木下研究技術報道官:  どうもありがとうございました。それでは、これから記念講演ならびに基調講演に移らさせていただきますが、講師を引き受けていただきました、財団法人日本特産農産物協会の西尾敏彦理事長様と、市立岡谷蚕糸博物館の嶋崎昭典名誉館長様のお二人の先生方には、公私とも大変お忙しい中快くお引き受けいただきまして誠にありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。それでは始めに、西尾先生から『地域に根付く伝統技術と文化』と題しましてご講演をいただきたいと存じますが、その前に先生の略歴をご紹介させていただきます。先生は、農林水産省農林水産技術会議事務局長等の要職をご歴任された後、社団法人農林水産技術情報協会理事長等を経まして、現在の財団法人日本特産農産物協会理事長の職にございます。西尾先生が、農林水産技術情報協会の理事長をされておられた時、当研究所の北村企画連絡室長に本日開催してございますシルク・ミュージアム・サミットを開催したらどうか、というようなご提案がありまして今回のサミットを開くに至ったと聞いております。先生は、農林水産業におけます研究技術、また研究行政等さまざまな視点からの豊かなご見識ご経験をお持ちですので、本日のご講演は私どもにとりまして貴重なご提言をいただけるものと存じます。それでは西尾先生よろしくお願い致します。


『地域に根付く伝統技術と文化』
ー農業技術と地域の文化ー

農林水産技術情報協会顧問 西尾敏彦

  はじめに ご紹介をいただきました西尾でございます。本日は、このシルク・ミュージアム・サミット2001の基調講演の講師にお招きいただきまして、誠にありがとうございます。大変名誉に思っております。厚く御礼を申し上げたいと思います。  先ほどお話にありましたように、私、農林水産省に長くおりました。もともと蚕糸研究とは関係がなかったのですが、その過程で蚕糸試験場が蚕糸・昆虫農業技術研究所と名前が変わる時の組織改編にも係わり合いを持ちました。以来、蚕糸試験場には大変な興味を持ちまして、今も絹の背広を着まして、もちろんネクタイも絹でございますけれども、そういうふうに絹の愛好家になったわけであります。先ほどもお話がございました蚕糸業が、だんだん廃れているということもございまして、各県の蚕糸試験場というのはだんだん店じまいをしておりまして、国の蚕糸・昆虫農業技術研究所だけが、孤立するような形になってきております。そういう中で本当に蚕糸研究が農家と結びつくためには、ここにいらっしゃる蚕糸に関係する、シルク・ミュージアムに関係するような方々のご意見を聞きながら、またそういう方を1つのキーステーションにするということが大変重要ではないかと考えて、北村室長に提案したわけであります。その機会がこのように早急に、しかもこんなに大勢の方が集まって持てた事を大変嬉しく思っております。ただ、今日私がいただいた課題名は『地域に根付く伝統技術と文化』とこういう大変難しい題でございまして、なかなかこういう立派なお話ができるような気が致しません。ここにいらっしゃる方は、それぞれ博物館に関係する方、ミュージアムに関係する方が多うございます。それからシルクにも関係する方が多いわけであります。なかなかそんな立派な方々を前に、まともなお話はできそうにもございませんので、私が勝手に課題を『農業技術と地域の文化』と変えた次第であります。

