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情報:農業と環境 No.99 (2008年7月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

朝日長者伝説と土壌肥料学

1.豊後風土記と朝日長者伝説

奈良時代に元明天皇の詔(みことのり)によって、諸国で『風土記』が編纂(へんさん)されたことはよく知られている。このうち、現存しているものは常陸、出雲、播磨、肥前、豊後の五編のみである。大分県の『豊後風土記』は不完全ではあるが現存しており、その中に“餅の的と白鳥の話”が記述されている。原文は漢文体の古和文で書かれているが、後世の人がこの記述をやや意訳して“朝日長者伝説”として伝えている。また最近では、この伝説は地元大分でミュージカルなどに脚色して上演されているとも聞く。その概要は次のとおりである。

その昔、九重高原の中心部に、浅井長治という長者が住んでいた。この人は別名“朝日長者”とも呼ばれ、後千町・前千町の美田を幾千人もの使用人に耕作させ、贅沢三昧の生活をしていた。ある時、祝いの席で、長者は鏡餅を的に弓矢を射る遊びを思いついて、自ら矢を放った。すると鏡餅の的は白い鳥に変わり、南の彼方へ飛び去ってしまった。これを期に、この土地ではコメがまったくとれなくなって、長者一族は没落し、人々は天罰とうわさした。そして千町の美田は、不毛の荒野と変わり果ててしまった。

白鳥神社(写真)

写真1 白鳥神社 (筆者撮影)

この土地には、現在でも「長者原(ちょうじゃばる)」や「千町無田(せんちょうむた)」などこの伝説にまつわる地名が残っており、白い鳥が飛び去ったとされる場所には「白鳥(しらとり)神社」が祀(まつ)られている(写真1)。千町無田は、筑後川の源流で、標高約900mの飯田高原に位置する。

阿蘇くじゅう国立公園の高原を貫いて走る通称「やまなみハイウェイ」と呼ばれる観光道路がある。この沿線に“朝日台”という名所があり、ここが朝日長者の屋敷跡とされている。この高台から千町無田の盆地を見下ろすことができる。千町無田は、約200haの水田地帯である。

朝日台のドライブインの裏手にブルーベリーの小さな畑があり、その向こう側に山を削った土壌断面を見つけることができた。典型的な堆積火山灰土壌の断面である。A層には腐植が集積して黒ボク土壌の特徴を示している。千町無田は、これらの黒ボク土壌が低地に集まってできた湿地と考えられるので、黒ボク土水田地帯である。土壌分類では、「多腐植質黒ボクグライ土」で、リン酸の固定力がきわめて強い土壌群に属する。

このような黒ボク土水田で稲作をすれば、まず問題になるのが水稲のリン酸欠乏である。何らかの形でリン酸成分が供給されない限り、水稲の生育はきわめて悪くなる。豊後風土記の記述が正しいとすれば、奈良時代以前にこの千町無田で、どのように稲作が行われていたのだろうか。肥料分はどうだったのだろうか。

この疑問を解くために、「野鳥飛来説」を引用して、土壌肥料学的に次のような考察を行ってみた。

すなわち、朝日長者伝説を三段階に分けて考えると、(1) 水田でよくコメが穫(と)れた ← 渡り鳥の飛来が多く、この鳥が糞(ふん)としてリン酸などの養分を供給した、(2) 鏡餅の的に矢を射かけると白鳥となって逃げた ← 食用として野鳥を乱獲した、(3) 急にコメが穫れなくなった ← 野鳥の飛来が激減して水稲のリン酸欠乏が顕著になった。

このような現象は、千町無田のような火山灰土水田ではとくに顕著に現れたと思われるが、日本列島の他の地方でも見られたのではないだろうか。この点については、3項で詳述することにする。

2.千町無田の近代開拓史

千町無田は、江戸時代には何度か開拓の試みがあったことが記録に残っている。江戸時代には、千町無田は徳川幕府の直轄地(いわゆる天領)だった。日田代官所の管轄で、そこの記録によれば、開拓の試みはいずれも失敗している。

青木牛之助(写真)

写真2 青木牛之助
(古賀 勝『大河を遡る』より)

千町無田が本格的に開拓され始めたのは明治になってからである。明治22(1889)年に筑後平野を襲った空前の筑後川大洪水によって生活の基盤を失った多くの小作農民は、600名がハワイへの移民を決意した。しかし、移民の選に漏れたり家族の都合で行けなかったりした残り組も多く、彼らは筑後川を遡(さかのぼ)って千町無田の開拓に挑むことになる。この開拓を指揮したのが、旧久留米藩士の青木牛之助(写真2)である。青木は、この千町無田開拓の許可を得るために大変な苦労をする。福岡県から大分県への県境を越えた移動となることも許可が下り難い原因であった。青木は上京して、時の明治政府要人の山岡鉄舟に面会するなどの苦労を重ねた末、ようやく開拓申請の許可を得る。

先遣隊27名を率いて、青木が千町無田に入植したのは明治27(1894)年のことである。翌年には移住開拓団(家族を含む)が入村する。全員が故郷の家屋敷を処分して、背水の陣で臨んだ入村であった。そして、この開拓事業は最初から苦難に直面する。リン酸肥料が無い時代の黒ボク土原野の開拓である。その厳しさは想像に余りある。

