基調講演
伊那の蚕糸業発展における先人の知恵と努力

岩下嘉光
(宇都宮大学名誉教授・駒ヶ根シルクミュージアム名誉館長)

司会:ご紹介申し上げます。ご講演者は、駒ヶ根シルクミュージアム名誉館長で、宇都宮大学名誉教授の岩下嘉光先生でございます。
 講演に先立ちまして、先生のご紹介を申し上げます。先生は、昭和25年、上田繊維専門学校をご卒業になられまして、同年、宇都宮大学農学部の教官として勤務をされました。昭和37年には、東京大学より農学博士の学位を授与されております。昭和43年には、宇都宮大学の農学部教授、続いて学生部長、そして平成2年には宇都宮大学の農学部長に就任をされております。その後、平成6年には当大学を退職されまして、平成9年に信州短期大学の学長に就任をされました。平成13年に駒ヶ根シルクミュージアムの名誉館長としてこの地に就任をされて、現在に至っているわけでございます。
 本日の演題は「伊那の蚕糸業発展における先人の知恵と努力」でございます。では、お願いいたします。

岩下: ただいまご紹介をいただきました岩下でございます。
 さっき市長さんからのお話もありましたように、竜水社を記念してシルク博物館をつくりたいというご相談がありました。実は私、駒ヶ根の地というのは、若い時代に1回訪問しただけで全く知らない土地でありました。また、「竜水社」「組合製糸」という名前は承知しておりましたけれども、私、蚕の研究者でありながら、実は組合製糸というものがどういうものか全く恥ずかしながら承知をしておりませんで、その話があってから少し調査をいたしましたところ、蚕糸業発展過程の中では大変特異に伊那谷の蚕糸業が発展していったことを理解いたしましたので、喜んでシルクミュージアムをお引き受けしたわけでございます。
 それから現在まで約4年、ともかく私、蚕糸業経済をやったわけでもありませんし、歴史をやったわけでもありません。実は専門は蚕の病気でありまして、ずうっと大学時代は生物学のほうに熱中をしておったということで、恥ずかしながら、糸、絹についても全くの素人でございました。ここに来てシルクミュージアムを運営するに当たって、本当に新しく目覚めたという気持ちがございます。同時に、伊那の蚕糸業の発展史をいろんな形で勉強させていただきまして、その大きな発展の日本における重要な意義は自分ながら理解できましたので、ここで、未熟ではございますけれども、ご紹介をさせていただければと思っております。

 終戦の年、昭和20年でありますけれども、製糸工場は、生糸生産の道が閉ざされ、蚕糸業全体が縮小され、軍事工業に転換をいたしました。20年の終戦の年の長野県の状況はどうかといいますと、 1,637の蚕種製造業がありましたのが13に、それから856の工場が57工場になりました。ただ、養蚕農家は、20万4,157戸あったものが11万245戸。54%近い農家の皆さんは蚕を飼っておりましたし、昭和22年には、その収益は8億3,150円。長野県の農家収益の約42%を占めておりました。まだ戦後も養蚕が農業経営の中で大きな比重を長野県では占めていたということが理解されるわけであります。
また、上伊那郡ではどうか。最盛期の昭和8年に1万6,648戸ありましたのが1万2,177戸。74%の農家の皆さんがまだ蚕を飼っておられたという状況でございました。
 このように製糸工場が非常に縮小されましたけれども、幸いにして、この中心の組合製糸の竜水社。もちろん昭和18年に製糸統合を終わって解散し、大日本生糸株式会社の傘下に入っておりましたけれども、幸いにして生糸生産を続けられ、落下傘の原料とか、あるいは防寒服の原料を作っておりましたので、何とか昔を復活したいということで努力をされました。その努力の大きな原動力となったのが、組合の会長の北原金平さんであったわけであります。この北原金平さんの大きな指導力と経営能力によって、既に昭和21年の2年目には組合製糸竜水社として新発足をされ、いわゆる養蚕地としての活気を呈していたわけであります。
 その当時は、農林省でも戦前の蚕糸業を復活しようということで、蚕糸業復興5カ年計画を樹立したわけでありますけれども、ともかく敗戦の混乱と食糧難でなかなか発展することができない。その当時の蚕糸局長が養蚕奨励と視察を兼ねて全国行脚をされておられたわけでありますが、蚕糸局長が伊那谷に足を踏み入れ、各市町村を訪ねていると、市町村の至るところに広大な稚蚕飼育所が設けられ、熱心に養蚕をされている農家の皆さんを見て、「ようやく養蚕地らしい養蚕地に来た」と言って嘆声をもらされたという話が残されているくらい、戦後も伊那谷は県下で唯一の養蚕地帯であり、日本でも有数の養蚕地帯を形成していったという歴史がございます。
 さて、それならば、伊那谷という地区がどのような形で養蚕が発展していったのだろうかということを私なりにいろいろ調査しております。記録として残っているのは、今から700年前ぐらい、ちょうど南北朝時代になりますけれども、南朝の後醍醐天皇の第5皇子宗良親王が下伊那郡の大鹿村に隠棲をなさった。この宗良親王は、非常に歌をよくされて歌集を編さんされたりしておりました。ご自分でも「梨花集」という歌集を残されておりまして、この歌集の中に1つだけ養蚕農家をうたった歌がございます。その宗良親王の和歌が、伊那谷で養蚕をしていたという実態を示す最も古い記録の一つだったろうかと思います。
 それからあと、伊那といわず、日本で蚕糸業が盛んになったのは江戸が開かれた徳川幕府の時代からでありまして、特に貞亨2年(1685)、17世紀末でありますが、このときに白糸の輸入を抑制した。要するに中国からいろいろなルートで生糸が入ってきていたんですね。その白糸の輸入を抑制した。そして幕府は養蚕振興を各藩に指示をします。各藩は、各地区の蚕業振興のため、経済振興のために養蚕を奨励したという時期以後に日本では養蚕が全国的に盛んになってきました。当時、有名な上田の在の塚田与右衛門さんの「新撰養蚕秘書」なんかもこの時代に養蚕技術書が書かれているわけでありまして、当時100冊以上の養蚕技術書が発行されているわけであります。
その時代、まだ伊那は交通も不便でありましたし、なかなか技術の発展を見ることはなかったようでありますが……。

