パネルディスカッション
『地域でつくるシルクの環。今、何をなすべきか』

司会: それでは、ただいまよりパネルディスカッションに入らせていただきます。テーマは、「地域でつくるシルクの環。今、何をなすべきか」についてです。
 まず、コーディネーターのご紹介をいたします。法政大学大学院政策科学研究科教授で、地域研究センター副所長の岡本義行先生です。(拍手)
 では、次に、パネリストの皆様のご紹介をいたします。岡本先生のお隣から、津久井町史編集員、沼 謙吉様。JA八王子養蚕部会部部会長、長田誠一様。みやしん株式会社代表取締役社長、宮本英治様。株式会社成和ネクタイ研究所代表取締役社長、和田至弘様。有限会社シナジープランニング代表取締役社長、坂口昌章様。多摩シルクライフ21研究会代表、小此木エツ子様。
 以上の方々です。では、岡本先生、よろしくお願いいたします。

岡本: それでは、問題提起かたがた、少し私のほうからお話をさせていただきます。
 私どもの大学は、八王子に接して、住所は町田になっておりますけれども、八王子と町田の間にございます。ここへ来て20年たつということで、秋には催し物が行われましたけれども、私ども多摩の地と、昔から伝統的に多摩の地で栄えた産業、そういうものをぜひ支えていきたいという思いがございます。
 私自身の仕事としては、実は八王子のようないわば産地の国際比較をしております。つまり、アメリカであるとか――アメリカはそんなに歴史がないんですけれども、ヨーロッパ、アジアの産地、産業集積――産業クラスターなんて最近呼んでいますけれども、そういう産業が集まった地域の国際比較をして、それがどういうメカニズムで発展したり衰退したりするかということを主な仕事にして、世界じゅう飛び歩いております。
 ご存じだと思いますが、イギリスなどは産業革命の折に、そういう産地、産業集積ができ上がりましたけれども、今皆さん行っていただくと何もございません。レンガの壊れた工場があちらこちらにあるという惨めな姿になっております。実は産業というのは、時代の状況に合わせていろいろ姿を変えていかないと生き残っていかないというのが実態でございます。産業は何もないところからは生まれないわけです。しかし、少しずつ姿を変えながら何百年も何千年も生き残っていく、これが産業のあるべき姿です。もちろん、それがいろんな地域に飛んでいくということはございます。
 昨年、ヨーロッパに、ある会議で行きまして、私がコメントをした産地――これはブラジルの人と南アフリカの人とトルコの研究者の報告のコメントをしたわけですけれども、その中で非常におもしろかったのはトルコの産業集積で、ここは綿の織物をやっている。綿の産地なんですけれども、実はこの産地は、ローマ帝国ですから2,000年以上前の皇帝に献上した、そういう2,000年来の産地である。それがいまだに綿の産地として生き残っている。こういうことは非常に稀です。通常は、綿とか絹とかいう産地はいろんな形に変わっていきます。これが普通の姿です。ただ、そのように残る場合もあります。残って姿を変えて新しい産業になっていくということが重要ではありますけれども、それがいわば産業の種になって、どこかで息づいていくということが必要なわけです。
 私どもの法政大学とイタリアのミラノの北のカッセランツァという大学と協定を結んでおりますが、その大学は織物の工場をそのまま大学に使っております。そして大学の中に桑の木が植えてあります。大学のシンボルは桑の木です。それをシンボリックにして使っております。ここは、絹産業から今はハイテク産業なんかも枝分かれして出てきておりますが、いろいろな産業があります。プラスチックもありますし、それからヘリコプターなんかもつくっております。どこへ行っても、産業というのは、繊維産業か、あるいは鉱山から出てきている。それが姿を変えていくということが一般的であります。できるだけ昔の姿を、昔の姿というより昔の精神あるいは技術を伝承しながら、そこから新しい産業をつくっていこうとしています。
 そういう意味で、八王子というのは非常に恵まれた条件があったはずなんですね。残念ながら東京のベッドタウンという地理的条件の中でそういうことがなかなかできにくい。例えば土地が上がったりして、産業としての継続性がうまくいかなかったということもあるかと思いますが、地域という点からすると、これからまた地域が自立して生きていかなければいけません。そのためには、かつてあったシルク産業……。これは一般には、シルクの産業あるいは綿でも繊維産業というのは、織機であるとか関連の機械産業が生まれて、そして機械産業から新しいハイテク産業に変わっていくという姿が一般的です。ですから、今ハイテク産業があるようなところでも昔は絹あるいは綿という産業があったんです。典型的には日本でそういう姿を残しているのは浜松ですけれども、浜松は、綿から綿の織機、そして自動車とかバイクとか楽器だとか、そういうものに変わっていっているわけですね。
 何度も申し上げますが、変わるということ、しかし、その原点というものの重要さをやっぱり認識していかなければいけないんではないかと私は常々思っております。