 話の大筋 まず、お話の筋立てを申し上げたいと思いますが、今日の私のお話は大きく分けると2つのセクションに分かれます。1つは「田中芳男」についてお話を致したいと思います。もう1つは、「地域における技術開発と村々」というお話をしてまいりたいと思います。
 田中芳男という方を、ここにいらっしゃる皆さんご存知でしょうか。ここは岡谷でございますが、岡谷の町から昔は飯田線の電車で2時間、今は1時間位でたどり着くのでしょうか、飯田と言う町がございます。田中芳男はその飯田の町に生まれた方でございます。ちなみに私もその飯田の出身でございます。田中芳男という方は一言で言えばですね、明治の文明開化の際、西欧から日本に新しい農林水産業−泰西農学と言うのですが−をいち早く取り入れて日本に持ち込んだ先覚者でございまして、現在の日本の農林水産に関する研究・技術というものの全てにこの田中さんが関わっているといって過言でない方でございます。けれども、意外にこれが知られていません。私も大学時代に農学などというものを習いましたけれども、講義の中で田中芳男などという人の名前を聞いたことはありません。ごく最近まで、同じ町に生まれた大先輩でありながら、この田中芳男のことは全く知らなかったわけです。田中芳男は農林水産業の大変な大先輩であると同時に、今日ここに皆さんいらっしゃいますみなさんとも関係深い人でありました。博物館と言いますか、博覧会と言いますか、ミュージアムと言いますか、何と言ってもいいのですけれども、要するに博覧会・博物館の創始者でありまして、上野の国立博物館も動物園も、この田中芳男が創設にかかわっています。言うなれば、これはここにいらっしゃるミュージアム関係者の皆さんにとってのご先祖様と言いますか、大先覚者でありますので、その田中芳男についてのお話を最初にさせていただきます。
 2番目には、この頃私は農業関係の色々な技術についての歴史をたどることを楽しみにしてあちこちと歩いております。言うなれば、農業技術考古学といったようなものでありまして、いろいろな刊行物に書いたりなどしているのですが、日本中のあちこちを歩きますと、その村々に色々な技術があります。稲の「コシヒカリ」を作った人の話、りんごの「ふじ」を作った人の話、色々あるわけでありますが、そういう所へ行きますと必ず、それに関連した博物館があります。博物館と言えないまでも資料館と言う程度のものがあるわけですが、そういう所に何べんかおじゃましました。お話しの2番目には、そうした所で感じたことなどをお話したいと思います。  そして最後に、そんなお話を通じたまとめとして、何か少し農村に期待する、農村文化に期待するというようなお話が出来ればと思っております。

 田中芳男について それではまず、田中芳男の話でありますが、まず田中芳男は飯田の出身だと先ほど申し上げました。飯田は大変な田舎でございますが、その田舎から名古屋に出て行きまして、伊藤圭介に師事しました。伊藤圭介をご存知でしょうか。本草学者で、東京大学の最初の植物の先生になった方ですが、その方に弟子入りをいたします。そしてその後、その伊藤圭介とともに江戸へ出てまいりまして、幕府の蕃書調所という所に出仕いたしました。蕃書調所の所長さんは当時は勝麟太郎、勝海舟さんなのですが、そこに入ったという所から田中は新たな世界に踏み出します。近代生物学の世界に踏み出すわけであります。当時日本中の秀才が皆、蕃書調所、後に洋書調所に変わっていくわけですが、そこに入るわけですが、優秀な人がいっぱい集まっているわけです。田舎から出てきた田中芳男は、ここで彼の本草学の知識を生かし、農林水産業に関係することを手掛けました。大きな藩から来た人達はもっとお金の儲かりそうな分野、軍事だとか、工業に関係するものを勉強したものですが、田中は農業に関係する学問を勉強したわけです。そして後に大学南校、これは東大のことですが、大学南校の教授になります。明治7年に内務省勧業寮内藤新宿試験場、今の新宿御苑にありました農事試験場に勤務いたします。日本での最初の農事試験場がこの新宿御苑にあった試験場でありまして、ここにいて稲・麦・その他農作物の栽培を手掛けます。ちなみに、そこには養蚕関係の方は皆さんご存知でしょうけれども、蚕のほうで有名な?蛆(きょうそ)病の研究をされた佐々木長淳も同じ時期にいました。田中はそこで「農事修学場上請文」というのを書いています。内容を読みますと、日本の農業は今までは経験によってやってきたけれども、経験だけではだめである、ヨーロッパのサイエンスを導入しなければいけない、そのために農事修学場が必要であるということでありまして、これは後の駒場農学校、更に後の東京大学農学部を設立するための趣旨書であります。これが言うなれば、以来100何年間の日本の農業関係の研究、なにも東大だけでなく、すべての農業研究の国是になった文書であります。さらに明治8年から田中は、駒場農学校の設立に関係いたします。東京大学農学部は昔は目黒区駒場にあったのですが、この場所を選定したの時にも、田中は関係しています。更に進んで農商務省の初代の農務局長に就任をしています。農林水産省の技術屋出身の初代の農務局長ですが、さらに退職後は、今でもあります大日本農会・大日本蚕糸会・大日本山林会、大日本水産会の幹事長だとか、副会長だとか、会長というのを歴任されます。つまり、日本の農林水産業、当時養蚕だけは何故か別立てでしたけれども、農林水産業のすべての分野の創設者となられた方であります。もうひとつ田中の業績を紹介しますと、「田中ビワ」というビワの品種をご存知でしょうか。名前は知らなくても皆さん食べていらっしゃる筈です。というのは、現在の日本のびわの半分は、この「田中ビワ」であります。この品種も、田中が品種改良をしてつくったものであります。最後は貴族院議員にまでなられた方であります。

