(群馬県安中市)

群馬県指定重要文化財
旧碓氷社本社事務所

住所: 安中市原市2丁目10番16号

案 内: 国道18号線を安中市役所から磯部温泉の方にしばらく行くと、スーパがあり、その駐車場の隅に、ひっそりと建っています。「この旧碓氷社事務所は、明治38年(1905年)に建てられました。大きさは、桁行10間・梁間6間、木造瓦葺入母屋造りの二階建てです。建物の意匠は基本的には和風ですが、小屋組・軸組に洋風の構造をもち、窓ガラスにはフランス製と思われる板ガラスを用いるなど洋風の材料・技術を大胆に採用しています。その後もほとんど改造が加えられておらず、創建当時の姿を今日まで伝えています。明治時代に建てられた「近代和風」の代表的な建物であり、また、当時の群馬県の組合製糸業の発展・興隆を示す歴史的遺産として貴重な建物です」(群馬県教育委員会・安中市教育委員会による案内板による)。

その他の情報: 2000年の11月28日から2001年の3月14日まで、「世紀をつなぐ−繭の記憶−」という題で上毛新聞に3部構成で全30回連載された記事があります。群馬の各地の関係者をルポし、その発言をまとめた形をとっています。その中に、「碓氷社」の事を書いた回があります。
 第一部「夢」−6−「碓氷社」
 一枚の肖像画がある。細面の穏やかな表情と強い光をたたえた目が印象的だ。明治、大正期の洋画壇で活躍した安中市出身の湯浅一郎が描いた「萩原鐐太郎」。湯浅は新島襄ら著名な人物を描いているが、新島ほど有名ではない萩原を、なぜ取り上げたのだろうか。そんな疑問は県立歴史博物館で近世史を担当する松浦利隆さん(43)の言葉で解けた。「蚕糸業界にあって、群馬の近代化に貢献した第一級の人物だった」
 萩原鐐太郎(1843〜1916年)は東上磯部(現安中市)の豪農で、1878(明治11)年に「わが国の代表的な製糸組合」といわれた碓氷社を創立した。この時期、幕末の横浜港の開港以降、生糸の輸出量が急増、それが粗製乱造につながり、輸出先の信用を落とし、糸の値段は下がった。糸を生産する農家は収入を減らし、苦境に陥っていく中で、農家を「組合員」としてまとめたのが碓氷社である。
 碓氷社に参加した農家は、女性たちが、江戸時代から伝わる座繰(さぐ)りで生糸を生産していた。しかし、太かったり、細かったりしたため、単独では大きな収入につながらなかった。碓氷社はたくさんの農家をまとめることで、多種類の糸を大量に集め、それらを均一の品質に分類し、海外の織物業者のニーズにこたえるシステムをつくり上げた。良質の生糸を生産する碓氷社の信用は高まり、生糸は高い価格で取引された。こうして生み出された利益は農家に分配され、地域を豊かにさせていった。
 碓氷社で働いた女性たちに聞き取り調査をしたことのある郷土史研究家、淡路博和さん(66)=安中市安中=は「働いている女性は社員の妻や娘など身内ばかり。だれもが碓氷社で働くことを誇りにしていましたね」と指摘する。その答えは、昭和の初めに発行された「碓氷社五十年史」の萩原鐐太郎の創業の言葉にあった。「吾が碓氷社の組織は即ち此の一家団欒(だんらん)ということに最も重きを置き…」。言葉の裏には、同じ時期に長野県などで発達した器械製糸への批判かある。大きな工場を作り、農家の子女をたくさん集め、長時間の労働を強いていることを、萩原は「今や文明の余勢は此の尊むべき一家団欒の一部を破壊しつつある」と指摘しているのである。
 それは、県議、碓氷郡長を経て衆議院議員にまでなった萩原の思考が、常に地域の一戸一戸の農家に向いていたことを示している。「一家団欒」のうちに生活水準を上げること、それこそが、碓氷社が目指した近代化であったのだ。
 碓氷社は太平洋戦争時に発展的に解消した。その地盤は終戦直後、グンサンに引き継がれた。グンサンは60年代前半の最盛期に県内に直営5工場を持ち、従業員1千人、年間1万俵(1俵60キロ)の生糸を生産し、戦後の蚕糸県・群馬をリードした。しかし、安い輸入生糸が入り、生糸の価格は低迷、事業の縮小、後退が続き、98年6月には、主力の生糸生産部門の操業停止に追い込まれた。
 それから2年たった今年10月31日。グンサンは会社解散を正式に決めた。碓氷社から続いた122年の歴史は幕を閉じた。昨年3月まで常務として会社存続に奔走した庭野義智さん(65)=安中市磯部=は「時代の流れ。仕方ないことだが、名前だけは消したくなかった」と静かに目を伏せた。
 これで県内に残る製糸工場は碓氷製糸農業協同組合(松井田町)と吉野組製糸所(渋川市)の2つ、全国でも7社しかなくなった。数多くの製糸工場が競った時代の花形産業はいま見る影もない。


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