生活苦と失望から脱落者も出るが、後続の入村者もあり、明治37(1904)年には開拓村の戸数は43戸となる。近くの硫黄山から採掘された硫黄の運搬などで日銭を稼ぎ、何とか食いつなぐというギリギリの生活をしながら、開拓は少しずつ進められてゆく。「馬や牛でも少しはうまいものを食っている」と嘆かせた当時の生活は、まさに悲惨そのものであったという。

この開拓事業がどうにか軌道に乗ったのは、明治38(1905)年である。開拓者と生活を共にしながら自らの半生をかけた青木牛之助の侍魂と、移住農民の不屈な開拓者魂の成果と言えよう。

しかし、千町無田が本当の美田に変わったのは、戦後になってからである。黒ボク土とリン酸の関係が土壌肥料学的に解明され、千町無田の水田にも十分なリン酸肥料が施されるようになって、水稲の収穫量は飛躍的に向上した。まぼろしの“朝日長者の美田”がようやく再現したのである。さらに、水稲苗の根に過リン酸石灰をまぶして移植する「根付リン酸」という施肥法が考案され、収量はもっと高まる。昭和30(1955)年には、714.4kg/10aの高収量を上げた人が出て、「米作日本一九州ブロック増産躍進賞」まで受賞している。

千町無田の開拓が始まった当初、どうしても水稲がうまく育たないことを見た農民たちは“朝日長者の祟(たた)り”を疑った。このため開拓村の中に「朝日神社」を祀って、稲作の定着を祈願したのである。この神社には、現在は、朝日長者などと共に、青木牛之助が合祀(ごうし)されている。また境内には、青木牛之助の顕彰碑に並んで、千町無田開拓百年記念碑(1992年建立)が建てられている。

3.白鳥神社の由縁

千町無田の近くに白鳥神社が祀られていることは前述した。この神社について少し調べてみたが、必ずしも朝日長者伝説のみと関係しているとは思えなくなった。というのは、全国に白鳥神社は120社もあるそうで、この神社についてはもっとオールジャパン的視野で考える必要がありそうだ。とくに白鳥神社が多いのは、愛知県30、岐阜県13、宮城県9、香川県6、滋賀県5社などである。とくに東三河の作手(つくで)地区には11社が集中しており、その要因については、浅川らの調査と考察がある。また、上記の朝日長者伝説がある大分県にも県内に4社が分布する。

この神社について文献を調べてみると、古代史研究家の芦野が、至当に土壌肥料学的な考察をしていたことに驚いた。芦野によれば、種々の白鳥伝承は初期農耕における穀霊信仰と深くかかわりを持っているということだ。稲刈りの終わったころから翌年の春まで、日本列島には多数の渡り鳥が飛来して大量の糞を水田に残していたようだ。鳥の糞は窒素、リン酸、カリの三要素をはじめ多くの養分を含むため、この糞による水稲の増収効果は著しいものがあったと思われる。渡り鳥の多く集まる水田と、あまり集まらない水田の間で、コメの収穫量にも差異がみられたことだろう。このようなことから、古代農民は、渡り鳥(ハクチョウやツルなどの白い鳥が多かったか)を神の使いあるいは神そのものとして崇(あが)めるようになったと想像される。これが白鳥信仰の源流であろう。

しかし、後になって、農民たちは鳥を狩猟して肉食とすることを覚え、渡り鳥の飛来が減少をはじめる。このあたりの経過を、警告を込めて上記の朝日長者伝説は伝えているのではないだろうか。

このような古代の環境破壊はまた、時の政府(大和朝廷)をも悩ませたようだ。天武天皇の時代の675年に、「殺生禁断・肉食禁避の勅」が発布され、鳥獣の狩猟・食肉が禁止されている。そして、この勅令の趣旨は、日本史上では幕末から明治維新のころまで千年以上にわたって生き続けることになる。安政元(1854)年に幕府が、米国全権使節ペリーと締結した日米和親条約(下田条約)の中に、次の一条が書き込まれている。

鳥獣遊猟は却て日本において禁する処なれは、亜墨利加人もまた此の制度に伏すへし。

「アメリカ人も日本の風俗文化は尊重せよ」という一条を加えたあたりは、さすがに当時のサムライ外交の強靭(きょうじん)さを感じさせるものがある。

以上、大分県の一地方における「朝日長者伝説」を題材にして、日本の稲作史における土壌肥料の問題を考察してみた。家畜糞尿(ふんにょう)などの有機性廃棄物が溢(あふ)れかえり、化学肥料が安価に入手できる現代では、考えも及ばない内容かもしれない。しかし、作物の生産には必ず養分(肥料成分)が要るということをきちんと認識しておくことは、これからの食料確保の観点からも大切なことではないかと筆者は考える。

参考図書

佐藤四信『豊後風土記の研究』(明治書院)1956

小野信一『土と人のきずな』(新風舎)2005

農林水産省九州農業試験場『写真でみる九州の土壌と農業』1980

古賀 勝『大河を遡る』(西日本新聞社)2000

農林水産省九州農業試験場『あるいてみる九州の土壌と農業』1982

小野喜美夫『朝日長者』(飯田文化財収蔵庫)1991

浅川 晋ら:白鳥神社と水田農業、農業と科学、598、11〜14(2008)

芦野 泉「東アジアの古代文化47号」(大和書房)1986

(土壌環境研究領域長 小野信一)

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