司会者:それでは、記念講演に移らせていただきます。はじめに、群馬県立日本絹の里館長 田島弥太郎先生にご講演をいただきます。ご講演に先立ちまして、先生のプロフィールをご紹介申し上げます。
 田島先生は群馬県佐波郡境町のご出身でございまして、昭和13年に九州帝国大学農学部農学科をご卒業になられました。その後、農林省蚕糸試験場熊本試場、大日本蚕糸会蚕糸科学研究所を経られ、昭和31年には、国立遺伝研究所の形質遺伝研究部長に就任されました。昭和50年から58年までは、国立遺伝研究所の所長を務められております。その後、平成6年まで、財団法人大日本蚕糸会蚕品種研究所所長を歴任され、平成10年に群馬県立日本絹の里館長に就任され、現在にいたっております。先生は家蚕遺伝学、特に放射線遺伝学をご専門とされ、昭和20年には、九州帝国大学より、農学博士の学位を授与され、平成13年には横浜市立大学より、名誉博士号の学位を授与されておられます。また、この間、日本蚕糸学会賞、日本農学賞、日本学士院賞、勲二等瑞宝章、ルイパッスル賞等、数々の賞を受けられておられます。本日は先生が研究を通じ、蚕とともに生きてこられた経験の中から、蚕糸業を、そして、蚕糸の文化を語っていただきたいと思います。「蚕と共に生きて」では、お願い致します。


蚕と共に生きて

田島弥太郎(群馬県立日本絹の里館長)

1.蚕の村
 私は大正2年、本県境町島村の種屋の倅として生まれました。今年の9月で88才になりました。物心ついて以来約80年、蚕と共に暮らして来ましたので、私の人生経験そのものが蚕糸業の歴史の一面を語るかと思い、本日の話題とさせて頂きました。
 子供の頃の記憶を少し申し上げて見ますと、私の生まれた島村は全村桑畑ばかりで、その中に幾つかの部落があり、その一部落が新地といって、戸数約50戸、その中に種屋が13戸ありました。当時の種屋は未だ分場制はとっておらず、種繭は全部自家飼育しておりましたので、当然雇用労力が頼りでした。
 私の家でも桑園管理に男が5人程、蚕の方に男女合わせて12〜3人の雇い人がおり、その人たちは全部泊まり込みでしたから、蚕時は大変でした。そんな家が10数軒あったのですから、夜作業が終わると、戸外では、青春のエネルギーの発散を求める男女の嬌声がうるさくてたまりませんでした。
 糸繭を作っている農家では繭が出来ると、それを荷車につんで、本庄の繭市に運んで販売しておりました。言うまでもなく、養蚕農家にとっては繭代は一家の生活を支える重要な収入源でしたから、繭市での売り上げ額の多少は一家の何よりの関心事でした。
 繭の値段は当然生糸相場に左右されます。生糸相場は年により変動が激しいので、色々悲喜劇がありました。私の中学生の頃、世界恐慌があって、繭値が馬鹿安になったことがありました。大正14年には1貫目10円もした繭値が、昭和2年には4円になり、昭和5年には2円以下に下がってしまったのです。この時、ある農家では、腹だち紛れに繭を持ち帰り、車ごと川の中に投げ込んでしまったという笑えない話が有ったことをいまだに覚えております。
 
2.突然変異の研究
 私は種屋の長男でしたので、父は私を種屋の後継者にすべく、東京高等蚕糸学校に入学させました。私自身も何の抵抗もなく父の考えに従いました。私が西が原の二年生になった時、木暮槙太という先生が蚕種学の教授として着任されました。先生は学位を取られたばかりで、意気溌剌としておられました。私はこの先生に魅せられて先生の下で卒業論文の指導を受けることにしました。先生から与えられたテーマは「蚕におけるX線誘発突然変異の研究」でした。この研究はそれより6年程前(1937)、アメリカのマラー博士がショウジョウバエにX線をあてると突然変異が作れることを証明して以来、世界中の学者の興味の中心になっているものでした。私はこの研究で、新しい斑紋の突然変異を見つけ、これにセーブル蚕(図1)と命名し、これで卒業論文を書きました。この蚕は次々と突然変異を起し、私の研究生活の生涯を通じ、問題を提供してくれました。


