2003年、人間の遺伝情報を解読するヒトゲノム計画が終了し、DNAの全配列が決定された。このことにより、これまで未解明であった人類学を取り巻く学問分野が急速に進展し、人類の進化、人間性 (ヒトの本性)、歴史など多くの新たな事実が提供されるようになった。著者ニコラス・ウェイド氏は 「ネイチャー」、「サイエンス」 などの科学記者を経験し、現在まで科学ジャーナリストとして多くの科学情報を発信している。本書は、最新のゲノム研究の成果や研究者等との幅広い交流をもとに、5万年に及ぶ人類の進化を示したものである。
本書でのおもなテーマを紹介したい。
(1) チンパンジー系統からヒト系統が分離したのが500万年以上前、そして、人類の祖先が集団として他の土地に移動できたのが5万年前のことである。この間、ヒト系統には二足歩行、脳容量の増大、言語の発達、体毛の喪失など重要な変化があり、人間と他生物種が区別できるようになった。そして、進化したヒトは社会的な結束力を強めるようになり、5万年前、たった150人程度の現生人類がアフリカを脱出し、アラビア半島に入った。
(2) 言語能力の発達は、ヒトの行動を変化させる。言語能力に関係する遺伝子FOXP2はゴリラ、チンパンジーなどと共通するものであるが、FOXP2のヒト系統が急速に進化したことによって、言語能力は改善しその遺伝子をもつ人類集団が子孫を残すことになった。さらに、人類の言葉は、人類集団の集合や分離分散に伴って変化を繰り返すもので、言語系統樹は人類集団の系統樹にも反映される。
(3) アフリカを脱出した現生人類はインド、オーストラリア大陸、そしてヨーロッパ大陸、中国、日本にも到達し、人類の祖先集団が世界中に分散した。この移動過程で、ネアンデルタール人との死闘や、先住民の生活様式や環境条件への適応、地方特有の遺伝的変異があった。たとえば、集団がもつミトコンドリアDNAの分布パターンを解析することで、寒冷気候、温暖気候など対応できる温度が特定され、その集団の生き延びるための分布地域が明らかになる。
(4) 最終氷期を終えた頃 (11,500年前ころ) から、これまでの狩猟採集民が 「定住」 をはじめた。最初に、ユーラシアの西半分の地中海東岸周辺で、全く新しいタイプの人類社会が構築された。これまでの平等社会から、定住コミュニティでは私有物を持つ階層社会が出現し、都市化、文明化など、今日の都市生活の基本となる制度も生まれた。
(5) 「定住」は人類史の革命である。定住社会は作物生産による余剰農産物を蓄積し、さらに、余剰農産物の交易による経済活動を活発にした。そのため、農業生産性を向上させることが重要であった。アインコルン、エンマーコムギ、大麦など野生穀物が栽培品種に改良され、1万年前には、肥沃なトルコ南東部から地中海東岸の三日月地帯でライ麦と大麦の栽培化が起こった。野生イノシシからブタに、また、野生の牛や馬などの家畜化も進められた。このような定住社会という新たな環境に適応するため、人間の遺伝的性質、人間性も進化した。
(6) ヒトゲノムからの情報は進化し続けており、DNA情報を利用することによって、記録が残されていない歴史の謎を解明できる。「集団のDNAを分析すれば、人びとがどこから移動してきたのかわかるので、イギリス諸島のように集団の移動がこみ入っている場合でも一個人の祖先を追跡できるかもしれない」。ゲノムから得られる情報は、これまでの人類学、遺伝学、歴史学、社会学などの研究成果の統合に役立つものであり、さらに、歴史を紐(ひも)解きながら新しい事実が判明するかもしれない。本書は 「人類史」 の興味を引き出してくれるものと確信できる。
目次
1章 ヒトゲノムが解き明かす人類史の謎
2章 はじまりは5万年前、たった150人
3章 人類が発した最初の言葉
4章 祖先たちの肖像画を描く
5章 ネアンデルタール人たちとの死闘
6章 インドに到達、さらに遠方へ
7章 「定住」という人類史の革命
8章 惨酷と利他―人間性の不思議
9章 人種はかくして世界に拡散した
10章 ユーラシア大語族の謎
11章 ヒトゲノムがあばく歴史の裏側
12章 人類進化の終わりのない旅