司会者: それでは、続きまして、岡学園、長野ファッションカレッジ校長で、岡正子デザインオフィス代表の岡正子先生よりご講演をいただきます。 ご講演に先立ちまして、先生のプロフィールをご紹介申し上げます。 岡先生は、昭和54年に杉野ドレスメーカー女学院デザイナー科を卒業され、昭和57年にはヘレン・ヒンギス・キャリアスクール・コーディネーター科、及びディスプレー科をご卒業になられました。そして、平成5年には、環境とファッションの共生をテーマとした、ファッションショーを長野市の清掃工場におきまして開催をしております。清掃工場でファッションショーを開催したのは、我国では初めてと聞いております。平成9年には、岡学園、長野ファッションカレッジ校長に就任されております。そして、平成12年には、デザイナーとして、オリジナルブランド、「OKA MASAKO」をスタートいたしました。それから、今年の5月には、シルク開発のネットワークの会として、NPOのシルクの会を設立し、理事長として活躍をされているところでございます。この間、全日本ファッション大賞、オンワードファッション大賞、ユニフォームデザイン大賞など、数々の賞を受賞されております。本日は、絹文化とファッションと題しまして、先生の、絹への熱い思いを語っていただきたいと思います。それではお願いいたします。


絹文化とファッション

岡正子デザイン・オフィス 岡 正子

 ただ今、ご紹介にあずかりました、長野ファッションカレッジの校長であり、私自身デザイナーで、岡正子デザイン事務所、それから、ブランド名は「OKA MASAKO」というブランドをやっております。改めまして、岡と申します。約3時くらいまででしょうか、お時間を頂戴しまして、皆様と一緒に、絹のことをお話していきたいと思いますが、今日もこちらに来るときに、電車の中でいつものように、ふと考えながら見てしまいました。実際、目の前に座ってらっしゃる電車の中での話ですが、方々の中で、今どのくらい、絹を着てらっしゃるのだろうって……。今日、皆様はいかがでしょうか。シルクに関わってこられた方々です。私も、たった3年前です。本当に、自分がこのシルクを徹してやっていこうということで、少しずつ関わりはじめたのは、本当に3年前ですから、皆様の本当に足元にも及ばないほどの知識であり、技術であるとは思います。ただ、先ほど高林様からご紹介を受けましたときに、熱い思いを語ってくださいと言われましたので、たった3年ではありますが、その間私なりに感じてきたこと、それからかなりいろんな産地を歩きまして、私なりに最終的に作りあげてきたブランドのこと、先ほどのNPOという形をとりまして、「THINK SILKの会」というものを発足、始めたこと、そんなことを短い時間の中ですが、お話させていただきたいと思っています。

 ちょっとお聞きしたいのですが、皆様、今日はシルクをどこでもいいのですが、下着でも、着てらっしゃるという方、手をあげて教えていただけますでしょうか。やはり、さすが多いですよね。シルク仲間という感じがして嬉しく思います。例えば、うちの学生たち、ちょうど、18歳、19歳、20歳ぐらいの子たちなのですが、シルクのことをいいますと、えっという感じで、知らない子が本当に多くなりました。実はこんなふうにしゃべる私も、プロフィールを少しだけ付け足して、お話させていただきますと、生まれたときから、母がドレメ系の洋裁学校をやっておりましたので、多分、他の方々よりは、布に触れてきた環境だったと思います。小さいときから、着ていたのは、綿であり、ウールであり、天然繊維が多かったかなという記憶はありますが、途中でアクリルや、ポリエステルや、ナイロンやそういったものに、どんどん、切り替わっていきまして、私がシルクというのを意識したのは、恐らく、ドレメの卒業のときの最終的な提出物のフォーマルでした。ドレスをつくるというものと、あと、着物でした。二十歳の成人式のときの着物。それから、小さいころに見せてもらいました、母が若かりし頃に作った部分縫いという、やはり、フォーマル系の部分縫いだったのですが、その地がシルクでした。それで、あとは、スカーフとか、そういった感じで触れていったのですが、実際には、先ほどのうちの学生たちも、シルクといったときに、(先ほど、何回も出てきました)「え、蚕。」と言って、「もしかして、虫が吐くわけ?」という、そういう感覚に、徐々に、徐々になってきてしまったのではないかという歴史は感じます。