図1 セーブル斑紋蚕(Sa)、白くて斑紋のないのは姫蚕

 私はこの実験で研究が面白くなり、父に「種屋の後継ぎをやめて、研究者になりたい」と申し出ましたところ、幸いに父は許してくれました。それから、九州大学農学部に入り、田中義麿先生の下で遺伝学を専攻し、卒業後、蚕糸試験場に職をえました。その間もセーブル蚕は手放さず、ずっと飼い続けていました。大学の1年生の時は下宿の机の脇で蚕を飼いました。大学の卒業論文もセーブル蚕の遺伝解析でした。

 私が蚕糸試験場へ勤務して間もない、2年目の春、この蚕に大変なことが起こりました。私はセーブル蚕の染色体を調べようと思って、実験室で細胞固定の準備をし、助手の深川君に飼育番号を示して、この区からセーブル蚕のオス10頭程持ってくるよう頼みました。ところが、彼はいくら待っても蚕室から戻って来ません。どうしたのかと蚕室へ行ってみると、彼は未だ蚕の雌雄鑑別をやっていました。「セーブルにオスはいません」と言うのです。「そんな筈はないよ」。しかし良く調べて見ると、同様な交配をした他の蛾区ではセーブルに雌も雄もいるのに、私が指定した番号の蛾区だけが異常だったのです。「これは大変だ。恐らくセーブル遺伝子がW染色体にくっついたのだろう(図2)。もしそうならこれを使えば斑紋で雌雄鑑別ができる」。次代を飼って見るとまさに私の予想通りでした(図3)。


図2 蚕のメスとオスの性染色体構成
Aは常染色体、ZとWは性染色体、メスは2A+ZW、オスは2A+ZZという構成をもつ


 図3 W染色体にPSa染色体が転座した系統
左はPSaでメス、右はpでオス

 私は即座にこの系統の実用化を考えました。皆さんご存じの通り、蚕では一代雑種の利用が普及していて、農家で飼う蚕はすべて一代雑種です。一代雑種の蚕種を作る為には発蛾に先だって雌雄の蚕を分けておかなければなりません。この為には専門の雌雄鑑別手が必要です。ところがこの系統を使えば子供でも雌雄鑑別ができる筈です。
 しかし育成を手がける前によく調べてみると、この系統ではメスがオスより体重が軽くなっています。このままでは実用にならないことが判りました。このためには染色体の過剰な部分を切り取るのが有効であろうと考え、X線や高温処理を使って過剰部分の切除手術を行ないました。切除の目印にしたのは転座染色体の上に乗っている斑紋遺伝子でした。一方は形蚕だけ、他方はセーブルだけ残しました。それでも未だ成長度の改善が充分でないので、まだら油遺伝子を目印にして更に切り詰めました。こうしてメスとオスの成長曲線が正常に近い系統を作り上げることができました(図4)(図5)。


図4 各種系統の5齢成長曲線(メス、オス別に示した)
W-PSaは最初に作られた転座系統、W-P、W-Saは第1次改良型、K.1は第2次改良型、Normalは正常蚕系統


図5 K系統の幼虫斑紋
左は形蚕でメス、右は姫蚕でオス

そしてこれを材料に実用形質を賦与する育成作業に入ったのです。平塚本場長からは、「沖縄や小淵沢を使って実用品種の育成を急げ」、という特別指令を受けました。折から戦時中で、農村は労力不足に苦しみ、一刻も早くこの品種が必要だったのです。17年秋には、沖縄へ渡る途中アメリカの潜水艦に追いかけられました。こうして育成した品種は昭和19年、「日117号×支116号」として指定品種に加えられました。しかし、実の所未だ強健性や糸質は不十分でした。

 その後戦争は未だ続いていましたが、私は昭和19年春、蚕糸科学研究所に移りました。ここでも転座系統の性状改良を続けました。ここでは転座系統の中からセーブルが暗色蚕に変った突然変異が出てきました(図6)。この変異系統では、雌の発育状態が従来の改良系統より優れていましたので、この系統を使って強健性を更に高めることが出来ました。しかし解じょや糸質の改良がうまく行かず、国の指定品種を決める為の性状調査に合格できず、虚しく育成世代を繰りかえしておりました。この間に蚕糸試験場綾部支場の真野技官に先を越されてしまいました。綾部支場では、性状調査の為に私が提出した暗色転座系統に、形蚕突然変異が出て、これが幸いに小節がよいことが判りました。それを材料に真野さんが糸質の優れた品種を掛け合わせて新しい品種を育成したのです。この系統が昭和42年、「日131号×支131号」として指定品種に加えられました。この品種は従来の限性系統に見られた欠点が全て除かれた立派なものだったので、以後これを基にして蚕糸試験場では数多くの限性品種が育成されました。