 今までは農林水産分野のサイエンスに関係した田中の話ですが、次は博物学者、博物館創始者・先覚者としての田中さんの話であります。先ほどお話しましたように、田中は蕃書調所におりました。丁度慶応3年に、パリで万博が始まります。世界で最初の万博がパリで開催されたわけですが、その時に日本からも代表を初めて送りこみます。パリに幕府と、島津の両方が出品したという有名な話があります。会場で芸者さんがお茶を入れたという話もありますが、その時にこの田中は、芸者さんや軽業師と一緒にパリへ渡るわけであります。当時まだ大変な下っ端でありましたから、有名な使節団と一緒に行ったのではなくその前に小さな船に乗って行くわけですが、彼は行く時に日本の昆虫採集の標本を持って行くわけであります。日本で最初に昆虫採集、捕虫網を持って昆虫採集をしたという人はこの田中さんと言う方であります。それ以来彼は博物館屋になるわけであります。万博屋になるわけでありまして、パリからウィーンからフィラデルフィアと、色々な万博に次々に彼は出張を命ぜられて行きます。同時に、ただ万博に出張しただけではなく、国内で「物産会」や「内国勧業博覧会」を開催いたします。最初の明治5年、これは九段でやったものでありますが、日本の国立博物館の創始はこの明治5年の物産会と言われております。その時に、田中芳男も関係しておりまして、中心になって色々向こうから持ってきたものを陳列いたしました。これは言わば非定期的な博物館でありますが、常設の博覧会、つまり博物館を作ることが必要であると、彼はその時に痛切に感じて、博物館を作ろうと努力致します。そこで彼が貴族院議員になった明治29年に、国会に「国立博物館」の設立発議を致しております。その時の発議には、国立博物館を二重橋の前へ作るべきであるなどという話が出てまいります。国立博物館はその後、上野にできたわけでありますが、田中はそんなことも申しております。丁度今ご覧いただいている田中の肖像画でございますけれども、これは国立科学博物館にあるものでありまして、国立博物館の会議室にあります。会議室には国立博物館の初代から歴代の館長の写真が並べてあるようですが、初代の写真の前に、国立博物館の創設者としての田中さんの写真が掲げられております。ここにいらっしゃるミュージアム関係の皆さんの大先輩ということになるわけであります。  同時に、田中芳男が盛んにやったことのもう一つは「共進会」の開催でした。単なる博物館ではなくて、農産物でありますとか、色々な製品ですね、何も農産物に限らない工業製品もそうなのですが、そういうものを出品する共進会というのを地方々々で開催をしております。色々な博覧会があるのですが、これは第1回の勧業博覧会の錦絵としてよく伝わっているものであります。当時の博覧会は、ただ物を並べただけではございません。同時に、「農談会」というのを開催しております。ただ人が来て集まって来て見るだけではなくて、色々な人が集まって論議をする場であったわけでありました。農談会には日本中から老農、老農と言うのは年を取った農家と言う意味だけではありませんで、つまり篤農家、農業のベテランという意味でありますが、老農を100名以上集めまして、それに学者も加わって論議をする、さらには色々な品種を持ち寄る、集める、それから物品を並べるということを致しております。農談会の流れ今も実は脈々と繋がっております。当時は農談会を、中央だけではなく地方地方でやったわけでありますが、今でもただ1つ残っている農談会がございます。秋田県に「種苗交換会」が今でも続いているはずでありますが、それがこの農談会の流れを汲むものであります。つまり田中は博覧会というものを単なる見せ物の場だけでなく、そのようにとらえていたということであります。