 そのような中で、実際、私がなぜシルクをやるようになったのかということを、先ほどのプロフィールに付け足してお話させていただきますと、そういう家に育ちましたから、結構おしゃれ好きといいますか、小さいときから毎日毎日、違うものを着ていまして、それが自分の楽しみでもありました。ですから、大きくなって、すごく、よく使っていたという感じですが、年間600万円くらいは洋服を買っていたのではないかという、そういう生活です。600万円は、これはすごい数字だと思います。結婚しておりませんし、とにかく自分自身の仕事を作りあげようと思って、仕事、仕事という生活でしたし、それから、洋服が小さいときから好きだった。そうすると、片っ端からブランドは着たという状態でした。ところが、30代に入った頃から、何をやっているのだろうと、どこかでむなしいというか、せつないというか、そんなにお金かけて、とっかえひっかえという感じですが、人様から、こういう仕事をしていると、聞かれるのは、今年の流行は何?という言葉でした。それで、次は?次は?次は?と。それで、コレクションは?と。そのような中で、なんで、こんなに物を替えていかなければならないのだろう。次はポリエステルのこのようなやつ、次はアクリルのこのようなやつ、次は綿で……。

 実際に、そのような中で、清掃工場という言葉が出てきましたが、何をやったかというと、たまたま、その環境のことに関心があり、焼却場へ行ったのです。自分たちが出しているごみの山を、やはり見るべきではないかと……。ビニール袋に、こう入れて、家の目の前に出します。それを回収車が来て、全部持っていくのですが、後は知らん顔という生活が当たり前でした。それで、そのごみが一体どのようになっているのかということを、見なければまずいということで、94年のことです。学生たちを、後々連れていく形になりますが、まず、自分が見なければということで、見に行きました。すごいごみの山でした。その中で見たのは、実際にたくさん捨てられている洋服の山でした。新品も山ほどありました。それを見た瞬間に、何をやってきたのだろうと……。小さいときから、やはり、そういう家に育ったと言いましたが、自分も関わろうと、デザイナーを目指そうと思ってきたこの世界が、実際にごみの山の中にたくさん捨てられている状況というのは、どういう状況なのだろうと……。初めて、その清掃工場でやっていくわけです。私たちは、洋服というものをこれだけ作って、これだけ捨てて、毎回毎回替えて、一体何をやろうとしているのだろうということを、そのまま素直に表現しようということで、学生たちとファッションショーをやりました。

 そのことが、きっかけに、後々なっていくのですが、98年の長野冬季オリンピックのときに、「Fasion For the Earth」という、地球のためのファッションというのをやる形になりました。それで、そのときに初めて、私は、桐生にもお邪魔しました。今日は、ちょっと緊張しているのは、そのときにお世話になった方々が、実際この辺にかたまって座ってらっしゃるのです。当然、初めて機屋さんという……。恥ずかしい話ですよ。ファッションに関わって来ながら、布というのは布屋さんで買っていたわけです。ですから、機屋さんの存在や、染め屋さんの存在や、撚糸屋さんの存在や、そのような物づくりの根底にある方々の存在というのを、私は訪れたことがありませんでした。
 そのような意味では、長野冬季オリンピックのファッションショーをやるにあたって、できるだけ化学繊維ではなく、天然繊維を、どこまで、顔、形を変えてやれるか。それから、最終的には土に戻すのだという考え方から、シルクもウールも綿も、それから今、ここの部分的に着ているのですが、最終的にラクトロンという、とうもろこしから取っていく、一応、カネボウさんが開発していた形になりましたが、あの当時まだ、繊維とすれば出さないという状況でしたが、先ほど、清掃工場とかの関わりがあったものですから、たまたま、繊維として出していただきまして、じゃあということで、絹とラクトロン、その繊維を組ませたり、綿とそれを組ませたり、それからリサイクル・ウールを扱わせていただいたりと、そのような形で、その時に、いろいろな産地を歩いたということが、今思えば私の原点になったような気がします。

 それで、桐生の方々と先ほど申し上げましたが、その中心になってくださったのが、長野と桐生でした。そのような点では、ある部分そこで育てていただいたという気持ちがあるものですから、緊張はいたします。ですから、それから何年か経つわけですが、その時に、長野冬季オリンピックをやり終えて、さて目の前に溜まったのは、約170セットくらい作った、いろいろな洋服の山でした。それは売らなければということで、一部売っていく形になったのです。私自身も、自分が全部着ました。そのような中で、私はこれから何を作っていこうとするのだろうと非常に迷いました。実際に、ウールも着てきた。綿も着てきた。ポリエステルも着てきた。ありとあらゆる繊維を、洋服好きの一消費者として着てきたということです。

