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情報:農業と環境 No.82 (2007.2)
独立行政法人農業環境技術研究所

本の紹介 222: 硝酸塩は本当に危険か −崩れた有害仮説と真実 、 J. リロンデル、J-L. リロンデル 著、 越野正義 訳、 農山漁村文化協会 (2006) ISBN978-4-540-06301-5 

わが国の水道飲料水中の硝酸性窒素 (NO −N) および亜硝酸性窒素 (NO −N) は10ppm以下に定められている。また水質汚濁の環境基準においても、人の健康の保護に関する環境基準として、硝酸性窒素+亜硝酸性窒素 が10ppm以下であることが、指定されている。これは飲料水や食品中から多量の硝酸性窒素を摂取すると、乳児の場合はメトヘモグロビン血症 (注1) を引き起こすことがあり、成人の場合であっても、体内に取り込まれた硝酸が亜硝酸へと還元され、さらに他の有機物と反応して、発ガン性のあるN−ニトロソ化合物が生成されるリスクが高くなるからであると言われている。欧米諸国においても同様の規制が定められており、さらにEU(欧州連合)では、生鮮緑色野菜には硝酸塩 (注2) が多く含まれているため、ほうれんそうとレタスについて硝酸性窒素濃度も規制の対象としている (注3)

こうした硝酸塩の健康へのリスクは、多くの医学的・疫学的調査に基づいて定められたものである。だが、本書では、実はそうした科学的な根拠は薄く、硝酸塩の有害性が過大に評価されていること、むしろ硝酸塩には医薬として有益な作用のあることが、膨大な論文を引用しつつ、述べられる。著者らは、硝酸塩規制の根拠とされたこれらの疫学調査の誤りを指摘し、井戸水が原因とされたメトヘモグロビン血症のほとんどが、硝酸塩ではなく不衛生な井戸水に原因があったと述べている。また、ニトロソアミンの発ガン性は確かであるが、疫学的調査によれば、硝酸塩と発ガンの関係は認められず、むしろ抗ガン性を示しているという。著者の結論は明解である。すなわち、「飲料水と食品中の硝酸性塩の規制は科学によって支持されない、再吟味が必要である」、「硝酸塩の歴史は50年以上も続いた世界的規模での科学の誤りである」(第8章)。

もし本書で指摘されているように硝酸塩の有害性の評価が厳しすぎるものであり、その規制の再吟味がされるようなことがあれば、序文に記されているように 「食物の安全性を確保するために驚くべき努力をし、しかも、しばしば汚染をしていると非難されて何ら報われない農業者を安心させるもの」 (フランス医学アカデミー会員・ルトラデット氏) になるかも知れない。著者の一人、J-L. リロンデルは、英国ロザムステッド研究所の世界的土壌学者アディスコット (T. Addiscot) らと共著の解説記事の中で、基準を20ppmに上げても人の健康リスクに影響を及ぼさずに、10ppmという現行基準を守るためにかけている膨大な社会的コストを低減できるはずであると述べている (注4) 。リスクを低く抑えるために、どのくらいの社会的コストがかかっているのか、それが合理的なのかどうか。本書は食の安全に関わるいろいろな問題を考える材料も提供してくれる。

なお、本書で対象としているのは、あくまでも飲料水あるいは食品として摂取される硝酸塩の規制のことである。過剰な施肥に由来する硝酸性窒素による水域の富栄養化や温室効果ガスである亜酸化窒素発生を防ぐために、農業者や関係者が、これからも施肥の適正化に向けて努力をしていかなければならないことは言うまでもない。

二人の著書はフランス人の医師親子であり、J. リロンデルは1970年代にメトヘモグロビン血症の乳児を多く診察治療するとともに、膨大な関連文献を調査し、本書の主たる部分を書いた。彼の死後、同じ医師である息子 J-L. リロンデルが完成し、1996年にフランスで出版した。2002年に英語版 (Nitrate and Man: Toxic, Harmfulness or Benificial?) が発行されている。今回紹介する本書は、英語版からの翻訳と思われる。巻末に翻訳者による解題が掲載されており、本書の理解を助けている。翻訳者は、肥料学の碩学(せきがく)であり、農業環境技術研究所の元職員でもある。