 さて、もう一つ私が申し上げたいことがございます。シルクというものはそういう産業の原点でありますが、いまだに非常に重要な価値のある資源であります。これをどうやってビジネスとしてつなげていくか。ビジネスとしてつなげていかなければ生き残っていきにくい。皆さんの犠牲で存続させていくということは非常に難しいわけです。ですから、ビジネスとしてどうやって成り立たせるかという仕組みをぜひ考えていかないといけない。こういう2つの側面が必要ではないかと思っております。
 産業としてはシルクの産業。八王子とか桐生とか、日本のGDPの3分の2ぐらいを稼ぎ出したということも昔はあったそうであります。輸出の第1位、日本の発展の原資を稼ぎ出した産業です。そういう時代がありました。今ではそういうわけにはいきません。ですから、それをどうやって産業としてつなげていくか、そのための工夫をする。一つのヒントとしては、希少な資源をブランド化していく。高級品化して付加価値を高めていくという方向が必要だろうと思います。
 さっき市長さんが生活文化産業というふうにおっしゃいましたけれども、実は生活文化産業というふうに売り出すときには、それじゃ生活文化産業の実態は何かということが必要になっていきます。生活文化産業としてブランド化していくためには、その背景として、だれもがあこがれるようなライフスタイルみたいなものがないと。つまり、八王子のネクタイを見たら、八王子のライフスタイル、あこがれるようなライフスタイルというものを提案できないといけない。八王子でこのような衣食住、あるいはそれに関連するような産業、あるいはそこで生活している人たちの姿が美しく見えるような、そういう仕掛けをつくっていかないといけないということがあるんではないかと思います。
 これからいろんな観点からシルクについてお話しいただきます。全体として、地域、そして新しい価値創造に向けたシルク産業、そして八王子という地の産業立地、そんなことをいろんな点で考えていきたいと思います。
 私の講演ではないのでそろそろ先生方にお願いしたいと思いますが、時間が余りないものですから15分ぐらいで最初のプレゼンテーションをしていただき、そして後でディスカッションに入りたいと思っております。
 それでは、まず、沼先生お願いします。

八王子地方における養蚕・製糸の歴史
津久井町史編集委員 沼 謙吉

沼: 私に与えられましたテーマは「八王子地方における養蚕・製糸の歴史」ということです。
 お手元のレジュメをごらんになって下さい。7ページが私のレジュメです。その次に「資料 八王子地方における養蚕・製糸の歴史」というのがかなり枚数を使いまして載せてあります。私、地域の歴史をやっておりますので、歴史の場合には資料が基本になります。でありますので、私の手元にありました八王子地方における養蚕と製糸の歴史の資料をまとめてみたわけです。全体が横書きの中に縦書きになっておりますので見にくいかもわかりませんけれども、どうぞご利用いただきたいと思っております。
 さて、今まで、八王子の市長さん、そしてまた田中理事長さんが、古来から現代の八王子地方における織物として養蚕、製糸について触れておいでになりました。そういう意味から、私の話は、古代、中世の養蚕になっておりますけれども、そこのところは簡略にしまして、近世の養蚕に入りたいと思います。養蚕と製糸、大きくはこの2つに分けまして話を進めていきます。
 まず最初なんですけれども、実は私、津久井の歴史をやっています。その中で大和朝廷の時代、雄略天皇の16年のことですが、「日本書紀」の中に書いてあるんですね。桑の適地の国でありますとか県であるとか桑の栽培に適したところに桑を植えなさいということなんですね。それを受けまして、津久井郡の佐野川に、多強彦(おおすねひこ)という人物がいた。この人物が、多摩の横野に桑を仕立てる、という記録が出ているんですね。多分これは伝説でしょうけれども、これがこの地方における養蚕の最初ではないかと考えられるのです。
 それから、奈良時代から平安時代、そして戦国の北条氏照の時代に「桑の都」という言葉がしばしば登場します。桑の都、要するに桑都であるということです。そういうものを踏まえまして、それでは近世の時代、江戸時代にはどんなふうに展開をしていったんだろうかということになります。
 さて、そういう中に「毛吹草」という、これは俳諧の書ですが、この中に、先ほど織物組合の理事長さんの話にありました「滝山横山紬嶋」という言葉が出てくるわけです。これが八王子における商品としての織物の最初である。そして、この紬ということによりまして、養蚕、蚕で生糸を取る、そういうことがはっきりとわかるわけです。
 江戸時代の前半期の元禄時代に、元禄文化が大変栄えたときですが、この元禄の前後の時代、実は清国、中国から生糸がどんどんと輸入されていまして、日本の織物はその生糸を使っていたわけです。ところが、生糸の輸入制限から、国内におきましてどうしても生糸を生産しなければならなくなり、養蚕が盛んになっていったんです。元禄の前後のことです。養蚕が日本の特に東山道を中心としまして大変盛んになっていったんです。