 それから、98年に、その時初めて機屋さんたちと知り合い、もっと深く付き合う中で、さて、本当に私は何を目指そうとしているのかということを、生まれて初めて真剣に考えたのが、遅咲きながら39歳くらいの時です。そういう風になってきますと、自分でとにかく着ることだ。それから、まず、売ってみることだ。

 それで、約1年間くらい、本当に何をやっていくのかということを考えたのが、オリンピックの後でした。その時に、答えが出ていたのです。それが、シルクとの関わりです。私はシルクをやると……。結果、そう思ったのです。それは、なぜかと聞かれれば、一言で、このような表現の仕方しかないです。飽きなかったから。飽きなかったからという言葉になるのです。この飽きなかったからという言葉は、ちょっと、いい加減な理由のように聞こえるかもしれませんが、そうではないのです。今後、自分の一生をかけても、この糸と付き合っていけるだけの気持ちが生まれたということなのです。どうしてかというと、結果、私は洋服作りの家に生まれましたから、着るということを意識してきた方だと思います。

 この後お話させていただく、着るという言葉なのですが、着るということを考えたときに、どういうものを、実際、私は、小さいときから作りたかったのか……。途中デザイナーになることを完全にやめようと思った時期が、10年間ありました。しかし、それでもやろうと思った理由というのは、今だったら自分が作りたい物がはっきり見えてきたと思ったことです。それは何?と、これも一言で聞かれたら、快適という言葉でした。人間にとって、快適というものを、もう一回作り直したいということでした。快適と言ったときに、分解してみると、身体にとって快適であるという方が、まず、機能という意味で、わかりやすいと思います。それは皮膚のようなものを作りたいと思ったことです。いかに着てないという感覚の物か、そのときに、絹といえば、軽いとか、通気性が良いとか、本当に肌にフィットする触感というのは、やはり、絹ならではのものとか……そういうことは、極々自然に感じた部分です。でも私が付け加えたかったのは、人間は動く、皮膚は動くということでした。
 それで、ポリウレタンの存在が、そこに必要になったわけです。私が、今作っている、約2年がかりで作った、その基本を作るために、やはり時間がかかりましたが、それから、まだまだ未完成ではありますが、実際にちょっとだけ、モデルを兼ねてといいますか、着ているものをご紹介したいと思います。特に、下半身の方のスカートです。約3倍、延び縮みします。女性だと良くわかると思うのですが、一番細いのがタイトスカートというものです。でも、歩きづらいので、スリットを入れていきます。もうちょっと、広めていくと、こういうふうな形で、広まっていくと、フレアースカートという形になります。男性の方々は、おわかりになられますでしょうか?
 フレアースカートになっていくと、実際、足の動きは当然、楽になりますが、今度は邪魔になります。たとえば、自転車をこぐときだってあるでしょうし、トイレに入るときだって、階段上るときだって、今度は邪魔になります。そのようなことを考えていくと、必要なときに伸びてくれて、必要なときには分量が邪魔にならない、そのような物があったっていいじゃないと……これは、着てからの立場の考え方でした。

  それに付随してくるものが、徐々に、徐々にできてくるのですが、回しますので、その触感とか、軽さとか、こういう伸び縮みの感じとか、そのようなものを見てみてください。
 私は、ずっと仕事をしてきているので、非常におてんばです。今日もエレガントな格好をしているように、一応見えても、相当走り回りますね。でも意外とこれが、今後の女性像ではないかというようにも思ってきました。ですから、話を戻しますが、先ほどの快適という言葉、着てから考えた時には、先ほどの機能という言葉になると申し上げましたが、プラスしたかったのは、ストレッチということでした。あくまで伸びて、人間の行動についてきてくれる。これがなかった洋服というのは、西洋の洋服ですが、9号、11号、13号、15号。どのサイズにあなたの身体をあわせるのかという発想だったと思います。でも、私たちはフリーサイズ、(これは、三宅一生さんとか、私はやはり、非常にすぐれたデザイナーさんだと、尊敬していますが)フリーサイズというものが生まれてくるわけです。その身体の動きに沿って、形が決められているのではない。行動によって形がまたできあがってもいくのだと、そのような部分です。
 私は、あくまで快適の追及の中に触感ということを非常に重要視したかった。それは、デザイナーの方々、私ももちろん含めてですが、外に向けてどうだ、今回は見たことないデザインだろうと、外に向けてのアピール度が非常に高かった時代にくらべて、もうそうではないような気がします。プラス、中に対して、着ている自分に対して、いかにリラックス感を持てるか、不快感がないか、自分というものを中心に置くということが、とても重要なことのように思えたからです。 ですから、下着というところにシルクが使われていったり、それがそのままアウターになっていったり、そこの境目がなくなっていったり、非常に今後おもしろい展開のひとつだと思っています。その時に、先ほどの、人間は動くのだと、静止しているものではないと、どこまでやれるかということでした。でも、いろいろな難点があって、今度は、結局は皮膚と同じで、歳をとったら、伸びたまま、だらっと戻ってこないということが布にもあるのです。ですから、これをいかに維持できるか、着ているうちに着崩れないか、それから、変形してしまわないかが、今の私にとっては、機屋さんや、もちろん職人さんたちと組んで研究している、ひとつの山場に、今現在なっています。 実際に、あさっても、ミーティングをするのですが、そういう人たちの、それぞれのポジションの力、知識、それから思いがなければ、ひとつのたたき台をつくってくることは、私にはできなかったと思っています。