図6 転座染色体のP座位に起こった突然変異M系統

3.海外に目をむける
 前節で申し上げたところですが、私がセーブルの限性系統を発見したのは昭和15年のことで、16年の春、蚕糸学会でこれを発表しましたところ、翌17年早くも蚕糸学賞を頂くことができました。その後もこの系統の過剰染色体切除実験を続け、昭和19年には日本農学会から農学賞をいただきました。その後も私は、W転座染色体の何処に雌決定遺伝子があるかを突き止めたいと研究を続けておりました。昭和28年(1953)、第9回国際遺伝学会議がイタリアで開催されることになり、幸いにも私の研究がお偉方の目に止まり、私はこの会議に学術会議から日本代表の1人として派遣されることになりました。当時は未だ外国旅行することの難しい時代でしたので、私は飛び上って喜びました。その上、大日本蚕糸会からも「国際遺伝学会議に出席の序でをもって、欧米各国における蚕糸研究の現状視察を命ずる」という出張命令を頂きました。いうまでもなく世界一周の武者修業をしてこいという命令です。蚕糸会当局の配慮を心から感謝しました。お陰でイタリアではユッチ教授、マヌンタ教授、ロンバルジー場長、ピゴリニ前場長等と親交をあたためることが出来、フランスではシェンク博士やバゴ博士等の蚕糸研究者のお世話になって来ました。又英米ではマラー先生やゴールドシュミット先生他数々の錚々たる遺伝学者達の門をたたくことができ、視界が広がった思いで帰りました。

4.雄蚕飼育
 話は再び終戦当時に戻りますが、日本の降伏で戦争が終わった時、荒れ果てた日本の国をどう建て直すべきか大きな課題でした。狭い国土にぎゅうぎゅうづめにされた国民、人口は増えても耕地拡張の余地はない。昭和21年度には繭産額は5万4千トンで、最盛時昭和5年の1/7に減ってしまいました。これからの蚕育種をどうすべきか。私は蚕糸試験場育種部の原田先輩と色々議論しました。その結果、この状態で繭の増産をはかるには雄蚕飼育以外にない。同量の桑を与えても雄は雌より繭層生産効率が20%高い。従って雄だけ飼うことが出来れば確実に生糸10%を増産することが出来る筈。そう考えて私達は共同で雄蚕飼育の為の蚕品種を作り出す研究を進めることにしました。

 方法としては前述の斑紋の場合と同じ理屈で、白卵系統雌に黒卵雄を掛け合わせて、雌を決める遺伝子を持つW染色体に黒卵遺伝子を転座させてやれば良い。理屈は簡単だが実際に作り出すには大変でした。二つの研究室がフル活動しても2年かかりました。飼育した蚕の総蛾数は1蛾育にして6523蛾区。この中から2年目の終わりに、目的とする転座系統を漸く1区だけ捕まえることができました。この系統では黒い卵からは雌が生まれ、白い卵からは雄が生まれてきます(図7)。従って黒メス×白オスという形で交雑すれば毎代黒メス卵と白オス卵が生まれてくることになります。


図7 限性黒卵系統の蚕の卵
黒卵からはメス、白卵からはオスが生まれる

 次の問題は黒卵と白卵とをどのようにして選別するかです。蚕の卵は小さいので、どうしても自動的に選別する機械が必要です。このことについては国際電信電話会社研究所長の難波捷吾博士にお願いしました。難波博士は、東京−大阪間で新聞社の写真電送に使われているファクシミリ装置を改造して使うことを考えられ、弱電の専門家忍足義見氏を紹介してくれました。難波博士と忍足氏に私も加わって具体的設計に当たりました。製作費は朝日新聞社の科学奨励金と農林省の助成金とで、立派な装置を作り上げることができました(図8)。


図8 完成した蚕卵雌雄自動選別機

 この装置は金属シリンダーに蚕卵台紙を巻き付け、これを回転させながら光のスポットをあて卵からの反射光を光電管で感知します。不要の方の卵は電気スパークで焼殺して、必要な方の卵だけ残すという仕組みになっています(図9)。この装置の選別能力は1秒間に10〜20粒でした。