 この江戸時代という時代ですが、本田畑といいまして、田畑に桑を植えるというようなことはかたく禁止をされていたんです。
 そういう中にあって、実は津久井におきましては桑を植えていたということがはっきり資料として残っているんですね。もちろん全部ではありません。一部にそういうようなこと、かたく禁止をされている中に、本田畑、要するに田畑勝手づくりの禁止令というのが出ているにもかかわらず、それが実際に行われていたのです。
 実はそれは八王子におきましても、石川村というところにおいて桑を植えていたというような事実があるんですね。八王子におきましても、そういうようなものが見られるということです。
 江戸時代に「村明細帳」という記録が役人に提出をされています。村は一体どんなふうになっているのか、役人の巡視がありますが、そのときに村明細帳を出すわけですね。その中に、養蚕でもって活躍をしているのは、実はそれは女性であった、ということが克明に書かれております。そんなことが江戸時代前期における多摩の養蚕と考えてよろしいんではないかと思われます。
 さて、江戸時代の後半ですが、一体どんなふうに多摩の地域での養蚕が行われていたのかといいますと、文化10年のことですけれども、武州多摩郡の市附村々の総代が訴えを行っているんですね。多摩を初めとしました地域におきましては、こんなふうに蚕業が行われているんだというふうに出ています。これを見ますと、畑であるとか、畦であるとか、そういうところに桑を植えていると書いています。
 要するに養蚕を行う場合に桑をどこに植えたのかということですが、山の傾斜地でありますとか、今ここでもって言いましたように畑の畦であるとか、さらにはそのほかには河川敷ですね。例えば八王子の地域の場合には浅川の河川敷、そういうような河川敷に桑を植えまして、養蚕を行っていたというようなことがわかるわけですね。
 もうちょっと詳しく見ていきますと、八王子の機と同じように養蚕をしているところ、桑を植えているところは一体どんなふうに分布しているんだろうかということです。これにつきましては、織物史の研究者で正田先生という方が結論を出されています。特に養蚕の地域は一体どこであるかといいますと、その養蚕の地域は、現在の相模を主体とした地域が養蚕地帯であるんだと。八王子は養蚕地帯じゃなかったのか。いや、養蚕はやっておりました、養蚕はやっていたんだけれども主体は織物であったんだということなんですね。そして養蚕、生糸の生産地は相模を主体とする地域であると、正田先生は、調査の結果、まとめております。
 それから、製糸の地帯ですが、八王子の東南の地域、東西に伸びた地域がそれであると言っております。
 実は全くこれに符合をすることですが、蘭学者の渡辺崋山が「遊相日記」を書いているんですね。遊相日記、相模に遊ぶ日記であるということで、その中に、資料のほうにも載せておきましたけれども、「八王子ハ織リヲ専トシ、長蔦、鶴間ハ養蚕ヲ専トス。」というふうにはっきり書いているんですね。ああ、こういうものかと私は思いました。そこが八王子の東南にあたります。
 さて、近代と現代の養蚕業についてですが、明治に入りますと、田畑勝手づくりが自由になり、それから桑を植えることも自由になります。そして明治時代に出されました「皇国地誌」がありますが、養蚕、製糸はもっぱら女性の仕事であるとはっきり書いています。博覧会、共進会が盛んに開催されました。そして産業の指導者の養成がなされていったんです。レジュメには書いておきませんでしたけれども、蚕の飼育、これにはもう本当にその当時、明治の人たちは苦心をしていますね。
 一体どんなふうに蚕を飼っていたのかといいますと、まず、天然に飼育をする、「清涼育」と言いますが、その清涼育から今度は「温暖育」に変わっていくんですね。温暖育というのは、要するに火力を用いまして、蚕を飼っていくんです。その温暖育というのはいつごろから起こっていったのかというと、明治10年代の後半であります。八王子の地域におきましては、明治29年に八王子の恩方におきまして温暖育を行った。家屋の構造が変わっていくんです。要するに家のつくり方が変わっていくわけですね。そういうような温暖育が行われていった。これが明治39年に見られる。そして、それから次は「折衷育」に変わっていきます。最初は天然、その次は温暖、そして折衷、これが明治時代の養蚕であったのです。
 大正時代に入りますと、特に地方の行政におきまして養蚕組合の設置を強く指導していきまして、それに従っていく。昭和の時代に入っていきますと、昭和5年のことですが、片倉製糸が川口村(現八王子市)に栽桑試験所――要するに桑を栽培しまして、桑は一体どんなふうに栽培をしていくのか、そこで見本をするというようなことを行っております。日本で最初の事業であると片倉製糸の30年史には書いてあります。
