第2部 事例報告ー2−(5)

シルクへの熱い想い持ち続けて
浅井繁子(養蚕農家)

 ただいまご紹介いただきました浅井でございます。
 まず、申し上げておかなければならないことは、この伊那谷は昔から養蚕の盛んな土地でございました。そして、現在も立派に養蚕経営をされている方が大勢いらっしゃいます。そんな中に、本日ここにこのような高齢な私が立ちますことをおわび申し上げ、お許しをいただきたいと思います。
 「桑の中から小唄がもれる、小唄聞きたや顔見たや、私しゃ伊那の谷、谷間の娘、蚕こわがる子は産まぬ」、この伊那谷の民謡「伊那節」にも歌い込まれておりますように、この伊那谷一帯が養蚕全盛時代に生まれ育った私は、ことしの夏、ふと気づいたら蚕とのつき合いの夏も80回目になるのだと思うと、やはり感慨深いものがございます。
 今年の夏も一般家蚕に合わせて、シルクミュージアム名誉館長岩下先生のご指導のもと、9種類の原蚕を飼育させていただきました。あの小さな虫たちがそれぞれに個性があり、大形、小形、綿状とさまざま、色も純白からローズ、金色、レモンイエローと、その神秘的な美しさに感動するとともに、いとおしさに胸がいっぱいになるのでした。これが私のことしの夏の養蚕の経験でございます。
 かつて、生糸が輸出産業の花形だったころ、養蚕は農業経営の大きな柱の一つとして、各農家は競って規模拡大を図ったものでした。そのころの小学校は農事休みを養蚕の忙しいピーク時に合わせて休みがとられ、地域ぐるみ、家族ぐるみの産業として支えられていたのでした。そんな時代から時を経て第二次世界大戦が始まり、男性は軍へ、また、多くの若者は軍需産業へと吸収されて、平和産業はストップ。諸物資の不足が始まったのです。衣料においても切符制がしかれ、自由に物が買えず、ふだん着さえ事欠くようになりました。
 そこで力を発揮したのが、自分の家で生産した繭だったのです。糸を紡ぎ、機を織り、下着までシルクの生活で、改めて繊維としてのシルクのすばらしさを体感したのでした。女学校を卒業するころはまさに戦時色一色で、農業を守るため、米づくりと養蚕の家業の手伝いに専念せざるを得なかったのです。手作りの嫁入り支度で嫁いだ現在の家も同様で、以来、夫と二人、来る年も来る年も飽きることなく米を作り、蚕を飼って、現在まで蚕とのつき合いは途切れることはありませんでした。そのころの養蚕は一家の経済を支える大切な虫としてお蚕様と呼ばれ、桑を与える作業も「桑を進ぜる」という言葉で表現されていたほどです。
 そんな神様並みの蚕を育てる役割を受け持ったのが養蚕農家の主婦だったのです。責任は重く、大変な仕事ではあったものの、よい繭をより多く取りたいと努力して成果が上がったときの喜びは、また格別なものがありました。
 やがて、終戦からの復興期に入り、今までの諸物資不足を挽回するかのように絹の需要も急速に伸びてきて、平和で豊かになるにつれ、しばらくは養蚕有利の時が続いたのでした。「さあ増産」のかけ声のもと、それまで桑の葉一枚一枚摘んでいた養蚕を条桑育に切りかえたり、規模拡大のためにパイプハウスを建てたり、年間6回ほどの多回育に挑戦もしました。振り返れば、懐かしくも、また充実した日々だったと思っています。
 でも、時代は大きく変わっていったのでした。生活様式の変化は、それまで着物の素材としての絹が、着物離れが進むにつれ需要が減少、あわせて化学繊維の発達で糸価は低迷し、繭値は下がる一方。折しも伊那谷に中央自動車道が開通して産業構造が変わってくると、労多くして見返りの少ない養蚕に見切りをつけて、他産業へと転向する仲間が出始めたのでした。
 そんな状態に危機感を持った私たちは、婦人部を結成して仲間づくりをするとともに、高く売れる繭作りのための勉強もしました。指導に当たってくださる養蚕技術員の先生を中心に、よい桑作りから病蚕を出さないよう、蚕室の消毒の徹底等々、また、検定所まで行ってもろもろ学ぶ中で、やはり解舒率を上げることがいかに大切かということも知りました。
 解舒率といえば、過去に全齢人工飼料で飼育したこともありました。それは一番大変な栽桑作業もなく、スカート、スリッパでの養蚕で、何ともおしゃれな養蚕です。ルンルン気分で蚕も太り、純白の立派な繭を作ってはくれましたが、解舒率が悪く、高くは売れなかったのです。やっぱり太陽の光をいっぱい受けた桑の葉が蚕にとっては一番のようです。
 よい繭を生産することに努力すると同時に、消費拡大にも気を配ろうと、「ちょっとおしゃれは着物で」を合言葉に、着物着付け講習会を開いて、農協祭には着物姿で絹製品の販売に参加もしました。これはそのときの思い出の写真でございます。