図9 蚕卵雌雄自動選別機の基本構想 

 此等の研究成果は、卵色転座の方は1951年、機械の方は1955年に発表しましたが、海外向けには英文でISAのBulletinに1952年と1954年に発表しました。しかし未だ問題がありました。それは、肝腎の白卵が黒卵に比べて少し弱く、私はその改善に苦労しておりました。

5.ソ連が後を追っている
 その頃(昭和34年、1959)のある日、私は街の本屋で「21世紀からの報告」という本を見付けました。原文はロシア語でプラウダの科学記者の書いたものだそうです。其の邦訳が講談社からカッパブックスの一つとして出ていました。内容はソビエト科学アカデミーの科学者たちがそれぞれ分担分野をきめて、50年後の21世紀初頭における科学技術の進歩を予測して語ったところを記事にしたものだそうです。
 この本の第2章は「未来の黄金時代」となっていて、其の最後は「原子手術台上の染色体」という節でした。そこには次のような記事がありました。「養蚕方面では卵の段階で性別を判定する方法が完成されている。この問題を解決するために日本の遺伝学者は12年という長い年月研究してきたという。−−中略−−このような蚕の系統は1956年ソビエトの中央アジアでも作られた」と。
 この記事を見て私はソ連が私達の研究に着目し、これを追いかけていることを知りました。その推進者が、だれあろうアカデミー会員のアスタウロフ博士であったことはずっと後になって、1966年東京で開かれた太平洋学術会議の際に博士自身から聞きました。
 ソ連で転座系統が計画どおり出来たことを私が確認出来たのは1970年春、スツルニコフと言う人から送ってきた論文を見た時でした。
 「田島と同じ方法で2系統の転座作成に成功した。この2系統を互いに掛け合わせると白卵も灰白色に着色するようになるので、好都合である」と書いてありました。「とうとう追い付かれたか」と思いました。

 当時ソ連ではルイセンコ派が失脚し正統派が勢力を盛り返しアスタウロフ博士が遺伝学会長になっていました。
 私はアスタウロフ博士とは手紙の交換を続けていましたが、ソ連研究陣の様子を一度見てみたいと考え、1970年夏エジンバラで開催された国際放射線研究会議に出席の帰り道、タシュケントに寄って見たいのでお世話願いたいと手紙を出したところ、目下同所は猛暑で、研究所は暑中休暇中です。しかし担当者のスツルニコフ博士をモスコウに呼んでおくから、是非モスコウにお寄り下さいという返事がきました。

 モスコウ空港ではアスタウロフ博士の出迎えを受け、ソ連科学アカデミーのゲストとして大歓迎を受けました。スツルニコフ博士とは発生生物学研究所で充分語りあうことが出来ました。ソ連でも蚕卵雌雄自動鑑別機が出来ていました。アカデミーの別の分野の専門家に作らせたのだそうです。機械は国民経済博覧会の科学アカデミー館に陳列してありました。アスタウロフ博士とスツルニコフ博士と二人で説明をしてくれました。この機械は卵をバラバラにして細い管の中を落とす。途中で光電管が卵色を感知して、管の下端で黒、白に選別する仕組みになっていました。この方法ではスピードは遅いが、チャンネル数を増して解決しているとのことでした。

 それから8年後、1978年にモスコウで第14回国際遺伝学会議が開催されましたので、私はその機会にもう一度モスコウを訪れました。この時最早やアスタウロフ博士の姿はなく、スツルニコフ博士が後を継いでいました。今度は待望のタシュケント研究所を訪れることが出来、ここでソ連製蚕卵雌雄鑑別機の第二号機を見せて貰いました。この機械では卵は細管でなく、回転する円盤の上を滑るようになっていました。この旅で私は初めて砂嵐を経験しました。その物凄さに砂漠を旅するキャラバン達の身の上を忍びました。

 ところで、私の手元でもソ連でも未だ雄蚕飼育は実用化されていません。白卵が弱いという欠点が除けない為です。

 その後昭和58年(1983)秋、私は70才で遺伝研所長を退いて、大日本蚕糸会蚕品種研究所長に迎えられ、蚕の品種育成に専念しましたが、残念ながらこの時蚕糸業は再び斜陽の一路を辿っておりました。
 平成10年群馬県では日本絹の里を設立され、私はここの館長に迎えられ今日に至りました。そして皆さんと同じ博物館のお仲間に加わり、昔を今に返す術、を見いだすべく日夜苦悩していると言うのが現状です。


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