 次に、製糸の歴史を見ていきます。まず初めに、明治前半期における製糸業を見ていきますと、製糸業は、座繰と器械製糸の2つに分かれるんですね。器械製糸と言いましても、明治の初め、群馬県の富岡でつくられました富岡製糸工場がありますね。あんな立派な設備じゃないです。ああいう立派な設備をつくるにはたくさんの資本を必要としますからそういうんじゃなくて、見よう見まねでもって大工さんが器械の道具をつくっていったわけですね。だから器械製糸といいましても、それは道具であるというふうに考えたほうがいいわけです。でありますから、「きかいせいし」と言う場合には「器」という字を書きます。長野県、山梨県、岐阜県、こういう地域が器械製糸の地域であったんですね。そして上毛、または福島県、そういうようなところは在来の座繰製糸。この両方があった。それが次第に器械製糸のほうに統一をされていくということになるわけです。
 そこで、まず、江戸時代のこの地域を見てみますと、実は手繰から座繰に変わっていったことがわかります。「神奈川県史」を見てみますと「牛首」というのを使ったというんですね。こういうふうに手招きをして糸をずうっと絡めていくんだということ。その牛首、それから明治7年から8年にかけまして、上州のほうから座繰製糸を伝えた者がいた、それによってこの辺一帯が座繰製糸になっていったんだと、こんなふうに書かれているんですね。
 さらに、明治の初年に、何しろ生糸は、日本での輸出の太宗を占めているわけですね。そういう輸出の生糸でありますから、それが不良品であってはいけない。「粗製乱造」という言葉が使われておりますが、粗製乱造であってはいけないんだということから、検査をする生糸改会社が八王子にできるんですね。その支社が五日市に、そして町田に、またさらに上溝に出張所ができまして、生糸の検査を行いました。いい生糸をつくる、輸出の生糸をつくるにはどうしても器械製糸が必要ということから、当時の神奈川県令が、明治10年に八王子にあらわれまして、生糸商人を集めまして、ぜひ器械製糸をつくってもらいたいと要請をしたわけです。
 その要請に応じて製糸工場ができます。それも資料集のほうに載せておきました。その中で大変努力をしましたのが萩原彦七という人物であったんですね。萩原製糸工場が明治10年に西中野村(現八王子市)というところにできます。そしてこの萩原製糸工場につきましては、明治13年に明治天皇が中央道巡幸というのを行います。その中央道巡幸を行ったときに参議山田顕義と宮内卿徳大寺実則を萩原製糸場に派遣しまして、この事業につきまして賞賛しておりますが、その資料も載せておきました。
 そのほかに、明治21年には元八王子に小島製糸工場ができます。八王子の地域におきましては、萩原製糸工場、小島製糸、この2つが大変大きな製糸工場ということになるわけです。萩原製糸工場の場合には100人の女工を使ったという記録もあります。
 この萩原製糸工場ですが、明治34年、片倉製糸が東京地方に進出をしてきまして、萩原製糸工場を買収するということになります。戦争に入ってから、現在の日本機械工業中野製作所と変わっていくわけです。
 私が与えられました時間は15分ですが、ちょうど終わりましたので、とりあえず以上で養蚕の歴史、製糸の歴史を終わりにしたいと思います。

岡本: 続きまして、長田さんお願いします。

東京の養蚕事情
JA八王子養蚕部会 長田誠一

長田: 皆さんこんにちは。養蚕部会長の長田と申します。なぜ若い私がやっているかといいますと、前年度は養蚕部会で10人近くはいたんですけれども、今年度になりまして半分以下に減ってしまいまして、現在、八王子で農協さんを通じて養蚕農家をやっているのは今3軒となっております。その中でだれが部会長をやるかといいまして、今までやったことがある人が結構多いので、今回、「じゃ、おまえ若いからやってみろ、手伝ってやるから」というわけで私が今ここにいるわけであります。
 私、ことしは何かやたらとメディア関係が多くて、春から永六輔のラジオ、先日はNHKのほうにちょっと出させていただきました。見てくださった方、ありがとうございます。
 ちょっとここで訂正があるんですけれども、今月の10月10日の読売新聞に肥田さんのことがちょっと載ったんです。これで私のことが少し載っているんですけれども、これは拡大講釈して載っていまして関係者の方にいろいろ迷惑をかけたみたいなので、この場なんですけど申しわけありませんでした。私は別にこのようなことは発言しておりませんので……。済みません。
 資料のほうになりますけれども、17ページに資料が書いてあります。
 私は、八王子は加住町、駅から行くとバスで30分ぐらいかかる、大げさに言うと山を2つ越える加住町という部落で養蚕をやっております。私は12代目でありまして、養蚕は私でちょうど5代目になります。ただ、最初のうちは生糸商人から始め、だんだんとご先祖がお金をためて畑をふやし、桑の苗を買い、山を開墾し桑を植え、10年たってやっと桑が大きくなり、それでやっと養蚕をだんだんと始めた。私が12代目で、10代目の長田喜兵衛、私のおじいさんになる人が、「ご先祖物語」といういろいろ書きとめたものがあるんですよ。それを見ると、1代からの歴史をずうっと調べて、どこから発生してどこの土地を買い、いろんなことをしたと書いてあるんです。それを見ると全部書いてあるので……。