 それで、これもまた、話を戻させていただきますが、もう1つ、快適性についての大事な部分です。心という部分です。着ていて気持ちがいいということだけではなくて、気持ちの上で気持ちがいい。これの部分というのは、たとえば、どんなところにあらわれたのかというと、シャネルを買いたいとか、グッチを買いたいという、ブランド嗜好の一部にあらわれていると思います。優越感とか……。それから、想いとか……。
 私はシルクというものを、最初イメージしたときに、非常に美しいものだと思いました。自分のフォーマルをつくろうと思ったとき、それから、二十歳のときの思い、それから、母がこれは若いときに作ったのだと言って、本当に後生大事に、ずっとしまってある、その布のたたき台、土台になっていた布を見たとき、それから、シルクのスカーフを見たとき、やはり、美しいというイメージがありました。この後、高いということもついてまわったりするわけですが……。
 シルクというのは、そこまで良いイメージを持っていると同時に、先ほど田島先生が、ご自身の人生経験であり、もう本当にそのものだったという、研究のお話をしてくださいましたが、例えば、違う繊維がずっと、この感じで、人生語れるだろうかというと、少ない糸だと思います。それは前回桐生の方々とお話したときも、感じたことです。浪花節みたいですね。あのときはこうだったという、生活であり、人生とかぶさってくるくらいの、気持ちというのが、シルクにはあるわけです。
 それで、私たちは、まず、消費者という単位に戻ったときに、消費者は今、どういうものを求めているだろうかというと、ただの物ではなくなってきた。ただ、物を欲しいというだけではなくて、現実に私は販売にも立ちますが、ストレスで商品を買われる方々も、少なくはありません。どうして?洋服が好きで買われるのではなくて、とにかく、何か買わなければならないという、ストレスで買う、物を買う。だけど、愛着があるわけではない。そのまま、1ヶ月も2ヶ月もただ置いておくという、こういう人は少なくないわけです。そうすると、大量生産で、大量消費で、とにかく物があって、ただ経済的に数字が出てきてと、そういうものでもなく、もっと人間的想いとか、どう、これが作りあげられてきたのかとか、その深さのようなものを同時に語れるという部分が、この気持ちという快適さにつながるのではないのかなと、これも同時に考えたことです。そのことが、先ほど言った言葉に、私、尽きるのです。なぜ自分は飽きなかったのか。色々な洋服を着て、後半の自分の人生をシルクにかけてみようと思えたかというのは、考えて、考えて、シルクでやろうという言葉は、飽きなかったという言葉だったという、その言葉に、行き着くわけです。