 多分、この考え方の延長なのでしょうが、さらに田中は単なる博覧会だけではなく、日本に「産業博物館」を作りたいと思っておりました。伊勢神宮に「神宮農業博物館」がありますが、これが田中が作った日本最古の産業博物館で、今でも田中が作ったそのままございます。中には2万点に及ぶ農機具であり、色々な農業水産の標本であり、絵などが陳列されております。その中の2千点、つまり1割は田中自身が提供した物だと言われております。シルク・ミュージアムも産業博物館の流れを汲むものでしょうから、そのはしりみたいなものが、この田中芳男が作った神宮博物館でございます。いらっしゃる機会がありましたら、ご覧になるといいのではないか。

 次はですね、田中が産業博物館を作った目的は、殖産、今で言うと地域作りと言いますか、地域おこしでありますけれども、殖産ということを大変大事にしました。今の画像情報、ホームページになるわけですが、この画像情報をこういう大きな掛け軸を作って展示し、あちこちに配っております。これは先ほどの神宮博物館に残っている掛け軸の一例です。これが5〜60枚あるわけですけども、その中の蚕に関係するのを1枚、お見せします。これは蚕の飼い方の絵です。当時の一番進んだ蚕の飼い方の掛け軸を作って博物館に飾って、そして農家にも配って、この飼い方でやってもらうように薦めたわけであります。生糸の織り方についての絵もあります。多分日本中の養蚕をやっていた地域、地域には全部これが配られていたわけでありますけれども、今どの程度残っているでしょうか。少なくとも伊勢神宮にはこれは今でも残っております。

 次は、そういう村おこし、殖産をやるためにはどうしてもキーテクノロジーと言うのがいるわけですね。ただ頑張れ、頑張れと言ってもどうしようもないわけで、何か新しい技術がないとなかなか皆さん元気が出ない。そこで田中は色々なキーテクノロジーを海外から日本の農村に持込みました。先ほども申し上げました蕃書調所にいた時に、キャベツ・白菜・チューリップを日本に導入している。白菜などというものは、毎日食べておりますから大昔からあったのだろうと思うでしょうけれども、実はあれは幕末から明治にかけて入ってきた食べ物であります。キャベツももちろんでありまして、チューリップなどもそうであります。日本で最初に、キャベツを栽培し、白菜を栽培したのは、ほかならぬ田中芳男でありました。またりんごですけども、これも昔から私どもはりんごを食べていると思っているでしょうが大間違いでして、今私どもが食べているあのりんごは、明治になってきて入ったものであります。その前はこんなちっぽけな「和りんご」というものがあって、えらい酸っぱいものでありますが、そういうものを食べていたわけであります。明治になって入ってきたりんごを、日本中に広めたのもこの田中芳男であります。彼は東北に足を運び、りんご栽培を奨励して歩きました。青森や秋田に行きますと、今でもあちらこちらに田中さんの書いた書がございます。その他オリーブでありますとか、あまり成功しませんでしたけれどもコルクの木、コーヒーの木、これは小笠原に持込んでいるのですが、こういうものも持込んでおります。作物だけでなく、ホロホロ鳥なども持込んでおります。また何も農業だけではなくて、水産の世界まで手を伸ばしておりまして、鮭・鱒の養殖とか、真珠でありますとか、こういうものも彼が導入に関係しています。先ほどもお話ししましたが、サイエンスの導入はもちろん、博物館の創設、殖産興業つまり地域おこし、と言うのが彼の頭の中では1つのものにまとまっていて、それを全てやるということが日本のためであると彼は考えていたのではないかと思います。