 そのおじいさんも3年前に亡くなりまして、そのとき相続で畑が大分減ってしまったんですよ。主力のところが減ってしまったので……。今まで主力外だったところが今度は主力になりまして、桑畑が。桑の葉というのは、周りで野菜をやっていたり、農薬がかかると蚕ってすぐ死んでしまうんです。今度主力になりつつあるところで、周りが今までリンゴ畑だったんですけれども、リンゴは薬をかけるわけなんですよ。そのリンゴを最近はやめたみたいなので、母の言葉でいうと、ささらほうさら状態の桑畑だったんですけれども、そこを現在直しながら開墾して、今少しずつ桑をふやしながらやっております。
 昔ですと、お蚕は、私の父の時代は年5回。年間1トンとったときもありました。私はまだ農家を始めて3年。私がちょうど20歳になる直前で父が亡くなったんです。そのときちょうど90のおじいさんと、まだ50歳になったばかりの母、私と3人でやってきました。おじいさんも3年前に101歳になる直前で亡くなりまして……。本当に最後まで自転車に乗って畑へ行って、マンノウを振り回して畑を耕したり、元気なおじいさんでしたけれども、そのおじいさんの背中を見てきたので、やはり私も最後は畑で、NHKのテレビでも言ったんですけど、畑で息絶えるまで、それまで本当に農家に尽くして、今畑で立っている、自分が立っているこの足元が、ご先祖様がどのくらい今まで踏みしめてきた土地なのか、それを思いながらこれから養蚕農家を続けていきたいと思っています。
 今現在、畑が減ってしまって、蚕は年2回の状態です。年間でもそんなに数量はまだとれていません。畑をもう少しふやせばとれると思うんですけれども、最盛期という時期を生きていません。年間1トンとった、2トンとった。すごいところでは3トンとったところもあるそうです、日本全国聞いてみると。そういう時代を生きていないので、気持ち的にはまだグッと来るものがないんですけれども、その気持ちに少しでも近づけるようにこれから養蚕農家を続けていきたいと思います。
 簡単ではございますが、私こういう場はちょっとなれていないので、これで……。ありがとうございました。

岡本: 後ほどたくさんお話しいただきましょう。それでは、宮本さんお願いいたします。

繊維産地“日本”の活性化
みやしん株式会社 宮本英治

宮本: こんにちは。宮本です。お手元の資料、報告集の25ページですね。大きく「繊維産地“日本”の活性化」と書いてありますけれども、ここに書いてある「はじめに」からちょっと簡単に話をさせていただきたいと思います。私どもの父が戦後すぐ織物業を始めました。祖父は八王子で染色をやっていたんですが、父が織物を始めたのが、ちょうどここから7、8分ぐらいの距離のところにある、ちょうど今JRの駅の北口をおりて真っ正面に下に向かう道があると思うんですけれども、その道を真っすぐに行って700メートルぐらいのところなんですね。その道がまだ開通していないころの本当にちっちゃな道、車がすれ違えないような道がありましたけれど、ここに書いたように、わずか200メートルぐらいの小道のところに繊維関係の業者がたくさんあった。私もそこで生まれて、そこで育って、小さいときから機音を聞きながらずうっと過ごしてきたんですけれど、今はその面影が全くなくて非常に残念なんです。
 それは八王子、どこへ行っても昔はそういう機音が聞こえたんですけれど、今はもうほとんどどこへ行っても実際に聞くことはできません。それは一つには、騒音問題がありまして、うちの工場もそうなんですけれども、騒音を防止するような防音工事をやっているとか、あるいは工場が割と市内から市外、周りの地域に移っていった。特に八王子の西の端のほうですけれども、恩方とか美山とか、山の近くに織物団地が今でもありますけれど、その辺に移っていったとかいうことで、町の中には非常に織物工場が減りました。
 そんな中で織物全体も激減して、ここにあるように今はもう100軒を実際は切っています。その中で実際に工場を持って稼働しているところが80軒ぐらいかなと思うんですけれど、ただ、そんな織物が激減した中で、織物以外に、例えば染色にすれば浸染ですね、いわゆる生地を染めたり、糸を染めたりする浸染、あるいはプリントしたりする捺染とか、あるいはプリーツの加工とか、整理の仕上げ加工とか、縫製工場、あるいはいわゆる一般的にニットと言われている横編みとか丸編みとか経編みとか、そういうものの工場とか、刺繍もあったり、業種の数では世界でも有数と言っていいくらいだと思います。
 それだけ業種数がたくさんあるということと、私はそうではないかもしれませんけれど、今残っている人たちは非常に少数精鋭で優秀な人ばかりです。ですから、そういう意味では、織物を中心にした繊維の総合産地八王子として、これからまだまだ活性化していける可能性は秘めているところだと思っています。特に織物に関しては、先ほど基調講演していただいた田中理事長が先頭に立っていろいろな活性化の活動をしております。
 その中で、具体的に2番の活動内容ですけれども、これは私が携わったということでしゃべらせていただきます。
