして、廃業を余儀なくされた業者も多数ございます。民需産業の徹底的な整理の対象になったわけであります。
 そして昭和20年8月2日の早暁、米空軍169機の大空襲によって八王子市街地の9割が灰塵に帰するわけであります。当然のことながら八王子の織物も壊滅的な打撃を受けて、8月15日の敗戦を迎えるわけであります。

 終戦とともに、平和産業八王子織物は復興の槌を上げました。織物、綿糸、染色の関連組合は、合同で八王子復興委員会を設立いたしました。復興計画に着手をいたします。自力で再興した業者、また、政府の復興金融公庫融資によって再建をした業者を合算すると、昭和22年には往時の80%まで目覚ましい復興を遂げました。
 昭和24年、絹、人絹の統制が撤廃されて、自由競争の時代に入りました。八王子織物は、いち早く、女物の着物を市場に送り出します。第1回の織物品評会を開催し、当時「カビタン銘仙」と称する新商品を市場に送りました。大変高級感のあるおしゃれな着物ということで大好評を博し、連日出荷に追われる盛況でございました。
 また、ジャカード機も復元、導入をいたします。それから、多摩結城、モンゴリ御召、ミアサ上布、マフラー、ショール、ネクタイなど、新しい多品種の織物が生産されるようになったのであります。
 昭和29年には、朝鮮戦争終結による大きな不況が参りました。景気の著しい後退による不況の中にも屈せず、常に挑戦の気概を持ち続けて、戦後、焦土の中で建築をされた織物工業組合は、八王子市役所に次いで2番目の鉄筋建物でございまして、八王子繊維貿易館が昭和29年に落成をいたしました。
 これを契機に業界はさらに新製品を研究し、31年には全国織物競技大会で初優勝をいたしました。ネクタイの新繊維の分野に進出して、全国生産の60%を占めるようになりました。
 さらに昭和32年には、画期的着物と言われた紋ウールアンサンブルを開発して、瞬く間に全国市場を席巻いたしまして、爆発的な人気を独占いたしました。八王子織物ができた天正以来の好景気だと、連日新聞紙上をにぎわせた状況でございました。
 機械の近代化もさらに進みました。今まで40センチ幅の織機でありましたものが、ダブル幅、さらには3幅、4幅と織り幅が大変広くなった織機の導入が始まりました。結果的にはこれが生産過剰という問題になるわけでございますけれども、当時はそれだけの設備革新が体質改善の名のもとに行われたのであります。

 しかし、東京オリンピックを契機に国際化が進みました。日本もバブル景気が起こりまして高級化志向になりました。八王子の織物は大衆商品でございます。しかも先染めではございませんので、後から染めた織物。いわゆる成人式ブーム等に呼ばれるような織物のために、残念ながら下降の道をたどらざるを得なくなりました。しかし、東京、大阪、京都、名古屋の日本における4大市場では、依然として全国大会完全優勝を遂げております。
 一方、昭和49年には減少する養蚕農家を保護する事業が実施されまして、中国から安価な輸入生糸を規制する輸入生糸一元化政策でありますが、オイルショック、狂乱物価、総需要抑制策、特に日米交渉による沖縄返還で繊維が犠牲になったと言われることから、過剰織機の破砕施策が実施をされるわけであります。
 しかし、一方で、国際化がどんどん進んでまいります。この破砕事業は、八王子も当然のことながら実施をされました。戦中の昭和18年に企業整備令で破砕をされてから、2度目の織機の破砕の苦渋をここで味わうわけであります。すべて国家政策の犠牲に我々繊維業界は立たされているのが歴史的な事実であります。

 国際化時代を迎えた昭和50年代に入りますと、世界各国ともそれぞれの国の伝統文化が見直される傾向が強くなりました。時の通産省は、日本でも伝統工芸品産業の指定をするように政策の実施をいたしました。八王子も多摩織として、紬の御召織など5品目を申請、認可をされました。これらの織物は、明治13年に明治天皇が東山道、今の甲州街道を明治政府は東山−東京と山梨の街道−というふうに名を改めました。いわゆる東山道巡幸の際に八王子にお泊まりになりまして、天覧に供した品物であります。これらの織物を伝統的工芸品として認定、許可をされました。

 現在、八王子織物は、市場からの要望である八王子で洋服地という要望にこたえて、有名デザイナーやアパレルのメーカーと提携をして、伝統の技術を生かしながら努力をされておりまして大変好評のようでございます。また、マフラー、ショール、スカーフなどファッション製品の評価は極めて高く、品種も多く、特に絹製品の伝統工芸品の技術を十二分に生かした商品であります。
 着物は、生活様式の洋風化、そして服飾界の洋装化により、残念ながら着物離れと表現されるように大幅に減少してまいりました。しかし、近年、浴衣ブームに見られるように、着物に対する愛着というものが特に若い人に強いことは大変うれしいことであります。これからの着物は、いわゆるプレタ化、既製化が極めて重要な課題になっているというふうに私は考えております。
 ネクタイにおいても「マルベリーシティ」を商標登録いたしました。イギリスのマルベリー社から異義の申し立てがございましたが、品種が違うということで、3年の年月を経て審議をされて正式に認可されました。このマルベリーブランドの商標を前面に最大限に生かして、さらなる伸長を目指したいと思っております。
 八王子市は、維新後、明治13年、市町村施行令が発布をされました。明治13年の人口が9,837人と記録されておりまして、初めて名前が「八王子町」というふうになりました。大正6年には、関東で8番目の市として4万2,043人の人口を抱えて八王子市が施行されました。以来、現在、八王子は53万人の人口を抱えており、87年の年輪を重ねた大都市に様相が変わりました。伝統と、そして近代が巧みに織りなされた活性化した元気あるファッションシティを築き上げるべく、官民一体となって努力しております。八王子の織物業界も、伝統ある地場産業として、コンピューターを導入した生産システムの近代化を図り、多品種にわたったファッション性豊かな生活文化産業の産地として、首都東京八王子を目指して努力してまいりたいと思っているところでございます。
 声が大変濁っておりましてお聞き苦しい点が多々あったかと思いますけれども、お許しをいただきまして、きょうのお話を終えたいと思います。大変ご協力ありがとうございました。(拍手)

司会: どうもありがとうございました。では、ただいまより15分間の休憩にいたします。


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