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農業と環境 No.128 (2010年12月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

草原と畑に囲まれた陸の孤島: ネブラスカ州リンカーンにおける在外研究

筆者は、JSPS 海外特別研究員制度の支援により、米国ネブラスカ州立大学リンカーン校 (University of Nebraska-Lincoln: UNL) での長期在外研究 (2008年10月〜2010年10月) を行う機会を得ましたのでご報告します。

ネブラスカ州と聞いて、皆さんは何をイメージするでしょうか? 何も思い浮かばない人も多いと思いますが、「砂漠」を連想する人がいるかもしれません。ネブラスカには、荒涼としたネバダ砂漠はありませんが、九州より広大な砂丘(5万km)に草原が生い茂り、50万頭以上の肉牛が放牧されています。

ネブラスカ州は、米国の中心のやや北側、コーンベルト地帯の最西端に位置します。州全体の面積は約20万kmで、本州を一回り小さくしたぐらいの大きさですが、その人口は180万人にも満たない、アメリカ中西部の典型的な田舎です。もちろん産業の中心は農業で、トウモロコシ・大豆・牛肉の生産が盛んな全米トップクラスの農業州です(写真1)。中でもネブラスカ産の牛肉は、全米でも高品質かつ有名ブランドとされています。冷凍牛肉は、ネブラスカ州内の食肉工場から日本へも輸出されています。

広大な空と大豆畑(写真)

写真1 ネブラスカ州の広大な空と大豆畑

アメリカ農業の環境問題と聞くと、「地下水の枯渇」を連想される方もいらっしゃるかもしれません。世界最大の地下水資源であるオガララ帯水層は、サウスダコタからテキサスにかけた中西部に広がっており、貯留水の65%ほどがネブラスカの地下に眠っています。

センターピボット灌漑システム(写真)

写真2 センターピボット灌漑システム

ネブラスカの気候は冷帯湿潤気候に分類されます。湿潤気候といっても、トウモロコシの天水栽培が可能な地域は、年間降水量が860mm程度の州東側に限られています。西に行くほど降水量が少なくなり、ワイオミングとの州境近くでは、降水量が400mmしかないため、地下水に頼った灌漑(かんがい)栽培が行われています。ネブラスカの耕地の6割近くが灌漑栽培によるトウモロコシ・大豆畑です。井戸から揚水した地下水を自走しながら円形に散布するセンターピボット灌漑システムを数多く見ることができます(写真2)。実は、全米のトウモロコシほ場の8〜9割が天水栽培なので、ネブラスカは、かなり例外的な州になります。裏を返せば、ネブラスカ州の灌漑農家は、他州が干ばつで苦しむような年でも収穫量を安定して確保できるメリットがあります。冬はマイナス20度を下回る過酷な自然条件にあることは間違いありませんが、夏は十分な日射量を稼ぐことができます。2008年と2010年は、ネブラスカにとって高収益を得ることができた記録的な年でした。リンカーン郊外に車を走らせると畑に囲まれた立派な新しい家を数多く目にすることができます。ネブラスカ農業にとって水がもっとも重要な自然資源であることもあってか、ネブラスカ大学では、地下水源の適正管理や河川・湖沼環境の水質保全・動植物資源の管理といった地元密着型の研究課題を積極的に取り組んでいます。

筆者の滞在したネブラスカ大学の本部があるリンカーンは、ネブラスカ州の州都です。ネブラスカ人が愛してやまない大学アメリカンフットボールチームである CornHuskers(意味:トウモロコシの皮むき)の本拠地です。シーズン中は土曜日ごとに、チームカラーである赤いティーシャツを着た Huskers ファンがダウンタウンを練り歩き、人口たった25万人の小都市でありながら、8万人収容のスタジアムのチケットが毎週売り切れになる人気ぶりです。「アメフト」と「映画(市内に5〜6か所に映画館がある)」は、保守的で刺激の少ないリンカーンにとって大切な娯楽産業なのです。

トラクターの走行試験場(写真)

写真3 トラクターの走行試験場

そんな地味なリンカーンですが、筆者の研究と遠からず縁のあるトリビアがいくつかありました。筆者は、大学では農業機械分野の研究室を卒業したのですが、UNL のトラクター試験研究所は、その筋では世界的に有名です。筆者のオフィスのあった建物のすぐ近くでは、数珠つなぎで走行するトラクターを目にすることがありました(写真3)。また、農環研でも使われているプラントキャノピーアナライザー「LAI-2000」 やCOフラックス計測器で有名な LI-COR 社の本社は、ここリンカーンにあります。そして、農林リモセンの関係者にはおなじみなのですが、筆者も駆け出しのころに使っていたリモートセンシング解析ソフト「TNTmips」の開発元である MicroImaging 社の本社もリンカーンにあります。こんな田舎都市に、世界的に有名な研究機器会社があることに驚きを覚えます。

冬のHardin Hall (School of Natural Resourcesの校舎)(写真)