 まず、織物工業組合の活動。この中に、広巾部会といって、いわゆる生地幅の広いもの、服地ですとかインテリアとか、あるいはショールとかスカーフ、そういうものをつくっている人たちが中心になってやっている部会なんですけれど、もともとは開発部会といいまして、八王子の今後を支えていくような新しい織物をつくっていこう、新しいものを開発しようということで始まった部会で、現在では広巾部会としてやっております。
 この中で「バリエテックス展」というのがあるんです。これは、八王子の織物というのは、先ほどいろいろ話が出ましたけれど、もちろん歴史的にはシルクが多いとかいろいろなことがありますけれど、現在では天然繊維、シルクもそうですし、ウールもそう、綿あるいは麻、あるいは天然繊維以外の化学繊維、合成繊維とか再生繊維とかそういう繊維もいろいろ使って、非常にバリエーションに富んだ、バラエティーに富んだ織物をつくっております。そういう意味で「バリエテックス展」という名前をつけて、毎年、都内で展示会をやっております。その展示会には、いろんなアパレルメーカーのお客さん、あるいは小売屋さんとかお客さんが来てくださって発注してくれたり、あるいは次の活動への一つのつながりになる、そういうような展示会なんです。
 それと、ここには書いてないんですけど、織物組合としては、毎年、八王子のここであるとか、この前のそごうさんであるとか駅ビルですね、そういうところで八王子の織物の総合展というのをやっております。これは長年培ってきた八王子の織物を知ってもらおうということでやっているんですけれど、私が物心ついたころは八王子の市民というのはまだ7万人そこそこだったんですね。それが今はもう55万人を超えるという大所帯な市になったわけですけれど、その中のほとんどの人は八王子の織物のことを知らないんじゃないかと。八王子の織物を知ってもらおうということで、服地、スカーフあるいはネクタイ、着物、インテリア、そういうものを展示しております。そういう活動をやっております。
 次が、八王子商工会議所の中に繊維部会というのがありまして、八王子のいろんな業種の組合の中の7団体だと思いますけれど、集まりまして繊維部会というのをつくりまして、八王子の繊維を総合的に活性化しようということをやっております。それとともに、八王子をファッション都市にしようじゃないかと。それもいわゆる一般的なファッションということだけでなくて、生活文化全般に対してのファッションという意味の、八王子をファッション都市にしようということで、八王子ファッション都市協議会というのがあるんです。その中で私は活動をさせていただいたりしてきましたけれど、若手のデザイナーのコレクションですね、ファッションショーをやったり、あるいはコンテストを開いたり、あるいは、もうなくなりましたけれど、甲州街道沿いに「bus stop 224」というお店をつくって、そこで若手のデザイナーの服を試験的に売ってみようということでそういうショップを開いたりとか、また、今は「Tシャツ百選」、ここの会場で毎回やっているんですけれども、多くの市民の方、あるいは八王子以外の方も含めて、幼児の方からシルバーの我々の先輩ぐらいの年代の方まで含めて、多くの方にTシャツのデザイン画を募集して、自分の書いたTシャツのプリントを我々がして、それをコンテストに出して評価してもらおうとか、そういうイベントをやったり、そんなことで八王子ファッション都市協議会というのをやっています。また、今度開かれる愛知万博にも参加しようという話も進んでおります。
 また、八王子ファッション協議会というのがあるんですけれど、これはもう10年ぐらいになります。もともとは八王子ファッションセンターというのがあったんです。繊維のほうのファッションを活性化させようということで、これもやっぱり商工会議所が中心、繊維部会が中心になってやっていたんですが、その八王子ファッションセンターの発展的形をとろうということで、ちょうどファッションセンターがなくなるときに若手が集まって八王子ファッション協議会をつくろうということでつくったんですけれど、この団体は非常に変わっていまして、繊維にかかわる人じゃなくてもファッションが好きな人だったらだれでもいいよと。地域も、毎月の定例会を八王子でやるんですけれど、その定例会に出られれば、本当に遠くてもいいよと。一時は名古屋の会員なんかもいましたけれど、八王子を中心としながらも域外の人、しかも繊維も、八王子のいろんな繊維、そのほか埼玉県あたりのニット屋さんとかも参加していますけれど、そういう域外の繊維とか、あるいは、ちょうど今回コーディネーターをやってらっしゃいます岡本先生なんかも入っていただいていますけれど、あと専門学校では、文化服装学院とか東京トフィースクールとか、そういう学校さんとか、あるいはきょうもお見えですけれど、繊研新聞社さん、専門の業界紙さんですね、そういうところとかいろんな方、それで一般の市民の方も入っています。もちろん学生さんも入っていますし、一時は政治家の方とか弁護士の方もいましたけれど、そういういろんな方たちが集まって何か楽しいことできないかなと。楽しいことをやって、それが八王子の繊維の活性化につながればいいなということでやっています。先ほど言ったように、毎月1回定例会、勉強会をやったり、あとは年に1回展示会をやったりとか、そういういろんな活動をやっております。
