(長野県丸子町)

丸子町郷土博物館

住所:長野県小県郡丸子町大字東内2564-1(〒386-0413)

開館時間/休館日:9:00〜17:00/毎週火曜の午後と水曜日、祝日、年末年始(12月29日〜1月3日)

入場料:大人 100円、子供(小・中学生)50円

案 内:丸子町郷土博物館は、町制施行70周年を記念して昭和57年に旧東内小学校跡地に建物が建てられ、翌58年11月に開館しています。建物は、近代器械製糸業が盛んだった昭和3年に落成した旧役場庁舎のイメージを取り入れて造られています。
 1階の第1展示室は、考古を中心とする依田窪地方の歴史を展示するコーナー、2階の第2展示室は、丸子の近代器械製糸の盛衰を紹介するコーナーになっています。2階では、製糸業の盛衰を、製糸業発展の基盤・初期の製糸業・全盛期の製糸業・生糸のできるまで・製糸労働者・製糸業の衰退と現在の丸子町、の各項目にわけて展示されています。

 

 丸子町の製糸業の歴史について、以下に展示説明を引用して紹介します。
製糸業発展の基盤:ながい封建時代も終わり明治時代にはいると、生糸は日本の重要な輸出品となりました。信濃国は、江戸時代から養蚕業が盛んでした。ことに上田・小県地方は、明暦元年(1655)ごろ、丸子町依田川沿岸数十ヘクタールが桑畑に開拓されてから最も早く蚕糸業が発達し、良質な蚕種が生産され、天保年間(1840ごろ)には、本場奥州をしのぐほどになりました。明治初期には、この地方の生糸生産高は長野県全体の約半分を占め、生糸の一大産地となりました。江戸時代までの製糸は、農家の副業として行われました。桑の栽培から蚕の飼育・糸とりまでのすべてをしていましたが、生糸の需要が増えてきたので、丸子にも「座繰」による家内工業的な製糸工場を営む者があらわれてきました。しかし、このことが明治政府のすすめで西欧から導入された「洋式器械製糸」がスムーズにこの地方にはいらない原因ともなりました」
初期の製糸業:長野県における洋式器械製糸工場は、明治5年上諏訪(現:諏訪市)にできた深山田製糸場に始まります。丸子では、明治22年下村亀三郎らを中心に創設された製糸工場が最初です。しかし、この工場は小規模で一工場の生糸だけでは一定量の「荷口」(荷の量)をまとめることができず、商取引では不利でした。そこで明治23年、岡谷の例にならい、共同販売のための「依田社」が設立されました。また、品質を同じようにし、このころの主要な輸出先であったアメリカ市場に有利に出荷するため、いくつもの小規模な工場の生糸を共同で揚返しをする再繰場が依田社内に設けられました。その後、製品検査の共同化、繭の共同購入など、効率のよい経営をするとともに、軽便鉄道をしいたり、病院を建てたりしました。明治41年には依田社と同様の働きをもつ「旭社」も設立されています」
全盛期の製糸業:20世紀にはいり機械織物工業が非常に発達したアメリカでは、安くて質のよい絹糸を大量に必要としたので、その条件にあった日本の生糸の輸出は、明治40年ごろから急に増加しました。そして、アメリカの絹工業の高度化とともに、日本の製糸業の機械化を進められました。丸子では、「依田社」「旭社」を中心に近代化が進められますが、ことに「依田社」は二代目工藤善助社長就任後、より一層の技術・検査の向上、機械化が進められ、依田社式の繰糸鍋や煮繭機などが開発されたほか、アメリカへの生糸の輸出も積極的に進められました。こうして丸子の製糸業は全盛期を迎え、人口増加により町制が施行されたほか、文化・産業・経済の機関や施設が急速にととのえられ、丸子町は上田市とならぶこの地方の中心として栄えました」
製糸業の衰退と現在の丸子町:昭和4年、ニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに始まった世界恐慌は、全面的にアメリカ市場に依存する日本製糸業に大きな打撃を与えました。ことに、丸子町の製糸業は、当初からアメリカ向けの生産にあたっていたので、工場の倒産・賃金の不払いなどが続出しました。また、この地方は養蚕農家が多く、地域全体が製糸に密接に関係していたため、その影響は大変大きく、社会不安を引き起こしました。こうした中で、国の指導による合理化、再編成が進み、工場数・釜数とも減りますが、太平洋戦争が始まると、製糸工場は軍需工場に転用され、生糸の町といわれた丸子の製糸工場は、ほとんど姿を消してしまいました。終戦後、岡谷などでは、疎開していたかつての軍需工場がもととなり、新しい工業地帯に変わりましたが、丸子では、絹糸紡績を除いては、かつての製糸工場は全く利用されず、新たな工場が入ってきて、軽工業の町へと変わっていきました」

その他の情報:Tel 0268-42-2158


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