 箕輪村羽広、今の伊那市でありますけれども、ここに林宗賢先生という方。この先生は幼いときから、いろんな農作業を体験されながら漢学を学び、20歳を過ぎて京都に留学して、ここで医学を学んで帰られまして、家に帰って医院を開いたわけでありますが、この医術が非常に巧みであって、高遠藩に召し抱えられて高遠藩の藩医になったということであります。
 この林宗賢、号を鷲山と言われて、一般に鷲山先生と呼ばれていたようであります。このいわば独学篤学の士、鷲山先生を慕って百数十名のお弟子さんがいたと言われております。
 この鷲山先生が「養蚕秘伝集」という本をお書きになっているわけであります。これは鷲山先生の晩年、70歳ぐらいのときの著書でありますけれども、この著書もなかなか見つかりませんでして、ようやく郷土史家の向山雅重先生がお持ちになっているということで、奥さんにお願いしてお借りして写させていただいたわけであります。この書物をみますと、兄嫁さんが非常に養蚕が上手でありまして、蚕を飼って、腐らせたことがない。その兄嫁さんについていろいろと養蚕の話を聞き、さらに周囲の養蚕を盛んにやっている有名な方を訪れては養蚕の話を聞き、さらには、塚田与右衛門さんの「新撰養蚕秘書」、あるいは上州の馬場重久さんが書いた「蚕養育手鑑」という本があります。この2つの著書はなかなか良書でありまして、広く皆さんに読まれた養蚕の技術書でありますが、この技術書のエッセンスをとらえられまして伊那に適応した「養蚕秘伝集」という技術書にまとめたわけであります。蚕の種取りから催青、それから養蚕の飼育、蚕の病気、さらには上蔟、繭の乾燥まで網羅した技術書であります。
 中にも書かれておりますけれども、字を読めない方々も多かったので、お弟子さんに読ませながら農家の人にその技術を浸透させる口伝書であるとお書きになっています。この「養蚕秘伝集」が出されたことによって、かなり地域の養蚕技術が進歩したものと思われます。
 鷲山先生の生家を昨年訪ねてみました。ところが、残念ながら江戸時代に家運が傾きまして、鷲山先生の蔵書すべてが売られて四散してしまったということでありまして、案内されたのは、畑の一隅にある鷲山先生の墓碑銘でございました。墓碑銘は、上に横書きで「鷲山 林先生の墓」と書かれておりまして、下に縦書きで鷲山先生の業績が書かれていますが、もうコケむして全く読めない。養蚕の指導業績からすれば大変な指導者でありました。