 実際に、その後、2000年ですか。(後で、簡単に、私のフィルムを見ていただきたいのですが、)じゃあ、私はシルクでやっていこうということを、実践女子の先生でらっしゃる小川先生という方と一緒に話をしていきまして、私はとにかく、シルクでやるのだ。ブランドを立ち上げるのだ。2000年のちょうど春でした。代官山の方で、「こころのころも」というタイトルで、自分のシルクだけにしぼった、これが本当の意味でのスタートという個展を開きました。それから、2001年の、もう冬ですから、2年足らずですか、約1年半経ちました。その間、いろいろな活動をしてまいりましたが、あわせての約3年間、機屋さんをまわって、布づくりをはじめて、これでもしかしたら、顔ができたと思う布地をつくりあげて、2000年の発表をさせて、売りに入るという状況にもっていくまでのこの3年間、機屋さんたちと、いろいろお話をする中で、私なりに感じたことが、何点かありました。それが、後々、「THINK SILKの会」というものにつながっていくのですが……。
 1つは、びっくりしたことでした。機屋さんとお話をしていたときに、自分たちが作った布が何になっているのか知らないという言葉。それから、いくらで売られていて、どんな人が着ていて、デザイナーさんたちが、どうしたのか。それから、結構、つまみ食い的に持っていったりとかしてとおっしゃった方々も、中にはいらっしゃいましたが、何より驚いたのは、着てからの情報というのがあまりないということでした。私自身は、(先ほども、ちょっと、申し上げた、)明後日、その会議を開くのですがと申し上げましたが、そこには、機屋さんも、染屋さんも、撚糸屋さんも、皆集まります。全部、顔を合わせてもらっています。そうでなかったら、1つのものを作れない。その間に、まして、問屋さんが入られたりとか、違う方が通訳してとか、リスクの回避とか、そんなことやってたら、1つのもの作れないと思いました。
 ですから、こういうもの作っていきたいのだ。それは、着ての段階から考えれば、立場から考えれば、いかに、快適と思える洋服を、先ほどのように、人間が動く、行動する、それから、気持ち的にはこういう時代だということを説明しながら、一緒に作りあげて下さいということで、全部顔あわせをしてもらったことです。それで、それぞれの立場の、やはり、研究してこられたこと、それから、「だったら、こうできるのではないか」というアドバイス。そういったことがなくして、合わせないように私が全部して、全部私が通訳するとしたら、とても私にはその力はありません。私が知らないことがたくさんありすぎます。
 ですから、逆に私も勉強する意味で、全員の方に集まってもらって、この布は、課題として最終的に残った、皮膚はたるんでもらっては困るんだよという部分です。これが、どこまで、何年、維持できるのかということを考えれば、あと、どこを治していけば。設計なのか、撚糸の数なのか、ポリウレタンのデニール数なのか、そのようなことが、どこにひっかかってくるのかということを、今本当にやっている最中と言っていいと思います。それで、その小さな単位というのが、その考え方というのが、後々、「THINK SILK」というのを5月にたちあげていく結果になっていったかなという風に思います。このことで、私にいろいろ、アドバイスをしてくださった、後で、小川さんをご紹介したいと、私は申し上げましたが、小川さんという方も、ずっと、着るという立場から考えて、マーケティングをやってこられた方です。私が、大変個人的なことではありますが、小川さんと最初、お会いしたときに、忘れもしない言葉でした。私たちが知ってきた技術や知識や、そういったものを、大体20歳くらい違ったと思うのです、歳的には……。そのことを次の世代に、伝えたいと……。受け継いでもらって、一緒にやりながら、やはり、一緒にやっていかなければ、その、中国がどうだとか、ヨーロッパがどうだとか、そんなこと言っていることではもうないのだ。それよりも、日本が相当な金額をかけてここまで作りあげた研究。そういったものを、研究で終わらせる状態ではなくて、着るというところまで、やはり、持っていくためには、着るということがわかる、(今日は、女性もたくさん、いらっしゃいますが)、着るということが、どういう感覚なのかということをわかるという、そこの組み合わせ。チーム作りです。それをやらない限り、先ほどの、蚕という単位と、生糸という単位と、今度、布という単位と、それから、私たちのような形にするという単位と、これが、ばらばらしていては、実際には消費者に届けられるものでは、やはりないと思ったことです。
 ですから、「THINK SILK」の時というのは、募集をかけたときというのは、現実に、まずは、私の布づくりの関係者の方々でしたし、それから、消費者の方にも入っていただきたいということでしたし、それから、今、あちらに座ってらっしゃる勝野先生にも、この前お越しいただきまして、いろいろとシルクの歴史をとてもわかりやすくお話していただきました。まずは、勉強会だということがスタートです。
 それから、前回、数日前ですが、お越しいただいた先生は、銀座松屋の東京生活研究所で、長くディレクターをやってこられた山田節子さんという方です。その方に、シルクに対する思いや、今現状のマーケティングや、商品というのはどういう方向に動いているかとか、そういったことをお話いただきました。そのような中で、山田さんの言葉の中で、非常に興味深かった言葉が、「私はファッションとの戦いをやっているのだ」という言葉でした。
 これは、いろいろな意味の取り方があると思いますが、実際に日本というものが持っている歴史や、文化や、それから、知恵や、知識や、そういったものが、どうも、この大量消費や大量生産の時代というのは、ただ、物というところに、流れたということは否定できないと思います。それで、もう一回その経験を生かすのだとしたら、もっと知的な、もっと知恵を生かした、そのような商品づくりが、日本だからこそできてきたということが、あって然りじゃないか……。
 ところが、未だにやはり、ファッションという世界は、変えて、変えて、変えて、変えてです。私自身は、ポリエステルに移る気はありませんし、実際に次はアクリル、次は綿と、やる気持ちはありません。逆にいえば、シルクがここまでできたのかということを、いろいろな角度から、今現在生まれてきている糸と一緒に組ませたり、技術と組ませたり、化学と組ませたり、そういう中で顔の表情を変えていけたら、おもしろいという風に思っています。通常着る洋服にしたいのです。
 先ほど、21世紀というお話が、田島先生の言葉の中にも出てきましたが、時々小川さんと話します。21世紀は、シルクを当たり前に着ている時代にしたいということ。それがなぜならなかったのかという価格の問題や、それから、デザインの問題や、もろもろあると思います。だけど、それは改善できると思いますし、その改善という言葉はどこから生まれてくるかと言ったら、私は先ほどのチーム作り、それこそ、桐生なのか、長野なのか、という問題でもなく、シルクが好きだからこそ、これあたり前に、この21世紀は、多くの人たちが着てもらいたいという思いがあれば、どこだからということではなくて、思いが共通してさえいれば、一緒にやれると思います。時間の関係がやはりあるものですから、参考までにということで、ここ何ヶ月間かで行動した、私のシルクの発表というか、エキシビション的なものを、見ていただけたらと思います。

