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農業と環境 No.123 (2010年7月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

ヒ素に関する第72回JECFA報告と農業環境技術研究所の研究

2010年2月16日から25日にかけて、第72回 FAO/WHO 合同食品添加物専門家委員会(JECFA)がローマで開催された。開催の目的は、アクリルアミド、デオキシニバレノールなど6種の食品汚染物質の健康リスクへの評価であったが、ヒ素がその中の一つとして取り上げられた。

ヒ素については、わが国の食品安全委員会でも、平成21年3月に「自ら評価を行う案件」に選定し、化学物質・汚染物質専門調査会において食品健康影響評価を行っており、評価終了後、コメを含めた基準値改訂に向けた検討が厚生労働省において開始されることが想定されている。

JECFA によるヒ素の暫定耐容週間摂取量(PTWI)の設定は、1983年、飲料水からの無機態ヒ素摂取に係る複数地域の疫学的調査結果をもとに 15 μg/kg体重/週とされた。その後、1999年の Codex 委員会で食品に含まれるヒ素の基準値の検討が行われたが、PTWI を超過する食品からの無機ヒ素の摂取は一部の地域を除いて認められないこと、食品に含まれるヒ素の化学形態や形態別毒性の解明が不十分であること、形態別の分析方法に問題があること、基準値設定をどの形態に適用すべきか十分な根拠がないことなどの理由から、基準値の検討を中断している。

(注:食品に含まれるヒ素にはさまざまな化学形態があり、その形態により毒性が異なる。ラットを用いた経口投与による LD50 値(50%致死量)から見ると, 無機ヒ素(亜ヒ酸) < 無機ヒ素(ヒ酸) < 有機ヒ素(ジメチルアルシン酸) (左側に行くほど、急性毒性が高い)と顕著な違いを示す一方で、遺伝毒性試験や発がん性試験では有機ヒ素も有害な作用が報告されている。そのような状況から、今回、JECFA がどのような結論を出すか注目された。)

今回の JECFA の評価は、「肺がんの発生に係る BMDL0.5 (がんの発生率が 0.5 %増加する無機ヒ素の摂取量(これをベンチマーク用量: BMD と言う)の安全側の 95 %信頼下限値)を飲料水中の無機ヒ素濃度と肺がんに関する疫学調査をもとに推定したところ、3.0 μg/kg体重/日( 2−7μg/kg体重/日)となった。従来の PTWI 15 μg/kg体重/週(2.1 μg/kg体重/日に相当)は、今回推定した BMDL0.5 の範囲内にあることから、 BMDL としてもはや適当でなく、取り下げる」というものであった。

また、今回推定された BMDL0.5 には、無機ヒ素の総暴露量の試算や、タンパク質摂取量などの栄養状態やライフスタイルが異なる人々に対して同様に当てはめることについても不確かさがある。欧米やアジア各国の平均の無機ヒ素摂取量は 0.1−3.0 μg/kg体重/日と報告されているが、飲料水が主要な摂取源になっていると同時に、食品からの摂取においても調理やコメをはじめとした穀物栽培での灌漑(かんがい)などで使用する水のヒ素濃度の影響が大きい。飲料水の無機ヒ素の濃度が 50−100 μg/Lの地域では疫学調査により有害な影響が認められているところがある。また、飲料水中の無機ヒ素濃度が増加しているような地域では 50 μg/L以下であっても有害な影響が生じている可能性があるが、疫学調査により検知することは困難である。

以上のことから、JECFA では食物に関する無機ヒ素のより詳細な情報が必要であるとしている。食品中の化学形態別のヒ素のデータが不足していることを示す一例として、2008年に欧州食品安全機関(EFSA)がヨーロッパの15か国から10万点以上の食品中のヒ素濃度のデータを収集した際、その 98 %は総ヒ素の値しか分析されていなかったことがあげられる (EFSA Journal, 7(10):1351(2009))。そのため、EFSA はヨーロッパにおける食品からの無機ヒ素摂取量の推計にあたり、各食品の総ヒ素濃度に特定の係数を乗じて食品中の無機ヒ素濃度を推定している。たとえば、魚や海産物以外の食品中の総ヒ素に占める無機ヒ素の割合は 50−100%の範囲にあり、それらの平均をもっとも適切に示す値として 70 %を設定している。また、魚と海産物については無機ヒ素の値としてそれぞれ 0.03 mg/kg、0.1 mg/kgの固定値を設定している。

