2008年5月にドイツのボンで開催された生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)において “The Economics of Ecosystems and Biodiversity: an interim report” が発表された。本レポートはその翻訳版である。英語版の取りまとめはドイツ銀行グローバル・マーケット部門のディレクターであるパヴァン・スクデフ(Pavan Sukhdev)氏が、翻訳版は住友信託銀行株式会社特別顧問の村上仁志が中心となっておこなっている。自然科学を基盤とする研究者が、「種の豊富さと生態系の安定性について」 研究し、「望ましい生態系」 について議論しているうちに、経済界の人々は生物多様性に値段を付けてしまうのである。
この報告書は、地球温暖化の経済的影響を示したスターン・レビューの生物多様性版と位置づけられており、膨大な参考資料に基づいて生物多様性を取り巻く現状と、その損失を経済的に評価する試みが、事例をあげながら紹介されている。そして、生物多様性の保全活動に正当性を与え、効率的に実行するため、国際的な評価基準の策定に向けた枠組みを提示している。
報告書は、ヨーロッパにおける伝統的農法の生物多様性への寄与に触れてはいるものの、議論の中心は熱帯雨林地域で、生態系の破壊が直接住民の生活を脅かす状況についてのものである。これまで価格のない公共財とされていた生態系サービスを計測し貨幣価値に換算するための基準の提案は、先進国による資源開発の結果、伝統的な生活の基盤を失ってしまった人々に正当な補償をし、また、無謀な開発を抑制する上で、重要かつ緊急の課題であろう。また、「計測しないことは管理できない」 のだから生物多様性の保全を実行するためには 「生態系と生物多様性を経済学的にかつ科学的に計測しなければならない」 という主張は大いに賛同できる。
しかしながら、「中間報告」と題されているとおり、この報告書では、各地で散発的に行われている生態系サービスの経済評価を紹介し、それをもとにした評価の枠組みを示しているだけで、実際に自分が対象とする生態系のお値段がいくらかがすぐにわかるわけではない。(もっともこれまでにも多くの試みがあった生態系サービスの貨幣換算方法にそうやすやすと統一基準が策定できるものでもないだろうが。) また、「陸域生態系だけで毎年約50億ユーロ(約6、700億円)に相当する生態系サービスが失われている」 という推定 (具体的算定基準は参考文献をみなければわからない) をどう感じるかは人によってさまざまであろう。
本文中でも繰り返し述べられているように、本レポートの最終報告は2010年10月に名古屋で開催されるCOP10においてなされる。そこでは、問題解決のための政策ツールキットが発表される予定になっており、一般の読者は最終報告を読めばよいのではないかというのが正直な感想である。一方で、日本の生物多様性を考える上で重要な位置を占める農業生態系の研究に携わる者として、自然科学的手法によって得られるデータとそれにもとづく生態系の理解が、全世界的にみれば現在でも年間100〜120億米ドル(約9,120〜1兆1,000億円)規模という生物多様性保全事業を動かす経済の枠組みと乖離(かいり)することのないよう、注意する必要性を強く感じた。その意味で、研究者のみならず生態系保全にかかわる多くの人々に広く知ってほしい報告書である。
なお、本報告書(日本語版)のPDFファイルは、日本総研「企業のための生物多様性Archives」、 (財)日本生態系協会「企業とのパートナーシップ」 の各ページから、英語版のPDFファイルは、欧州委員会(European Commision)内のページ「THE ECONOMICS OF ECOSYSTEMS AND BIODIVERSITY」 から、いずれも無償で入手できる。
目次
序文
前書き
要約
第1章 生物多様性と生態系の現状
第2章 生物多様性、生態系、そして人類の福祉
第3章 経済評価の枠組みづくりに向けて
第4章 経済学から政策へ
第二段階の概略
謝辞
研究一覧
(生物多様性研究領域 西田智子)