動物行動学者、故日高敏骼≠フ、エッセイと講演録である。
「科学は、真理の追究だ」、といわれることに対し、科学も、ものをどう見るかという、ものの見方のひとつに過ぎない、という。すなわち、人間は真実を追究する存在だといわれているが、イリュージョンだけで世界をつくっており、イリュージョンという色眼鏡を通してものを見ているというのである。イリュージョン(錯覚、思い違い)とは、まぼろしをまぼろしでない(真実であると)思い込んでしまったもののことである。
科学がイリュージョンであるというと、突拍子もないように聞こえるが、そうではない。物理学の世界では、こういうことの結果こうなるというように、因果関係がはっきりしているのであろうが、生物や環境は、いろいろな条件が複雑に組み合わさっており、原因と結果が1:1に対応するなんてことはむしろない。科学的として通用していた説が、しばらくして全く間違いだった、というようなことはよく起こる。
ではなぜ、人間はイリュージョンにとりつかれるのか。それは、人間は理屈でものごとを考えるので、実証されなくても理屈が通るとそれを信じてしまうからだという。しかしそれは、真理ではなくあくまでも一つの見方であり、われわれがそうであろうと考えているに過ぎない。そのうちに、それが一般的に通用するような考えになっても、本当にそうかどうかはわからず、それを否定するような、よりもっともらしいイリュージョンが出てくると、それが大発見になる。
では、研究者は何をするのかというと、よりおもしろいイリュージョンを考えることで、イリュージョンをだんだん変えていくのである。新しいイリュージョンを作っていくことに科学の楽しみがあり、そのことを楽しむべきだという。イリュージョンを考えることこそが、科学の原動力となる。
定説になって教科書に載っているようなことにも、イリュージョンは多い。昆虫の性フェロモンは、雌が遠くから雄を誘引するというのが定説になっているが、実際はそうではなく、めちゃくちゃに飛んでいて、たまたま雄から1mくらいのところを横切ると引きつけられ、雌の姿を見て飛びつくのだという。イリュージョンの変更が必要だが、それが広く定着して、研究費獲得のストーリーに通用するようになっていると、変更は都合が悪い、ということにもなる。
日高さんの原点は、昆虫の行動の観察と「なぜ」という疑問から始まる。少年時代、原っぱで枝をはっているイモムシを見て、「おまえどこに行くの? 何を探しているの?」 と問いかけた。動物がある行動をするには目的があるはずだと考え、一生懸命観察し、思考した。しかし、東大の理学部に入った当時、物理学が幅をきかせている中で、科学は「なぜ」を問うてはいけないと言われたという。生物の場合には「なぜ」を問わなければ学問にならない。
「科学は、真理の追究だ」 と考えたら、生物や環境は理解できないかもしれない。イマジネーションとイリュージョンこそが研究の原動力であり、それによって新たな発見が生まれる。広い、柔軟な見方の重要性を説いているように思う。
農環研では、2年前、日高先生に講演をお願いし、ご了解をいただいていたが、体調を崩され、かなわぬ願いとなった。今となっては、ただただ残念である。
目次
エッセイ
「なぜ」をあたため続けよう
人間、この変わったいきもの
宙に浮くすすめ
それは遺伝か学習か
コスタリカを旅して
いろんな生き方があっていい
行ってごらん、会ってごらん
イリュージョンなしに世界は見えない
じかに、ずっと、見続ける
いつでもダンスするように
講演録
イマジネーション、イリュージョン、そして幽霊