 鷲山先生だけでなくて、それから4年ぐらいおくれて、樋口平左衛門雄貞という高遠藩の武士がおられました。この方が、「養蚕全書」というのを文政6年(1823)に口述筆記をさせたという記録がございます。さらに2年たって「勧殖桑養蚕書」というのもお書きになったという記録があるらしい。本物を見ることはできなかったんです。どこにあるかわかりません。
 また、「三丹蚕業郷土史」が出されましたが、これを見ると、文政9年に信州高遠藩より蚕種数十枚とともに上記2巻が添付されたということが記録されておるわけでありまして、既に1800年代の初期には伊那の種がかなり有名になって、京都の地域にまで広く売られていたという事実がここに見られるわけでございます。

 ところが、さらに調べを進めていくと、さらに古い記録がございます。これは駒ヶ根の隣の村でありますけれども、現在、中川村と言われている地籍に大草という部落がございます。この大草という地籍に佐々木宇八さんという方がおられました。佐々木宇八さんは若いときから非常に研究熱心だったらしくて、諏訪の山浦地方から「丹吾」という新種を買ってきて、自分の家に伝わっている伊那代々の品種と交配をして、数年にわたって品種育成をされたようであります。これが1790年に「大草」という品種に育成をされて、農家の皆さんに飼ってもらうように売り出した。
 この「大草」という品種は非常にいい品種でありまして、「日本蚕品種の実用系譜」という平塚英吉先生が昭和の戦後になってから編集された、日本の全実用品種を記されている本でありますけれども、これを見ますと、「大草」は二化性の日本在来種で、天保から明治、さらには大正、昭和にも飼育された。その改良種は国蚕106号として大正4年に認定され、交雑固定種の基礎株として品種改良に役立った。このように18世紀末から19世紀の初めに大変な品種育成をされた方がおられたわけです。
 1902年に「信濃蚕業沿革史」が発刊されました。この「信濃蚕業沿革史」を見ますと、蚕の品種改良は掛け合わせが効果的だ。それで信州人がこの掛け合わせの方法を発明したんだと書いてあります。その起源は弘化2年、1840年ごろであると書かれておりますけれども、それより50年も前に独力で新品種を育成された。育成の基本は交雑育成でありますが、その交雑育成をされて「大草」という品種を作り出したというのは、品種育成上、記録に残る大きな業績であったと私は評価するものであります。

 実は、「大草」を育成したということには一つ意味があるわけでありまして、この蚕は二化性であります。1年に2回孵化してくる蚕であります。養蚕の反収、生産性を上げるためには、1年に1回、春だけじゃなくて、春、夏、秋、2回から3回は生産して初めて反収の生産性が上がり、収益が上がるわけです。この意味で、「大草」を育成されたということは、その時期、既に19世紀の初めに伊那では夏蚕が飼育されていたということです。これは技術が高い証拠でありまして、昭和20年代になって、「蚕業評論」という蚕糸業の専門雑誌が出されておりましたが、「蚕業評論」に、私の記録では二十四、五年だったと思いますが、茨城の蚕業試験場の技師が書かれていた一文が今でも記憶にあります。茨城では夏蚕を飼うのが非常に難しい。農家の人たちが夏蚕を、高温で湿度の高い茨城で飼うのは大変難しい。挑戦をするんだけど大部分は病気になって失敗をしてしまう。夏蚕は技術も要る、蚕の先生も必要だということが記録されているので、昭和の年代になっても夏秋蚕が飼えなかったのが関東の実態でありました。
 これに比べると長野県は、夏季は冷涼で、確かに蚕の飼育の環境条件はいいわけですけれども、同時に卵の保護が重要な問題になるわけです。卵は冬期から春にかけて温度を低めて保存しなければいけない。そういういわゆる二化性の卵の保護的な技術も完成されていたという事実がこれで明らかになるわけであります。