注1 メトヘモグロビン血症: 乳児が、飲料水や離乳食として、多量の硝酸性窒素を摂取するとメトヘモグロビン血症を引き起こすと言われている。血液中には酸素を運搬するためのヘモグロビンというタンパク質が存在する。ヘモグロビン中には還元型の鉄(Fe 2+)が含まれているが、この鉄が酸化型(Fe 3+)へ変化したものがメトヘモグロビンである。通常血液中に2%以下しか含まれないメトヘモグロビンが、異常に高くなった場合がメトヘモグロビン血症である。チアノーゼを伴い、乳児の顔色が青くなることから、ブルーベビー症とも呼ばれる。

注2 硝酸塩と硝酸性窒素: 硝酸は通常陰イオンとして存在し、カリウムやナトリウムなどの陽イオンと塩を形成している。それらを総称して硝酸塩と呼んでいる。硝酸塩中の窒素成分に着目する場合、硝酸性窒素と呼ぶ。

注3 野菜の硝酸塩: わが国では、厚生労働省や都道府県が野菜の硝酸性窒素含量を調査している。食品中の硝酸塩の基準値は、添加物として硝酸塩を使用する特定の食品のみに設定されている (野菜中の硝酸塩に関する情報(農林水産省 消費・安全局): http://www.maff.go.jp/j/syouan/seisaku/risk_analysis/priority/syosanen/ (リンク先のURLが変更されました。2013年12月) )。

注4 Environmental Health Perspectives 誌、114巻8号、A458-A459 (2006) (http://www.ehponline.org/docs/2006/9186/letter.html (対応するページがみつかりません。2013年12月) )。

目次

日本語版の刊行にあたって

序文

まえがき

謝辞

緒言

第1章 医薬における硝酸塩の歴史

1.1. 硝石の天然および人工の鉱床

1.2. 硝酸塩を含む薬品

1.3. 調味料としての硝酸塩

1.4. 硝酸塩が亜硝酸塩に変化したあとの抗菌作用−1930年代以降に食品研究者に知られるようになった効果

第2章 自然界の窒素循環と自然肥よく性

1 窒素循環

2 自然界における肥よく性の増加

第3章 体内での硝酸塩の生成と代謝

1 硝酸塩は代謝産物

2 体内の硝酸塩はどこから?

3 体内における硝酸塩の代謝変換とその行方

4 ロ内唾液による硝酸塩から亜硝酸塩への変換

5 胃における硝酸塩と亜硝酸塩の動向

6 まとめ

第4章 体液中の硝酸塩濃度の変動と役割

1 健康な人間の硝酸塩濃度変化

2 病理的な条件下での変化

3 結論

第5章 硝酸塩は本当に危険か−科学的再考

1 乳児におけるメトヘモグロビン血症のリスク

2 成人のガンのリスク

3 その他の不当な申し立て

4 いずれの健康リスクも実証されていない

第6章 硝酸塩の規制は正当化できるか

1 飲料水の硝酸塩規制

2 食品の硝酸塩規制

3 硝酸塩の許容日摂取量と参照投与量の根拠

4 認識の教条化がもたらされた

第7章 硝酸塩の健康に対する効果

1 さまざまな感染症を防ぐ

2 高血圧や心臓血管病を防ぐ可能性がある

3 胃ガンや潰瘍も減らせるかもしれない

4 結論

第8章 総括および結論

付録1 換算係数および換算表

付録2 食品に用いられる硝酸塩の起源

付録3 健康な成人に経ロ投与した硝酸塩の動態

付録4 血漿中硝酸塩濃度が高くなる病気および治療法

付録5 硝酸塩によるガンの発生および致死率に関わる疫学的研究

付録6 亜硝酸塩や硝酸塩の多量摂取が健康に及ぼす短期的影響

文献

訳者解題

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