著者はサイエンスコミュニケーターとして活躍中であり、その実体験を交えながら、「科学リテラシー」と「科学コミュニケーション」について語っている。科学コミュニケーションの担当者あるいはその周辺に関わる人に有益な本だと思われる。
初級編で、筆者は、科学リテラシーを普及する政府の取組みがなかなか進まない理由を推理してみせる。『科学好きな人は、ある意味、特異な趣味を持つ「マニア」』 なので、科学が世の中で一番面白いと思い込みやすい。普及活動を進める政府関係者・研究者・教育関係者などの多くが「科学好き」である。そのため、かえって「科学に関心はあるけど、縁遠く感じる人たち」を遠ざけているのではないか。「なるほど」とうなずける面がある。
中級編では、科学リテラシーについて語られている。英語の「リテラシー(literacy)」は、もともと「読み書きする能力」という意味で、現在では「ある分野のことを理解し、活用する能力」として使われる。だから、「科学リテラシー」は、「科学を理解し、活用する能力」ということになる。そこには科学的な「知識」と科学的な「思考法」の2つが必要であるが、筆者は「知識」より「思考法」のほうが重要だという。何かを新たに生み出せるのは「知識」ではなく「思考法」だから。
科学的な思考法の核心は「疑う心」である。現在あるすべての「科学の理論」は誤りを含んでいる可能性があり、将来「覆(くつがえ)される」可能性を残している。科学的にものを考える態度として4つがあげられている。(1)答えが出せないことはペンディングする、(2)「わからない」と潔く認める、(3)人に聞くのを恥ずかしいと思わない、(4)失敗から学ぶ。しかし、これらすべてに当てはまる人ばかりではない。
科学は社会を記述する方法論の1つに過ぎず、特別なものではないと筆者はいうが、「疑似科学」と「科学」とを的確に切り分けることは難しいようだ。
上級編では、科学コミュニケーションについて語る。青少年の理科・科学技術離れ、食品問題や環境問題によって社会に生じた科学技術への不信。国はこれらに対処するため、科学コミュニケーションを促進し、科学技術に対する国民の関心と理解を高めようとしている。その方策のひとつに「サイエンスカフェ」と呼ばれるイベントを開催して、専門家と国民との双方向コミュニケーションを実現しようとする試みがある。だが、筆者は、『「双方向のスタイルだから素人に受けいられるはず、コミュニケーションができるはず」という考え』 には反対だという。専門家の側が、科学技術を社会と切り離された存在と考えるかぎり、一般市民には受け入れにくい。サイエンスカフェに出向く人は、科学にもとから関心がある「科学マニア」ばかりではないか、と。
科学マニアが、社会の中で「ご意見番」、あるいは「非専門家と専門家の媒介者」となることは望ましいが、それだけでは不十分だと著者はいう。科学マニアは、(1)普通の人のまっとうな感覚がわからない、(2)科学技術への思い入れが強く、無批判な応援団になりやすい、(3)「疑う心」を忘れやすい。だから、科学マニアではない人、たとえば文系の人に、科学技術の監視団になってほしいと、筆者は「あとがき」を結んでいる。
農環研においても、これまで4回のサイエンスカフェを開催している。参加者を集めること自体がなかなか難しいが、この本の筆者が言う「マニアの、マニアによる、マニアのためのサイエンスコミュニケーション」になることを避け、さまざまな参加者に、自身の日常生活や仕事と、科学技術・研究とのかかわりについて考えていただけるように努力していきたい。
目次
はじめに−−科学の物語性
初級編 科学によくある3つの「誤解」
誤解1 「『科学離れ』が進んでいる」ってホント?
誤解2 「もともと『科学アレルギー』の人は多い」ってホント?
誤解3 「科学は、身近ではない」ってホント?
コラム あなたのまわりにある科学
中級編 科学リテラシーは「疑う心」から
科学リテラシーとは?
知識よりも、思考が重要
科学的なものの考え方とは?
疑う心を阻害するもの
コラム 愛と恋と科学と
上級編 科学と付き合うための3つの視点
サイエンスコミュニケーターとしての活動を振り返って思うこと
視点1 社会の中に科学技術を見る
視点2 見えない科学技術に目を向ける−−「見える」科学技術と「見えない」科学技術
視点3 理系だけにまかせない−−「自調自考」型と「おまかせ」型
コラム 私に影響を与えた科学者たち
あとがきーー科学技術の監視団に