 この手紙文にありますように、「大草」という品種がよかった証があります。安政3年の7月に京都の糸問屋の日野屋から糸仲買商の鱗屋への督促状が載っているんですが、「飯島辺」……飯島というのは駒ヶ根の隣の町であります。「飯島辺且又葛島、大草細口もの、はる、夏供宜しく候間、三口、四口位下ませにても御買い取り、御登せ下さるべく候」「大草香坂夏蚕如何様供成し下され、是非御買い取り下されるべく候」ということが「大沼日記」に記されてあるわけです。「大沼日記」というのは、駒ヶ根の商店の方で、江戸時代に3代にわたって毎日の記録が残されている。この中に「大草」の取引があるわけでありまして、これは安政6年の前でありますから、横浜開港以前の時代からかなりの生産性を上げていたということがうかがい知れるわけであります。
 現在は、二化性を保護するために冷蔵庫の中に入れています。昭和の初期までは冷蔵庫の代わりに風穴を使用しました。稲核(いなこき)の風穴というのが有名でありますけれども、風穴は長野県、静岡県、群馬県に多いわけでありまして、その風穴の多いところに種屋が発達したという歴史があるわけであります。残念ながら、駒ヶ根の地は幾ら探しても風穴はなかったようです。そこで、知恵のある人は考えた。駒ヶ岳の山麓の国有林はかなり涼しい。ここに囲いを作って、冬の氷を敷き込んでおけば風穴と同じになるだろうということで、早速、駒ヶ根の技術者が行って囲い小屋を作って、そこに二化性の卵を保護した。これが見事に当たりまして、この地区は夏蚕が十分飼えたということで、「駒ヶ岳囲い小屋は腐ることなし」という大きな自負としての言葉が残されているという史実もございます。
 このように江戸末期になると、伊那地方の養蚕技術は非常に高いものになった。その前は、長野県でも上小地方が先進地でありまして、上小地方に追いつき追い越せというのが伊那地方の養蚕農家の合言葉でもあったようであります。

 佐々木宇八さんのご子孫のところへ昨年お訪ねをいたしました。ご子孫の方は、宇八さんという方がいたということはご両親から聞いているけれども何にも残ってねえという話なんですね。一度火事があって、みんな焼けちゃったかもしれないという話で、宇八さんを記録するようなものは見つかりませんでした。畑を見渡す庭の一隅にややかしがった形で、1メートル50ぐらいの自然石に「蚕蝶群霊」と書かれた蚕蛾の供養碑が建っていた。恐らく宇八さんのころの蚕蛾の供養碑であったものと思われるわけです。「大草」は大量に飼育されて全国各地に頒布されたのですが、わずか石の標識が残されていただけでありました。この大草はうちの博物館で、繭標本として保存してあります。

 江戸時代に養蚕技術がある程度進められ、また明治の初期に「天下の糸平」と称され、小説が出され、講談の材料にもなった田中平八さんが、この近くで生まれたわけであります。その田中平八さんのお宅は貧しかったものですから、12歳で飯田の魚屋、雑貨商に年季奉公に出され、その才覚を認められて、19歳のときに飯田の藍玉を作っていた藍屋さんの婿養子になった。そこで藍屋の商売をしながら生糸も商ったものと思われます。幕末でありますから、安政6年、横浜が開港されたという話なんかを風の便りで聞かされ、風雲の志のあった平八さんとしては、とても田舎で商売をしていくことには耐え切れずに、安政6年に妻子を残して出奔するわけです。それで、米、茶あるいは生糸を行商しながら横浜にたどり着き、平八さんの才能が認められて生糸問屋の手代になるわけです。手代になりまして、300両を携えて飯田に行って……。そのころ飯田生糸というのはかなり有名だったようでありますが、飯田に行って300両を元手にして、持ち前の弁舌を振るって3,000両に相当する生糸を買い込んで、2カ月後にその支払いをするという約束をして横浜に持ち帰って、それを外国商社に売り渡す。これが見事に当たりまして10倍以上の大収入を得て、その収益を元手にして、自分で横浜に「糸屋」という屋号で店を開店した。
 この人、頭の回転のよかった人だったので、生糸問屋だけでなくて為替商人となったんですね。洋銀60匁がちょうど1両に相当する。ですから為替交換しなきゃいけない。その為替商がまたかなり巧みに売り上げていたんでしょうね、為替商組合が田中平八さんに全部を委託するということで、田中平八の家を両替所にして、所長に就任されているわけです。これがまだ30歳代の初期であります。
 それから、生糸、米、お茶の商いをしてどんどん財をなし、そして日本橋の蛎殻町の米穀商組合の頭取になるというようなこともあって、大変手広い商売をされたようでありますが、それと同時に政治家とも親しくなり、いわゆる政商でもあったようです。
 この平八さんは、神奈川県の水道を最初に引かれた。熱海の博物館から連絡があって、実は熱海の水道も田中平八さんが引いたんだということで私ども認識を新たにしたんです。さらには、長野県の「為替方」を務めました。それから田中銀行を創設する、あるいは北海道で鉱山を開くというようなことで、大変な活躍をなさったわけでありますけれども、残念ながら、結核を患って51歳で亡くなってしまうわけです。その偉業をしのんだ生糸商仲間の雨宮氏が、田中平八さんの息子さんを連れて、当時、伊藤博文公が帝国ホテルに宿泊されていた。これに5m50、幅が350の大きな紙を持参して、「糸平の墓碑銘を残したい。だから揮毫してくれ」と頼んだところ、伊藤博文は快く、座敷いっぱいに広げて「天下の糸平」と書いた。これが現在、墨田区の墨田院、天台宗でありますが、木母寺に大きな御影石の墓碑銘として庭園の隅に建っております。
 さらに、郷土の英雄といいましょうか、駒ヶ根が育んだ偉人ということで、生誕150年に赤穂地区の皆さんが浄財を400万円集めまして、「天下の糸平出生の郷」という大きな記念碑が建てられました。この記念碑を建てる過程について、おもしろい、いろいろな論争があったりするわけでありますが、これは省略させていただきます。この碑は、現在、あすいろいろごらんいただく一つの場所になっておるわけでありますけれども、菅野台、温泉地の縁に池がありますが、その池の湖畔に建っております。さらに、「天下の糸平出生地」ということで、花崗岩の記念碑があります。ここを出たすぐそこの国道沿いに駒ヶ根郵便局があるんです。その郵便局の隅にこの写真のような記念碑が建っております。興味のある方は、どうぞごらんください。
 この田中平八さんの大きな商業活動で、伊那生糸は天下に知れ渡ったということで、大きな貢献をしたわけであります。