 農業技術、村おこし、そしてミュージアム ここで話題を変えます。次は私が見て歩いて感激したり、面白かったなと思う博物館のお話をいくつか致します。後ほどまた嶋崎先生のほうからシルク・養蚕がらみのお話はあると思いますし、私はそっちの方では全くの素人でございますので、養蚕については省かせていただきます。農業の世界で、私が面白かったなと思う博物館、博物館とは言えない資料館、テーマパークのようなものもありますが、そんなものをご紹介申し上げたいと思います。
 最初はお米のお話から始めたいと思います。水稲農林1号という品種があります。もう大昔になりましたが、昭和6年に世に出た品種がございます。今、稲の品種にはコシヒカリとかササニシキとかのニックネームがついておりますけれども、実はあの名前の裏にですね、もう1つ名前がございます。登録の名前でありまして、コシヒカリは農林100号と言う名前が登録名であります。今出ている1番新しい品種は、多分水稲農林200何号とこういう名前でしょう。その最初の水稲農林1号を育成した方は並河成資と言うので、新潟農試の方でした。農林1号は大変おいしい米でありました。今でこそ新潟のコシヒカリはおいしいおいしいと皆さん言いますけれども、昔は新潟と言うのは晩稲の米しか作れない所でありまして、お米はあまりおいしくなかったものです。けれども、彼が早稲の大変おいしい早場米用のお米、農林1号を作ることによって、以後新潟米の地位が上ったわけであります。現在のコシヒカリとかササニシキと言う品種はみなこの農林1号につながる品種であります。そういう方でしたので、並河さんは大変有名な方であります。お年寄りの方はご存知かもしれません。戦後食糧危機の時代に、腹を減らした国民にとって新潟からの早場米は随分頼りにされたものです。そこで、その後世の中が少し落ち着きますと、この並河さんを顕彰しようと言う話が出ます。全国から1000万人からの基金が集まりまして、左にあります銅像を新潟県の試験場に作りまして、大変な顕彰をしました。今ではびっくりですが、並河さんの浪花節までできました。日本の農林関係の技術者がこれほど高く顕彰された方はほかにはいないでしょうね。今の言葉で言えば、国民的英雄のように評価されたのはこの人だけではないかと思います。

 でもここでは、私は別にこの並河さんの話をしたいわけではありません。並河さんの影になったもう一人の人の話をしたいのであります。その人は鉢蝋清香、キヨカと読むらしいですが、と言う方がおります。並河さんの下にいて、実質的な農林1号づくりを手がけた方であります。この方のことは意外に稲の研究者も皆知らないようです。農林1号を作ったのは並河さんだと皆言っているのですが、実はその下でこの鉢蝋さんが並河さんを助けて作ったというのが真相であります。先ほど言い忘れましたが、並河さんは不幸なことに、品種が有名になる前に自殺して亡くなってしまっています。並河さんは昭和14年ころ亡くなられた悲劇的な方でありますが、この鉢蝋さんも大変悲劇的な方でありまして、ほとんど偶然ですが同じ年に結核で亡くなっています。つまり農林1号を作った2人の方は、大変非業の死を遂げているわけでありますが、並河さんのほうはともかく、浪花節にもなるほど有名だからいいのですが、鉢蝋さんについては余り知られていません。ところが、鉢蝋さんの顕彰をしっかりとやっている資料館があるのです。鉢蝋さんの出身地の富山県の平村であります。五箇山という地方をご存知でしょうか。飛騨の白川村とつながる合掌造りの大きな家があるちほうです。あの文化圏で、富山県の1番の奥座敷に平村と言う村がございます。丁度今ごろですと雪が2m位積もるような所でありますが、その平村に郷土資料館がございまして、そこに鉢蝋さんを称える銅像が建っているのです。もちろん館内には鉢蝋さんに関する資料が並んでいます。日本中の農業研究者も知らない、皆忘れている鉢蝋さんをこの平村は今でも称えている。私は大変感激を致しました。何年か前には鉢蝋さんに関する特別展示会を3週間ほど開いています。農業の技術は地味ですが、その中でも本当に地味な方、しかも忘れられたような方を称える博物館がある、資料館があるということに大変感激を致しました。