 まず、これが、先ほど申し上げました、2000年代官山でやりました、私のシルクのスタートです。「こころのころも」というものの展示会でした。ここでは、入り口に、洋服ではなくて、この洋服はこのテキスタイルから作られているということで、これは長野の機屋さんに織っていただいているものですが、経糸、全部で9000本くらいかけ、その糸の状態で緯糸が打たれまして、120cm幅くらいの生地です。そこに、ポリウレタンを一部入れていきまして、約1/3に縮めていくというものです。その結果、できあがってきているのが、あそこにならんでいる、マネキンが着ている洋服です。
 これが先ほどの糸の状態で、加工し、縮めた状態、これがここにつながりますが、私の布づくりは、全部自然の名前がついていまして、この布は「木肌」という名前の布です。どうしてかというと、ここに流木が置いてありますが、この木肌を見ていて、なんて、美しいのだろう。これは、長野育ちでよかったなという部分なのですが、ほとんど自然からもらっているデザインソースです。色使いも……。それから、風景から取るテキスタイルのデザインも……。それで、こういった形を皆、作っていったわけですが、(はい、次お願いします。)同じような写真ですが、もうちょっと拡大したものです。ここに、「動」という言葉がありますが、あと、「可」というのがありますが、人間の一生を「生」・「動」・「変」・「可」という1文字にたとえて洋服を作りました。この「動」という言葉で表現したのは、もちろん、人間は動くのだ、活動するのだということです。だからこそ、私はこういうストレッチということにこだわったのだという部分です。「可」というのは、可能性という言葉に関係してくるのです。

 私どもが作っている洋服というのは、こうも着られる、こうも着られる、こうも着られる、こうも着られるというふうに、1つの洋服で4つくらい着るやり方があるのです。一粒で4度くらいおいしいというやつですが、そういうふうにしていくと、自分自身のコーディネート方法で、ジャケットはジャケットしか着られないのではなくて、こうも着られる、こうも着られるということで、楽しんでいただく、イコール、ご自身の考え方がコーディネート法にいくらでも出せますよという考え方ですといって、並べたのがこれです。