 先ほどの八王子ファッション都市協議会と八王子ファッション協議会と似ていますけれども、八王子ファッション都市協議会でやる「Tシャツ百選」なども、実際の運営は八王子ファッション協議会でやっています。そんな形で、商工会議所とか織物組合と密接に関係を持ちながらやっております。
 それから、八王子ファッションチーム。これは八王子の有志ですね、私を含めた有志、業種がニットですとか撚糸とか、違う業種のメンバーが集まって、産地ブランド、つまり、我々のブランドをつくろうじゃないか、服をつくろうじゃないかということで、10年以上前につくったグループなんです。当時はまだ産地ブランドというのはそれほど叫ばれていなかったんですけれど、言ってみれば産地ブランドの先駆けかなと。それがちょっとタイミングが早過ぎちゃったかなというのもありまして、必ずしもうまくいったとは言えません。ですから今はありませんけれども、そういう活動をしたり……。
 あと、ニューウェーブデザイナー21。これは通称「NWD(ヌウド)21」と言っているんですけれど、いわゆる日本の繊維産業を活性化するには、市場が日本だけでなくて、グローバルに世界を市場として、輸出ということを念頭に置いて頑張ってみようということで、そのときにデザイナーがまず出ていってもらおうと。今、例えば三宅一生さんとか山本耀司さんとか、あるいはブランドでいえばコムデギャルソンさんとか、世界の特にパリを中心に国際的に活躍している人たちがいます。その次の世代ですね、私は「第2世代の国際派デザイナー」と言っているんですけれども、そういう若手のデザイナーがなかなか育たない、芽が出ないということで、才能はあるけれども知名度とか資金力とかそういうことでなかなかブランドが確立できないようなデザイナーを集め、あるいはデザイナーの仲間同士で声をかけ合ってもらってつくった会なんですけれど、1人のデザイナーが1つの生地をつくると、たくさん使いませんから非常に細かくなって、コスト的に高い生地になってしまう。それを大勢のデザイナー、例えば10人とか15人が集まって、織物というのは経糸のコストが一番高くなるので、経糸を共通にして緯糸を変えたり、あるいは組織を変えたり、そういう形でそれぞれデザイナーのオリジナリティーのある素材をつくったり、あるいは展示会を合同でやったりとかして活動しています。
 その中では、コレクションを現在やっているデザイナーとか、若手の中では爆発的な人気を持っている「mina」というブランドとか、いろんなブランドがありますけれど、たくさんの若いデザイナーが出てきました。今、私はその活動から離れましたけど、そういうグループをつくったりしました。
 次に、テキスタイルネットワークですね。これはきょうのテーマとちょっと似ているんですけれど、日本全国を1つの産地みたいな形でとらえまして、特に将来輸出にかけようとか、あるいは将来も続けて織物をやっていこうとか、そういう意識の強い人、しかも、つくっているものが非常にオリジナリティーがある、非常にクリエイティブなものづくりをしている、そういう人たちを各産地で大体1社、一本釣りで集めた形で、本気の商売で展示会をやろうと。
 実際こういう形の展示会というのは、ジャパン・クリエーションという大きい展示会があるんです。ただ、ジャパン・クリエーションは余りにも大き過ぎて、来たお客さんがなかなかゆっくり見ていられない、その場で商談ができないということで、非常にコンパクトな形で商談がゆっくりできるような形の展示会ということで始めたんですけれど、こんな団体をつくって今活動をしております。
 最後になりました。私どもの会社は、先ほど父が始めたと言いましたけれど、もともと着物をやっていました。当初は女物の着物、その後、男物の着物に移りまして、今から30年ぐらい前、私が会社に入ったときにまずやらされたのが工場の中で糸繰りとかいろいろやりましたけど、その後に営業を今度やらされたんですね。営業は、都内とかそういうことじゃなくて、地方の小売屋さんを中心に回るとか、あるいは地方の問屋さんを中心に回るような営業活動をやれということで父に言われたんですけれど、その当時は男物が非常に忙しくて、受注に供給が追いつかないとか、生産が全然間に合わないような状態だったんです。全国を回りますと、実際はもうほとんど動いてないような、いわゆる着物の長い流通の中での注文はありましたけれども、先へ行くとほぼ止まっているみたいな状態だったんです。
 これは将来的にまずいと。自分のところが幾ら忙しくても、流通の段階でだんだん川下へ行けば行くほど、実際の需要が見えてくる。「みやしん」に入って織物を始めた以上は八王子の織物を絶対に残すんだ、「みやしん」の織物を未来への遺産として、次の世代を育てるために残さなくちゃいけないということで、父に相談したんですね。このまま着物だけやっていたらだめだよ、ほかのことをやらせてくれということで始めたのが服地なんです。