 同じようなことは実はここの鉢蝋さんだけではなく、あちこちにございます。千葉県の松戸は皆さんご存知の梨の「二十世紀」の発祥の地でありまして、あれは地元の松戸覚之助と言う人が育成いたしました。松戸市博物館が平成2年ころ7週間ですから、つまり二ヶ月にわたって松戸覚之助と二十世紀の特別展示会というのを開催しております。大勢の人が集まったそうでありますけれども、そういうことをやってくださる、そういうふうにその土地の人を称えてくださる、しかも農業に関してそういうことをやってくださるというのに、大変私は喜びを感じたわけであります。
 次は、養蚕と共に日本の産業を支えたお茶の話であります。お茶と言うのは日本中で実に色々な栽培をされております。でも日本中のお茶の大部分が今でも、「やぶきた」と言う品種を使っております。皆さん飲んでいるお茶は、いつでもみな「やぶきた」であると言ってほとんど間違いはない。全国茶園の71%はやぶきたであると書きましたけれども、これは全茶園でありまして、お茶は昔からそのまんま自然に生えているお茶もあります。そういうものを入れて71%でありまして、そういうものを除いた栽培ではもう9割が「やぶきた」を植えているというわけであります。この「やぶきた」を育成したのが杉山彦三郎と言う方でございますけれども、この杉山さんの「やぶきた」の原樹が今でも静岡県の草薙の駅近くの道筋に植えてあります。昭和の始めに品種が世に出ていますから、この木が芽ぶいたのは明治の時代でしょう。もう100年にも達するこういう老木でありまして、それこそこの部屋の半分くらいもある大きなお茶の木になっております。こういう木を今でも守って杉山を称えているのはうれしいことです。そこで博物館についてですが、あちこちに茶に関する博物館、テーマパークと称するものがございます。特に杉山さんの出身地に近い牧ノ原の台地には立派なテーマパークがありまして、これは金谷町にあるお茶の里というテーマパークであります。館内には色々な日本中のお茶の品種、さらにはまた世界の色々なお茶の試飲コーナーなどがあります。又、開拓当時の牧の原の情景などの写真もございます。さきほど企画連絡室長から全国のシルク・ミュージアムの話がございましたが、お茶に関してもこういう全国分布をしております。日本茶業中央会の調べですが、全部あわせますと57、お茶のテーマパーク・博物館の数であります。所在地はやはり有名な茶産地が多いですね。嬉野茶の佐賀県でありますとか、宇治茶の京都でありますとか、八女茶の福岡ですとか、こうした県がそれぞれ多いわけですが、特に静岡県が群を抜いて多いのをご覧いただけると思います。それぞれのお茶の産地には、それぞれ技術者がいるわけでありますけれども、特に優れた産地で活力のある所に、立派な茶園ができる。そしてテーマパーク・博物館ができていく。逆にいえば杉山彦三郎さんのような方がいらっしゃったからこそ、静岡県には今でもこういう沢山のテーマパークがあるのではないでしょうか。いさいさかこじつけかもしれませんが、私にはそんな気がいたします。産地と、それから技術開発と、その町に文化ができることというのは、相互にリンクしているのではないかという感じが、この地図をみながらするわけであります。

 次はやはり産地と結びついた古い伝統文化として「おいも」の話を致します。川越いもは今も有名でありますが、江戸時代から川越のいもは大変有名でした。埼玉県はさつまいもの産地として有名ですが、江戸時代からさつまいもはございまして、お江戸へ盛んに積み出していました。当時のお江戸の街角には焼き芋屋があったということでありまして、今で言うとちょうどスナックと言いますか、ファーストフード店やセブンイレブンなどがいっぱいあるのと同じように、昔はさつま芋屋さんがあったのだそうです。そこでそのさつまいも産地に、やはりさつまいもの農業技術が生まれます。「紅赤」と言うさつまいも品種をご存じですか。別名を「金時いも」といいます。もうさすがにこの頃は無くなりましたけれども、大変おいしい芋でした。「紅赤」は浦和の農家山田いちさんが作ったものであります。それまでのさつまいもの主力は「八房」という品種であったのですが、紅赤はこの八房の枝変わり(突然変異)から発見されたものであります。最近のさつまいもは、紅小町とか、紅あづま、紅何とかとか、と言う品種名がついています。皆、この紅赤の子孫になるわけであります。ここからが博物館に関係する話ですが、つい数年前に、「紅赤発見100年を祝う会」という集いがありました。この祝う会をやったのは、実は日本芋類研究会と言う名前の、おいもの資料館であります。川越にあります私立の資料館でありまして、さつま芋のエブリシングに関する館であります。小さな資料館でありますけれども、井上さんと言う大変熱心な方が館長をやって、品種でありますとか、芋に関する歴史でありますとか、果ては焼き芋屋の昔のセットまで、集めてあります。横にさつま芋づくしの料理を食べさせる店でありまして、ご婦人方が盛んに来店します。実はこの資料館は、さつまいも専門のお料理を食べさせてくれる「いも膳」さんという料理屋さんが作ったものでありますが、ただ単なる資料館だけではなくて、先ほども言いましたように、紅赤100年を祝う会ということまでやってくださる。こういうことで地域の農業技術と言いますか、農業の振興に役に立つ、そういうことをやってくださっています。