わが国のトータルダイエット調査 (人が通常の食生活において特定の化学物質をどの程度摂取しているかを推定する方法) の結果によれば、日本人の無機ヒ素摂取量は 62.8 μg/人/日と推定され、そのうちコメからの摂取量は 10.8 μg/人/日(総ヒ素からの換算係数として 0.86 を使用)と、ヒジキを除いた個別品目では最大で、農産物の主要な部分を占めている (「食品中に含まれるヒ素の食品影響評価に関する調査」平成20年度調査報告、財団法人国際医学情報センター)。また、別の陰膳(かげぜん)方式によるヒ素の摂取量の推定によれば、1日の総ヒ素摂取量は 195 ± 235(15.8 〜 1,039)μg/人/日であり、内訳は無機ヒ素 17.3 %、メチル化ヒ素 0.8 %、ジメチル化ヒ素 5.8 %、トリメチル化ヒ素 76.0 %で、トリメチル化ヒ素はほとんどが毒性の低いアルセノベタインと考えられた (Yamauchi et al. Appl Organomet Chem 1992; 6(4):383-8)。

上述のようにコメは無機ヒ素の摂取源として重要であるが、総ヒ素摂取量に占める割合から見ると、上述のトータルダイエット調査では魚介類 53.6 %、野菜・海藻 35.4 %などに比べ、コメは 7.1 %と寄与率が相当減少することから分かるように、コメでは総ヒ素に含まれる無機ヒ素の割合の高いことが考慮すべき点である。したがって、有機ヒ素の毒性に明確でない部分があるものの、無機ヒ素摂取源として寄与率の高いコメに含まれるヒ素濃度を低減させることが、われわれの食生活におけるヒ素のリスク管理にとって非常に重要なことは自明である。

コメの総ヒ素量およびそれに占める無機ヒ素の割合は、栽培地域、イネ品種、栽培方法などによって異なることが報告されている(荒尾ら、農業環境技術研究所報告 第26巻 91-103 (2009))が、最近の荒尾らの研究(Environ. Sci. Technol. 43, 9361-9367 (2009))では、土壌中のヒ素濃度や水田土壌の湛水時期などの要因によって、玄米のヒ素含量だけでなく、総ヒ素濃度に占める無機ヒ素の割合までも大きく変化していることが明らかになっている。また、水稲のヒ素吸収は、水稲栽培の水管理に関してカドミウム吸収といわゆるトレードオフの関係になっていることから、両者をできるだけ低く抑える栽培技術の開発も急務である。さらに、玄米中に含まれる有機ヒ素(ジメチルアルシン酸)の割合が、茎葉,根などの他の部位より顕著に高いという傾向が認められるが、その原因が何に由来するか現在重点的に調査中である。

一方、ヒ素の化学形態別分析法については、実はまだ定まった方法がなく、とくにヒ酸と亜ヒ酸の定量法については問題が多い。その理由としては、(1) 低い抽出効率、(2) 抽出を含めた分析過程での化学形態変化、(3) 試料保存中の化学形態変化、(4) 認証標準物質の欠如、があげられる (馬場浩司、日本土壌肥料科学雑誌 80:297-303)。しかし、近年、コメの分析に関してはマイクロウェーブを利用した熱水抽出や熱硝酸抽出など有望な抽出法が出てきたことから、今後さまざまなタイプのコメに関して化学形態別のヒ素のデータ収集が進む希望が出てきた。

以上のように、ヒ素に関しては、作物中における化学形態別の分析法の開発や実際の作物中の分布とそれを支配する要因の解明など、まだ研究上の課題が非常に多い。JECFA や EFSA の報告書において化学形態別のヒ素のデータ収集の必要性が強調され、とくに重要な摂取源となる食品の一つとしてコメがあげられていることなどを考えると、コメを主食とするわが国においても食品中のヒ素にかかわる研究をさらに加速する必要があろう。

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