 繭クラフト作りにも取り組み、コサージュ、ブーケ、シルクうちわなど、婦人部共同で制作した作品は農協祭に販売もしたのです。

これはシルクうちわ作りの写真ですが、本来丸く作りたい蚕を裸にして団扇の骨に載せるときには、ごめんねという思いで載せています。糸を吐き終わった蚕は1カ所に埋めてあります。自分のお墓は作らなくても蚕塚だけは作ってあげたい思いです。

 ブーケも幾つか作りました。めい、おい、息子、孫と、それぞれにプレゼントしたブーケを結婚式には使ってくれまして、また、新居の玄関に飾ってあるそうです。贈った者にとってはうれしいことです。これは、昨年、孫が結婚しまして、そのときのブーケを使ってくれた写真です。
 このように婦人部活動に仲間の連帯感も育ち、楽しい雰囲気ではあったものの、時代の流れには逆らえず、養蚕年齢の高齢化とともに、婦人部としては解散しなければなりませんでした。婦人部としてはなくなりましたが、養蚕農家がなくなったわけではなく、現在も、量、質ともに向上を目指して頑張っておいでの方があり、その方々には心から声援を送りたいと思います。
 古くは、はるか遠いシルクロードの時代から、その美しさの魅力は今なお繊維の女王の座を守り続けています。現在はその持つすばらしい特性を科学的に研究され、医療に美容にさまざまな面から人類に貢献されつつあることは、既に皆様周知のとおりだと思います。私たちの身の回りにおいても、着物離れによって一時遠ざかっていた繊維としてのシルクが、今、洋ファッションの部門で本来のすばらしい力を発揮しつつあり、またシルクニット製品としてぐっと身近なものになってきています。
 私は、「天の虫」と書く蚕の文字にもあるように、天から授かった人類の貴重な繊維として、もっと身近に大切に愛情を持ってつき合うべき繊維であると、ずうっと思い続けています。今はまた、ブランド化に向けての新しい動きもある由、また、小学校では子供たちが蚕に興味を持って飼育されているのを見るとき、シルクの用途の多様化とともに、今までと違った形で養蚕が一つの産業として復活する日の来ることを願い、それを信じたいと思います。
 それを信じつつ、来年の夏もまた主人と二人、お蚕様とのつき合いを続けたいと思っています。

座長: ありがとうございました。ご質問やご意見がありましたらどうぞ。
会場: 私なんかは養蚕自体が中心ではありませんのでつくづく思うんですが、そのような形で生活の中にシルクが入っているんだなというのを感じました。下着がシルクだとか、結婚式でブーケ繭でつくられるとか、そういうことは養蚕地帯でないとあり得ない話でして、商売上扱っているというところは日本じゅうにあるかもしれませんが、生活の中にそういうことが入り込んでいるという意味では、駒ヶ根の地域ならではの文化だと思うんです。文化といっても文化財的に評価されるものもありますが、こういう生活に密着した評価を得づらいようなところというのはなかなか保存されないところがあると思うんですけれども、養蚕を地道にやってこられて、そういうシルクの要素を生活の中に取り込まれているというのは非常に大事なことだと思いました。大変ささやかですが、非常に大切な要素だと私は思います。
浅井: ありがとうございます。
座長: ほかによろしいですか。ちょっと早いようですが、これで終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。


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