 明治期に入るわけですが、その当時どのぐらいの経済性が養蚕にあったかというのは、明治4年の農政史を見ますと、反収で米作が1石2斗で30円25銭でありました。蚕は1反で、春蚕が18.8貫、夏蚕は5貫。これは少ないですよね。今はこんなにわずかしか取れないわけじゃないんですが、これでも95円50銭。何とお米の3倍以上の収益があったわけです。これだけの収益があれば、ともかく伊那谷の農家の皆さん、蚕を飼って収益を上げざるを得ない。そういう点で、養蚕がますます発展しました。
 伊那はご存じのように一つの天竜川を中心にした台地でありまして、当時、徳川幕府の時代は、熟畑には桑を植えてはいかん。要するにあぜや、あるいは山地の未開墾地に桑を植えて養蚕業を振興しろ、こういうことであったわけでありますから、伊那谷の地域はちょうど桑の栽培には適していた。長野県で一番温暖で桑の伸びもいい地帯でありましたので、環境にも恵まれ、どんどん養蚕農家がふえ、生産性を上げていったわけであります。
 ただ、問題は、今でも、来ていただいておわかりになるように、非常に交通が不便であります。高速道路がありますから車の所有者は楽でありますけれども、歩いて伊那を訪問するというのは大変な苦労をしてお入りになる。昭和の初期までは、あっても自転車ぐらい。足で行動しなければならなかった時代です。蚕を飼って繭を作っても、繭を作ってから10日ぐらいの間に販売をしないと、蛾が出てしまって商品価値がなくなる。ですから非常に販売期間が短い。そういう点では、収穫を上げても販売が難しい。販売、流通が難しかった。そういう点で、明治時代は、この地域の特徴として、各地区に小さな、20釜とか30釜ほどの製糸工場ができていったわけでありました。

 41年の器械製糸工場の分布ですけれども、驚くべきことに、上伊那、下伊那、各地区に製糸工場があるんです。みんな二、三十釜ほどの小さな製糸工場です。なぜこんなに地区に小さな製糸工場ができたのかと考えれば、繭の生産で、その繭を処理するためには近いところでなければできなかったわけですね。そんなようなことで、50ぐらい製糸工場ができた。同時に、伊那の周辺には、松本、諏訪、岡谷があったわけですが、ここには大きな企業製糸があった。その企業製糸から繭仲買人が派遣されて、どんどん入り込んできて繭を買い取る。小さな製糸工場は、それで繭の取り引きの競合に苦労する。だから四、五年たったらみんな倒産していっちゃったという状況であったわけです。てんびん棒を担いで大きなボテと称したザルをしょって繭を買い漁る。持ち前の弁舌で農家に入り込んでいってお愛想を言いながら、この繭は選繭が悪いんだ、これを使うとだめだと言って買いたたかれ、伊那の養蚕農家の人は繭の売り買いに悩まされたと思いますけれども、「ボテフリ」と言われて、今もその名前が残っているわけです。ボテフリに苦労したというのが、今も養蚕農家のご老人の話に出てくるわけです。こういうのが伊那の地勢上の実態でございます。
 こういう地勢態勢上の中で、たまたま柳田国男先生がヨーロッパからお帰りになって、ヨーロッパの産業組合の実態を紹介なさっているわけです。これが一つの転機になったわけでありますけれども、柳田国男先生はどういう形をおっしゃったかというと、農村の経済発展の救済は、小さい力を大きくまとめて、協同で一つのものを生産する。小さな力を大きくすることが産業組合。産業組合のためには、まず、きちんとした定款が必要だ。目標が必要で、合同の力をつけなさい。さらに、リーダーとなる人は、不幸を幸いにする情熱を持ったリーダーシップのある人を選びなさい。そうすれば、必ず協同の精神がわき上がって生産性が向上して、間違いなく農業生産は発展しますよ、という考えを講演なさっているわけであります。
 この話に共鳴したのが、伊那の地区、東春近の飯島国俊さんという方でございました。飯島国俊さんは養蚕農家の合資会社を設立しました。そのころ伊那地域製糸技術が他県より進んだ証拠であるわけで、器械生糸を導入しているんですね。大部分の地区は国がつくった富岡製糸の影響を受けてフランス式の生糸をやったんですが、伊那地区は、小野式の製糸、要するに伊丹式の製糸が入り込んで、明治4年から器械座繰りを導入し、器械生糸を生産していたわけであります。図に示しますように、長野県は1釜当たりの器械生糸生産量は、明治26年において50斤以上の工場が全国の40%を占め、明治44年には80斤の生産工場は30%余を占め、技術水準が他県に比べて、かなり高かったことを示しておりました。