写真4 冬のHardin Hall (School of Natural Resources の校舎)

筆者が2年間お世話になった研究機関は、School of Natural Resources というところです(写真4)。日本でいう理学部系の研究学科に分類されます。ここでは、応用気象科学・応用生態学・地理/GIS・地質/土壌学・人文社会学・水科学といった授業を開講しており、自然資源の適正な管理と持続的な利用にむけた学際的な研究や最新の情報発信を行っています。具体的には、リモートセンシングによる土地利用評価や湖沼の水質観測、野生動植物を対象とした生物多様性の評価、農耕地生態系におけるフラックス観測、干ばつモニタリング研究、地下水を対象とした水質・水資源モニタリングなどが研究されています。州立の大学ということもあって、地元の一般市民向けの広報活動が積極的に行われています。農業生産者向けには、地下水の節水利用にむけた適正な灌漑方法や水質汚染に関する地下水の水循環の理解にむけた啓発活動を行っています。また、小学生・一般市民向けには、ネブラスカ州の野生生物の飼育展示や環境教育が積極的に行われています。こういったイベントでは、広報やアウトリーチ活動の専門知識を持った専属スタッフが活躍しており、斬新(ざんしん)なデザインの展示物や飽きのこない説明資料の作成に一役買っています。研究調査活動においても、日本の研究機関と違い専門の技術職員が数多く在籍しています。実験装置・試験ほ場・データベースなどの運営や野外観測データの収集・管理を任せられており、研究者と同じスペースの個人オフィスを構えていました。聞いてはいたのですが、研究者と専門スタッフとで、教育・論文執筆とデータ収集・広報活動をうまく分業している研究体制にアメリカ的な効率主義をかいま見ました。

トウモロコシ畑に設置した観測装置のメンテナンス(写真)

写真5 トウモロコシ畑に設置した観測装置のメンテナンス

職場の同僚に囲まれての送別会(写真)

写真6 職場の同僚に囲まれての送別会

筆者は、デジタルカメラ画像や衛星画像の連続観測データを使って、作物群落の物理情報や生理情報の季節変化を観測するリモートセンシング研究を行っています。衛星画像を通して世界中の農地を簡単に観測することができるのですが、衛星画像に記録された情報は、日々生長・変化し続ける作物の一時的な側面しか反映していません。自分が見たい研究対象を断片的な記録情報からうまく引き出すには、実際に現地に行って、自分の目で畑や作物の状態を確認する試行錯誤の過程がどうしても必要になります。共同研究者や技術者の協力を得て、デジタルカメラによる自動観測装置をリンカーン郊外の試験ほ場に設置し(写真5、写真6)、日本とは異なる方法・環境で栽培されたトウモロコシと大豆の貴重なデータを取得することができました。

ほ場観測に関連したもっともショッキングな出来事は、雹嵐(ひょうらん)による農業被害を目の当たりにしたことです。雹害は、米国のトウモロコシ・大豆栽培農家にとって深刻な気象災害の一つです。図1に示す衛星画像や現地写真から分かるように、30〜40kmスケールの限られたエリアのみ、収穫前のトウモロコシ・大豆が薙(な)ぎ倒されてしまいました。筆者の観測ほ場もすぐそばにあったのですが、幸いにも直接的な被害を受けることはありませんでしたが、被害地域には、ネブラスカ大学リンカーン校の農業試験場が密集しており、報道によるとその被害額が1億3千万円にまで達したそうです。我々が輸入するトウモロコシ・大豆がこのような突発的な災害によって壊滅的な損害を受けることを肌身を持って体験しました。

雹害後のランドサット画像と現場のようす(衛星画像と現場写真)

図1 雹害後のランドサット画像(緑色は生育中のトウモロコシ・大豆、ピンク・白色は枯死した植物や裸地)(左側)と、雹嵐の被害地域とそうでない地域の現場写真(右側)

日本は、加工食品・飼料として消費されるトウモロコシのほぼ100%、大豆の94%近くを海外に依存しています。国内農業の振興による自給率の向上は、わが国が取り組むべき緊急の課題ですが、気候・土地・食料供給構造・コスト面で困難なハードルを数多く抱えており、数年で解決できる容易な問題ではありません。供給食料の約60%(カロリーベース)を海外輸入に依存している現状は、食料輸出国における不作(異常気象・病害虫など)が、わが国の食料問題に直結することを意味します。不測の事態を見すえて食料安全保障を確保するためには、パソコンの中の空論ではなく、海外研究者と信頼関係・協力関係を通した地道な観測活動を続けることが大切だと思います。「私たちが食する作物がどのような環境でどのように生育しているのか?」という素朴な疑問を胸に、自分の目と肌で感じ取る経験と科学的な客観情報を積み重ね、農業環境モニタリングに役立つ新たな衛星リモートセンシング技術の開発に情熱を注ぎたいとあらためて思うようになりました。

(生態系計測研究領域 坂本利弘)

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