 これは、パリのプランタンで、ファッションショー参加ということで、やったときの写真なのですが、フランスにこの商品を持っていったときに、向こうのバイヤーの方々に、言われたことというのが、「シルクでこういうものが作れていくのか?」と……。「日本ではこういうものを作っているのか?」。しかも、カジュアルだと、私は言ったのです。フォーマルではなく、カジュアルに持っていきたいのだという言葉を言いまして、それで、このファッションショーに参加していったということです。
 それで、同じように、ユニセックス的に、もちろん、メンズだって、着られますよという感じで出したものですが、同じような感じです。全部シルクで作っているものなのですが、(すみません。次いってもらっていいですか)これ、同じ、パリのスクリーブホテルというところで、21世紀のユートピア、未来展というのが行われまして、21世紀は建築物、それから、人の生き方、そういったものがどうなるかということを表す展示会だったのです。エキシビションでした。
 これ、ちょっと、バックにある写真がわかりづらいのですが、建築家の方々が表現した世界の街です。こんなふうになっているだろうという……。ほとんど宇宙船みたいな写真でしたが……。その前に、うちの洋服が立つわけですが、実際にちょっと、見えづらいのですが、このような洋服作りの中から出てくる、結構な残布を溶かし、フィルム状態、シルクをフィルムにし、この洋服は作ってあります。この中の部分ですが……。そのフィルムとニットを一緒に合わせていったみたいな……。ちょっと、わかりづらいと思うのですが……。それで、シルクというのは、別に溶かして違うものにもできるのだよというようなことを表現した作品がこれでした。

 それから、今こちらに写っているのが、お回ししている緑の洋服とほぼ同じものです。縦、横、3倍、3倍で、約9倍ストレッチするということで、リラクゼーションというタイトルでやったものです。それから、染めの方も、ラベンダーとバラということで、香りもつけ、染色方法というのも、ケミカルではなく、全部そういった花で染めさせていただいたのが、こういうものです。いくらでも伸びますよというような洋服の形です。こちらの方は、シルクと銅を組ませて作ったものです。できるだけ細かく織っていただき、染めた染料が、日本茶とマグネタイトというものです。タイトルが身体をガードするということで、電磁波からカットして自分の身を守る。そのように、人間の身体を自分が守っていく道具として、衣服を着るという時代も考えられるというような意味で出したものがこれです。

 あくまで、私たちは、21世紀はシルクを着ているだろう、ということを想定して、ポイントだけなので、わかりづらいのですが、こういう展示をさせていただきました。
 ですから、シルク100でやりたいというふうに、限っているわけではなく、他のものと組ませたらどうなるだろうかということと、同時に、シルク100だったら、どのようにできるかとか、そのように、布作りばかり、日々やっていることというのが……。
 これは、同じパリのカサボというサロンでやりました、エキシビションの一部の作品ですが、これはシルクの不織布です。これが、確か、20グラムぐらいだったと思います。一着分で……。これをいかに、20回、30回洗濯しても大丈夫という状況にできるかということで、今、加工をいろいろ施してやってみています。本当に軽くて、このような不織布でつくってみたというものです。それから、これは、ラクトロンとシルクを、一緒に交織してつくったものです。そうすると、実はラクトロンというのは、非常に染色度が悪いのです。ですから、染まらないのです。ところが、シルクは染まるので、同じように、表と裏、染色が違って見えてきたりとか、表のシルクがきれいな色に染まって、こっちがほとんど染まらないという、リバーシブルにしたりしているのですが、あともう1つ、ラクトロンの変な癖をうまく使って、このような、全部しわをつくっているというのが、この布です。これは、それと似たようなものを、ばあっと、やはり展示したということで、非常にシルクは科学的分野でもあるのだということを、なんとか見せていきたいということにした、エキシビションの一部です。

 あとは、できるだけ文化活動もしたいということで、これがカンヌ映画祭に出展したときのものです。カンヌ映画祭の中で、ヨーロッパの方々、映画関係者の方々に見ていただいたのが、こういうものです。日本のほとんど、絣ですが、絣でやったもの、先染めでやったもの、ムクでやったもの、というようなものを、テキスタイルに表せて、見せていったという感じです。これは、単純な文化活動的なものなのですが……。

 これは、先日、韓国の釜山というところで行われた、アジア国際映画祭というものです。アジアの映画が一期にあつまるという、フランスの方がカンヌならば、こちらのアジアの方は、ここの釜山に一期に集まるというところだったのですが、カン・シォンさんという女優さんが、お洋服を着てくださいまして、シルクをアピールしてくださったというものです。
 感想からすると、いろいろな活動の中で、私がこの1年間くらい、海外の活動を少しばかりながら、やらせていただいて、一番おもしろいと思ったのは、韓国でした。アジアというエリアでした。これは、時々、技術が移行してしまったりとか、取った取られたという話になってしまったりとか、技術の移行というのは、生産がみんな向こうに移ってしまうということを気にしたりとかいうのがあるわけですが、私自身は、今全部、日本の機屋さんと組んでいます。ただし、もっと広い単位で考えられないかと思ったのが、今回の釜山でした。もっと、アジアとして……。もっと、アジアの人間とし、一緒に協力し合えないかと思ったことは確かにありました。それで、それを、ヨーロッパに持っていきたいと……。