赤:生糸生産量対全国比(%)、黄:1釜当たり生糸生産量県平均(斤)、青:同2口取器械生糸県平均(斤)
(農林省農村経済局調査部調査表)

 飯島さんは、まず、耕地面積の低い伊那谷の農家の経済的救済は、養蚕をし繭を生産し、個人で繭を販売するので企業製糸に食われてしまう。だから協同して製糸工場をつくり、生糸を生産して農業の最終産物の生糸を売って、その利益を農家に配分することが農家経済の救済であるという信念を持った人でありました。これは柳田国男先生の考え方と一致するわけであります。
 同時に、飯島国俊さんは非常に完璧で精密な思考力を有した方でありました。供繭した繭は肉眼検査と口挽きにより品質を決定する。口挽き法を最初に発明されたのが飯島さんであったわけです。これは蚕糸業発達史においては特筆すべき事項であろうかと私は考えております。昭和の初期までは、繭の売買価値は肉眼でしかやっていなかった。ほとんど製糸工場の恣意的判断で繭価が決まっていたわけです。口挽きによるというのは、これが後で合併して竜水社のもとになるわけですが、竜水社が大正時代に初めてこの口挽き法を採用しているわけです。まず口挽き繭を取ってきて、その繭を、2つ、3つに分けて別々の工員に繰糸させる。1人で糸を取っただけでは、そのときの天気や、あるいはその糸を引く女工さんの生理的条件もある。ですから2人あるいは3人で分けて引いて、そして口挽き糸数組を出して、その平均値を算出するということを設定している。これは繭価格算定上画期的なことであります。
 それから、その当時、繭の品質は、等級別にして、品質の異なる繭を混合繰糸するという考え方。近代製糸の考え方をそのまま明治の末期に成立させています。

 飯島さんが年を取ってから書いたものを読みますと、明治31年にどうしても自分で製糸工場をつくりたいということで、識者を公民館に集めて、一緒にやらないかという話をしたんだけれども、目の前で一つの製糸工場が倒産したのを見て、もうとても一緒にはやれないということで賛成を得られなかった。そこで、親類や知人を説き伏せて、7町6カ村の賛成で42名、出資は1口10円だそうですが、1口10円で、42人で組合をつくって、上伊那生糸合資会社を作った。ですから今でも春近地区の人は、「合資」という言葉を口にするのであります。
 そういう形でやったんだけれども、小さな製糸工場の苦しさは初めから出てきた。出発した当初は、大霜がおりて、霜害で桑がやられまして、春の蚕が飼えなくなった。糸を引く繭がなかった。それで困りまして、飯島さんは、自分の田畑、屋敷を全部抵当に入れて、銀行から500万円借りて購繭資金として、繭を買い集めて操業を続けた。柳田国男先生の言う情熱のある方でありました。次の年からは豊作で順調に推移したということが書かれておるわけであります。
 33年に産業組合法が成立をいたします。このときに、私の出身地、上小の丸子でありますけれども、丸子の製糸工場も100ぐらいの小さな製糸工場、企業製糸がありました。日本では再繰しなければいけない。その再繰工程の経費と規模が小さいので、糸の販売で糸問屋からはたたかれ、また購繭資金がなくて繭買いに苦労するというようなことで、下村亀三郎さんとか工藤善助さんがリーダーになって組合を結成するんですね。「依田社」という組合を結成して、これを産業組合に申請して、産業組合として認められたわけであります。
 ところが、飯島さんが県に産業組合を申請したところ、こんな小さい農家の集まりはとても認められないということで県庁からけんもほろろに断られて、なかなか認められなかった。幸いにして農林省から斎藤万吉博士が来県されて、斎藤先生に話をしたら、とんでもない、農家がつくり上げた組合こそ産業組合の基本的な考え方だと激励を受ける。これはおれが仲介するからということで、早速、県庁に行って産業組合に適法であるということが認められて、37年か38年に上伊那生糸販売組合が成立するわけであります。これが本当の組合製糸、農民が出資して生糸生産まで行う真の組合製糸の最初の成立であります。
 同時に、この組合精神は、長野県の農業組合の発足の契機であるわけであります。ですから、長野県の農業組合は、養蚕の組合製糸から発達をしていって現在の農業組合があると言っても過言ではないわけであります。そういう点で、農業発展史においては特筆すべき業績であったわけです。
 それで、飯島さんの考え方に共鳴した人に、山田織太郎さんという方がいた。