 ここまでは主要作物ですが、これから後は、マイナーな農作物が対象になります。和歌山県の田辺市の近く、南部川村の特産に「南高梅」というこんなに大きな粒の梅があります。たぶん皆さん梅干で食べたり、梅酒で飲んだりしていらっしゃるでしょうが、これは南部川村の農家が作り上げた品種であります。JAの発案で農家が集まって、村中の梅の木の中から良いのはないかと探したあげくに見つけたという品種であります。もともと南部川は大昔からの梅の産地でした。田辺には500年前の梅干が今でも残っているということですが、そういう梅の伝統をもっている。まさに伝統文化の中に育った梅産地でありますが、そういう環境の中で梅の良い品種を作りたいと農家の熱意がこの品種を生み出しました。「南高」という品種名は南部川町に南部川高校という高等学校がありまして、そこの生徒たちがこの選抜に深く関係したというので、南高と言う名前がつきました。南部川村には梅振興館があります。梅に関するミュージアムでありまして、単なる展示だけではなくて、梅の加工品、新しい製品をつくるため研究センターまで持っている。良い品種を作り、さらに新たな技術開発をして、良い村おこしをしようと結びついている例でございます。

 今までどちらかと言うと、長い伝統文化の上に生まれたもののお話しをしましたが、新しい農村文化を作っていこうという試みもないわけではありません。たとえば、富山県の砺波のチューリップであります。大正12年に、砺波の農家水野豊造さんが、たまたま先進地の新潟県からチューリップの種を持込んで、栽培を始めます。自分でも品種改良を試みる一方、また周りの農家と協力して、一大チューリップ産地を富山平野に作ります。昭和13年にはやっと海外にまで出荷をする段階にこぎ着けます。当時のチューリップの買い手の大手は日本人ではありませんで、アメリカへみんな輸出したわけでありますが、いよいよ輸出しようという段階になって、太平洋戦争が勃発いたします。これで富山のチューリップは壊滅的な打撃をこうむるわけですが、そんなことでは屈しません。戦争中も、富山のチューリップ農家は種根を大事に自分の庭に植えて持続をいたします。戦争の厳しい時代が続いたわけでありますが、その間も彼らはその種を絶やさず、仲間で分けて品種を持ち堪え戦後またチューリップを再生させたことに成功しました。現在は栽培面積25000ヘクタールということでございまして、ちょうど5月の連休のころに砺波チューリップフェアーというのを開催いたします。フェアーには、県外からも大勢の人が集まりますが、ここにもやはりミュージアムがございます。名前をチューリップ色彩館といいます。館内には、世界のあらゆる種類のチューリップの写真などが飾ってあるわけですが、ほかにもチューリップに関する資料がずらっと並んでいるわけです。その一角に、農具の展示コーナーというのもございます。大正から昭和にかけて農家が自分で工夫して作った農具であります。チューリップを栽培するときに当然オランダ辺りから向こうの技術を導入したわけでありますけれども、向こうの農具という物はとても日本人には使いこなせない。そこで、日本の農家が、自分たちが使う機械・道具を、自分で工夫して作っているのです。つまり、チューリップひとつので、今日40万という人が集まるほどの産業に仕上げた陰に、こうした地元の人の苦労があったのです。そして、その苦労を今こうして展示して顕彰してくれる博物館があるということに、私は大変意味があるのではないかと思うわけであります。