 糸作りはもしかしたら、アジア、他の国のほうが、おもしろく、それから、コストの部分も的確にできる部分があるかもしれません。ですが、最後、日本に持ってきて、先ほどの、布につくりあげる、製品につくりあげるという部分で、私は、ある部分、協力しあってもいいのではないかと思い始めたのが、今回の釜山で韓国の方々と一緒に活動したときのことでした。それは、もう少し、先の話になるかもしれません。
 ですが、先ほどの最後の「THINK SILK」というものの単位の話に戻しますが、規模は、先ほどのことに戻るわけです。私が1つのものを作りあげたいと思ったときに、全部目隠しをしていったら、果たして、私が作りあげたいと思った布は作れただろうかという部分に立ち戻ると、明らかに、そうではないと思います。自分の気持ちを素直に話していく中で、チームをきちんと、作りあげるべきだと思ったこと……。それが、「THINK SILK」という規模を、今度少しだけですが、拡大したこと。そこには、消費者の人も入ってきますと申し上げましたが、もしかしたら、デザイナーも入ってくるかもしれないし、先ほどの、山田さんのようなマーケティングのディレクターの方も入ってくるかもしれないし、今現実には、染屋さんや、撚糸屋さんや、本当に蚕の研究をなさっている方とか、そういった方々が入って下さっています。それが広まったときに、もっといろいろな勉強ができ、いろいろな商品開発ができるのではないかと思っています。
 それが、もう少し拡大したときは、何がなんでも、とにかく、日本だというのではなくて、同じアジアというもので、考えられないかということは、後々出てくることではないかとも思っています。先ほど申し上げた、シルクが21世紀本当に人というものを考えたときに、快適の追求をしていきたいと思えば、それは、どこの地域か、それから、どんな立場かが重要ではなくて、想いに向かって一緒にやれるかということが、結果、重要なことのような、私は気がしています。
 そういう点では、今度、私たちが作ったものを、お客様に売るというようになったときに、最初から私たちは卸というやり方をしませんでした。大変ですが、直接お客様にするというのをスタートにしています。先日も、お直しとかが、たくさん来まして、(裾上げとか、)うちのスタッフに言ったのです。一瞬、雑用のように見えるかもしれないと……。直して、また、送り返してという、細々した作業は……。だけど、今までの流通と、これからの手堅く、きちんと伝えていこうと思うお客様の流通を考えれば、直接お客様にお直しをした商品を自分たちのところから、ありがとうござましたという一言をつけて送れるという、それは、逆に言えば、ありがたい時代なのだと思ってやろうと話をしました。それで、つながることだと思っています。

 何回も申し上げますが、私自身、消費者として、本当にいろいろやり、買ってきた人間が、なぜ飽きなかったのかという、自分自身を信じた部分です。だから、これは、皆様に強要することでも、何でもないというふうに思っていますが、私はずっとやりつづけるというように決めていますし、やり続けます。結果、それが、日本というところからアジアを代表して出していければ……。
 改めて、この年齢になって、感じたことは、人ありきということを感じたことでした。人ありきで、人にお届けするのだから、人を想像しないという物作りというのは、したくないという……そこです。実際に、何を作るにしても、人をイメージできない物作りは、私はしたくないというように思ったことです。あくまで、未熟ですから、まだまだ、何年かかって、自分なりに少しでも納得できるものが作れるかはわかりません。わからないだけに、先ほどの「THINK SILK」という会を作り、勉強させていただき、今日この後もいろいろな方々とお話をさせていただく中で、あくまで、教えていただきたいという思いでいます。ですが、一点だけ、通したいのは、立場ではなくて、向かっていく目的だというところで、何らかのチームなり、人間づきあいができたら、必ず、やって後悔のない、しかも、先ほどの、21世紀はシルクというものが当たり前に着られる時代になっていていいのではないかという、そういう時代にもっていけるのではないかと思っています。

というわけで、3時ちょっと、まわってしまいました。一旦、私の話、ここで、閉じさせていただきたいと思いますが、また後で、ディスカッションの方でお話させていただきたいと思います。ありがとうございました。


桐生サミットのページに戻る   トップのページに戻る