 31年に出会って、産業組合が33年で。38年に組合を設立、143人の組合員。これぽっちで発足したわけです。この産業組合が認められ、成果が上がったので、上伊那郡、下伊那郡は、各地に小さな組合が誕生して製糸工場ができるという形になるんです。これではやっぱり生産性が低く、生糸の品質も悪い。また生糸問屋への売り込みも困難だということで、合併をすることが望ましいということで、山田織太郎さんと飯島さんが東奔西走して、各地区の組合長に話して、合同の連合体をつくろうということを提案しました。下伊那も最初は賛同したんですが、最後はなかなか合併に応じられなくて、上伊那だけで決まったわけです。それで、上伊那の有限会社として上伊那生糸販売組合連合会竜水社として、1914年に発足しました。

 飯島さんの考え方に共鳴し、実行したのが山田織太郎さんなんです。この山田織太郎さんは、飯島町の田切というところの出身でありまして、20歳代で村会議員に出て、その才能を買われて31歳で助役になられた方です。農村救済は組合製糸からという信念のもとに、飯島さんと提携して、養蚕農家の協同に力を尽くされました。
 山田さんの実行力というのは大変なもので、合併した次の年には、長野県の組合製糸の責任者を伊那の小学校に全部集めて、組合製糸の発展、購繭資金の解決には連合合併することが望ましいということで、信濃社の結成を決議したわけでありますが、次の年には中央会の結成が認められて、全国組合製糸の連合が決定をいたします。
 そういう経過で、長野県の連合会だけじゃなくて、大日本生糸販売組合連合会(生糸連)の成立ということになったわけであります。
 山田さんは、飯島さんから引き継いだ竜水社の会長、さらに連合会、糸連の理事になられて東京に通われていたようでありますけれども、山田織太郎さんの四男に当たりますか、山田洋三郎さんは、小さいときにはほとんどお父さんとお会いすることがなかった。1週間に一遍ぐらい食事を一緒にしたことがあるかなというぐらい繁忙を極めたパパであったようですが、大変字が上手でありまして、共存共栄といいますか、協同組合の理念を書かれた書が、今も各農家に残されているようであります。さらに、山田織太郎記念碑が、亡くなられた後、田切の山に孔子像とともに現在も建っております。
 こういう形で、組合製糸の基盤をつくったということでありまして、大正の初期、製糸家が繭価を決定していた時代に、竜水社では、生糸を生産する貢献度は、生糸製糸家が24%から25%台、繭生産者の貢献度は74%であるということがはっきりと記されております。これは、戦後になって繭価を製糸家と養蚕農家(団体)の協議決定をしたときの基本が、既に大正初期に竜水社には生かされていた。要するにその基本で利益を農家に配分したわけでありますので、恐らく、企業製糸に繭を買ってもらった人たちに比べると、駒ヶ根の竜水社傘下の養蚕農家の皆さんは、他県他郡の人の繭価よりも2倍から3倍の値段で利益が還元されていたということになるわけであります。これも大変なことでありまして、農村経済の振興に大きな力があったということになるわけであります。