 最後になりましたけれども、これもやはり新しい産業・村おこしの例であります。奈良県は柿の産地であります。奈良県に「刀根早生」と言う柿の品種があります。最近は大変な勢いで伸びております。今一番普及しているのは、「富有」でしょうか。その次が「平核なし」でありまして、3番目がこの刀根早生ですが、平核なしを抜かんばかりの勢いで伸びています。これは刀根さんと言う、天理市の農家が作った品種であります。奈良県では大変柿の振興に力をいれてまして、奈良県の西吉野村に柿の博物館、柿とそっくりな格好をされた博物館があります。こうした環境が、農家に新しい品種をつくらせることにつながったのでしょう。

 前半の方ではそれぞれ古い伝統の中に育った博物館と、それと結びついた技術というのを紹介いたしました。後半の南高梅と刀根早生柿は進行中の話でありますが、いずれにしても、博物館と技術・村おこしがリンクして発展しつつあることをお話したつもりであります。

 シルク・ミュージアムへの期待 そろそろ結論にいきたいと思います。最初に、田中芳男のお話を致しました。田中芳男が第1にサイエンスと言いますか、農業技術と言いますか、色々な技術のブレークスルーと、それから第2に村づくし、殖産興業ということと、そして第3に博物館というものと、3つを大変重視してきたという話を致しました。ここにいらっしゃるのは皆さんミュージアムの専門家でございますけれども、最後に素人の私が見たミュージアムのあり方について少し述べておきましょう。やはり1つは地域に結びつくということではないでしょうか。先ほど蚕糸・昆虫農業技術研究所の所長も申しましたけれども、そういう地域の環境を生かしながらさらには地域文化の創造に結びつくと言うことが必要ではないでしょうか。そしてそれにやはり、キーテクノロジーとしての技術が絡むと言うことが是非必要です。この3つがリンクしてぐるぐると回るときに、また回させることによって、ミュージアムの存在意味が輝いてくるのではないかと、私は思っております。地域と文化と技術、この3つを基本に、ご参加の皆様方がシルクに関する色々な村おこし、文化の創造、技術作りにご活躍をいただくことを期待いたしたいと思います。

 ちょっと話が飛びますけれども、戦後の農業技術には3つの段階があったと思います。最初は、お腹がすいていた時代で、保温折衷苗代とか、品種の藤坂5号とか、増産に熱中した時代があります。次は所謂選択的拡大の時代、りんごで言いますと「ふじ」が出てくる時代、野菜栽培で言いますと集約栽培が出てくる時代、畜産で言いますと人工授精の時代がありまして、今は第3の段階にきているように思います。第2の段階までは右肩上がりの時代でありましたが、第3の時代というのはどうもそうはいきません。第3の時代にがんばっているのは、先ほどお話いたしました南高梅とか、刀根早生の柿とか、そういう地域地域の中の個性派の農業であります。これからの農業は、全国シェアのオールジャパン型よりは、やはり地域地域の個性型の農業に重きが置かれるのではないでしょうか。間違いなくその一つがシルクであると私は思っています。そんな意味でもシルクを手掛けていらっしゃる方はがんばっていただきたいと思います。  私はここ5〜6年、農林水産祭の天皇杯の蚕糸地域特産部会の座長をやっております。座長をやったおかげで毎年皇居に参上して、天皇・皇后両陛下の前で今年の受賞者についてお話しするという機会に恵まれます。行く度に、皇后さんから蚕のお話があります。皇后さまは私より蚕に関してよほどご造詣が深いのですが、こんなお言葉がありました。皇后さまが村々にいらっしゃると、村のお年寄りのご婦人が繭を持ってきて、この繭は私の人生そのものだった、その養蚕が近頃元気がないのは大変寂しい、と訴えるそうです。皇后さまはこういうお話しをなさって、みなさん養蚕のためにがんばってくださいとお言葉をかけてくださるのです。どうかひとつここにいらっしゃる皆さんも、その皇后さんのお言葉をたいして、がんばっていっていただけるとありがたいと思います。本日はどうもありがとうございました。