 これは昭和2年(1927)借入金総額借入先別を示した表であります。製糸工場の運営の難しさというのは、春蚕の6月から7月ごろ、それから夏蚕の9月、10月ごろに大量の資金が必要になるんです。繭を買って農家に繭代金を支払う。大変重要な運営の一つの購繭資金をうまくまとめ、その利子を小さくすることが利益の大きな問題である。そのために企業製糸も、銀行傘下に入るということでありますが、その点、山田さんの考え方でいけば、農林中央金庫や糸連のお金を借り入れる。これは利子が非常に低いわけであります。その利子の低いところから全部借りているんです。、そういう借り方をして運営しているわけです。
 一つの組合戦術であるけれども、企業製糸形態の組合であります碓氷社を見ますと、かなり売り込みの問屋からの借り入れが多いんですね。ですからこれは問屋の支配下に置かれるし、利子も高いという形になります。竜水社は売り込み先の問屋の借り入れは非常に低い。そして、糸連や中央金庫や勧銀や労働金庫の利子の低いところからお金を借りる。ここに経営の考え方の基本の考え方が出てきているわけです。
 このように、経営の理念、農業組合としての農村経済の振興という理念のもとに強いリーダーがあってこそ、竜水社が成立したゆえんであります。そういう点では、本当に大変なお仕事をされたわけであります。

 この思想を戦後になって引き受けられた人が北原金平さんであります。この北原金平さんというのは、かなり経営理念の高い方であります。それと同時に、産業組合精神というものをきちんと理解されて、山田織太郎さんの考え方を伝承して、戦後、その思想を経営に実現したと言われていた方が北原金平さんでありまして、経済連でも大きく北原金平さんを評価していたと言われています。その評価がおもしろい。肩書が長くて、非常にすぐれた経営者だと。実に組合の正式の名前というのは非常に長ったらしくて、私もすぐ忘れてしまうような長い名前なんですね。「有限責任上伊那郡生糸信用販売組合竜水社」という名刺に書いても2行、3行になるような名前なんですが、北原金平さんがおられたおかげで、戦後まで、なおかつ伊那谷が蚕糸業の中心地であったゆえんであります。
 同時に、従業員の経済・社会的な地位の向上ということや、理念というか、定時制高校を設置して、従業員を教育しながら経営に専念するという形をとられたようです。

 もうそろそろ時間になりますが、戦後、蚕糸業は、皆さんご承知のとおり、残念ながら蚕糸業という業の名前がなくなるぐらいに衰退してしまいました。戦後の多くの研究者によって、蚕糸業というのは、農学の中でも最も近代的な農業技術体系が成立した分野であります。蚕の研究においても、昆虫学の一分野としては、世界に誇るべき近代科学として体系化してきたわけであります。これが残念ながら経済的な理由からして、絹の質が悪いからとか、企業として役に立たないということでなく、国際的な経済的な理由から蚕糸業が消えていくという残念でならない状況になったわけであります。いわゆる一つの企業形態といいますか、そういうものを背景にしてつくり上げられた学問というものは、一つの産業が消えれば、残念ながら世界に誇るべき学問業績、研究業績があったからといって、これも大学教育から消えざるを得ない運命にあるわけです。
 こういう現状に立たされたわけでありますけれども、蚕糸業は、中国から含めて4,000年、日本でも1,000年以上の歴史を持っている。この伝統的にもすばらしい技術を日本で何とかして残さなければいけない、この思いで私はいっぱいで、シルクミュージアムを引き受けた次第です。特に蚕は4,000年、人間の手にゆだねられて、人間の都合のいいように育成をされてきました。今、生態系の絶滅がどうだ、環境保全がどうだと言われているけれども、蚕は、人間に大きく貢献をしながら、人間の手で変化をさせられた唯一の生物種でもあります。ですから、人間の手から離れたら1週間もたたないうちに絶滅してしまう。そういう危険種でもあるということです。
 そういう点から考えますと、蚕の恩恵、それから長い1,000年にわたる伝統、絹の織糸としてのよさというのは消えないわけでありますし、しかも環境に優しい繊維の一つでもあるわけです。このつくり上げた技術と学問体系を何とかして後世に伝えていかなければいけない。そういう責任が我々にあるんじゃないか。これを一部の地方に依存するようなことでなくて、県なり国なりがもっと責任を持って保存、継続に努力をすべきじゃないか、そんなふうに私は考え、ここにいる皆さんにもご賛同を得られればありがたいと思っております。
 大変つたない話でございました。私の講演を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

司会: ありがとうございました。伊那の蚕糸業の長い歴史を1時間余りでお話しするのはお話し足りない部分もあろうかと思いますけれども、時間となりました。いま一度、先生に盛大な拍手でこたえたいと思います。どうもありがとうございました。
 それでは、これから休憩に入りたいと思いますが、この時計で3時30分まで、約18分ほどでありますけれども、休憩に入り、次の第1部の事例報告会に入りたいと思います。


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