 服地を始めるに当たってはいろんなことがありました。自分のところの生産機械ですね、織機がどうだとか、それに対してほかの産地の織機はどう、海外の織機がどうとか、それに対してうちの織機の汎用性はどうかと。汎用性によってどんなものをつくったらいいのか。例えばそれだったら一番織りにくい麻でスタートしようじゃないかと。麻は、それじゃ世界でどこで織っているんだ、麻の織物。イギリスにあったりイタリアにあったり、日本でいえば滋賀県のいわゆる湖東産地にあったりとか、能登川地区ですね、そういうところにないものをつくろうと。
 ないものといったら、経糸は麻だけれども緯糸は麻だけに限らずやろうと。あるいは麻というと夏の素材だけれど……。ちょうど始めた当時、1970年代の後半でしたけれど、春夏素材だった綿が、ウインターコットンと言われて冬にも随分使われ出したわけです。それだったら、綿がウインターコットンだったら、リネンあるいはラミーだって冬物があってもいいじゃないかというので、ウインターリネンとして、春物、夏物、秋物、冬物、それも薄いシャツ地とかブラウス地からジャケット地、コート地、全部、経糸は麻でやっちゃおうということで始めたんです。
 始めたときに、先ほども言ったように、緯糸の素材を変えたり組織を変えたり。特に、一番重要なのはやはり組織ですね。今うちの織物というのは立体的な織物が多いんですけれど、組織によっていろんなものができる。例えば今うちでやっているもの、織物の基本的なものというのは経糸が12本なんですね。その12本が大体2ミリぐらいです。2ミリの中に経糸が12本あるんですけれど、緯糸も同じ密度で織れば2ミリ四方ぐらいの面積ができるわけですよ。その中で経糸と緯糸の組み合わせがどのぐらいあるかというと、12掛ける12で144の交点がありますから、その交点の経糸を上にするか下にするかということは、2の144乗です。2の144乗というと、281兆の3乗ぐらいの組み合わせがあるんですよ、たった2ミリぐらいの中で。それを追求していこうということで始めたんですね。その中で、今最も得意としている布は、立体として発想した織物です。
 まとめとして、シルクというのは、かつては日本の輸出の花形だったんですね。しかも現在、化学繊維は日本でつくったりとか多いですけれど、天然繊維で工業生産として自給可能なのはシルクしかないわけですね。ですから、何とかして我が国で唯一天然繊維で自給できるシルクをさらに増産していただいて、製糸業が活性化するというような形での考えを持ってこれからやっていきたいなと思っているんですけれど、そのためには、例えば消費者が見た場合、日本のシルクと中国のシルクと、同じように織ったスカーフのどこが差があるんだと。なかなかわからないわけですよ。そこを何か一つオリジナリティーというか、差別化できるようなこと。
 例えば製造工程で、先ほど農薬は蚕は全然だめですよと言いましたけれど、製糸をする段階で、例えばホルマリンを使ったりしているわけです。ただ、ホルマリンを使っていない例えば碓井製糸さんとか――ほかにもあるかもしれませんが、そうすると、そういうような最初の段階から最後の段階まで、薬品というか、そういうものを全く使わない安心なシルクは例えば日本のものだけだよ、だから日本のシルクを使おうとか、そういう形でやっていったり、あるいは今ちょうど群馬県の富岡製糸――ご存じの方多いと思うんですけれど、富岡製糸が世界遺産に登録をしようということで、日本では初めて、近代化の遺産ですね、この準備というか、今いろいろ活動しています。例えばこういう活動と合わせて、ホルマリンを使わないような安心なシルク、しかも世界遺産になるような工場でつくられているシルク――実際、富岡製糸は今操業していませんけれど、何か一大キャンペーンでも打って日本のシルクを活性化できたらいいなと思っています。
 ただ、現在のままですと、大体私どもが使うシルクですとキロで5,000円ぐらい差があるんです。キロの5,000円の差というのは、例えば150グラムぐらいの軽いスカーフで、上代で4,000円から6,000円ぐらい違います。300グラムぐらい使った幅の広いスカーフで1万円ぐらいは上代で違っちゃいますので、その差をカバーできるような差別化というか、オリジナリティーを持ってやっていけたらいいんじゃないかなと。
 そんなことを思いながら今回のシルク・サミットのパネラーとして参加させていただきました。どうもありがとうございました。

岡本: では、和田さんお願いいたします。

ネクタイあれこれ話
叶ャ和ネクタイ研究所 和田至弘

和田: ご紹介いただきました成和ネクタイの和田でございます。
 一つ謝らなきゃいけないのは、皆さんきちんとレジュメをつくっていただいて、私は簡単に、ネクタイのあれこれ話とか、ネクタイの商品づくり、今後の課題、この3つしか書いてございません。文章で書こうかなと思ったんですけど、あっちこっち飛ぶんじゃないかなと思ってなかなか書き切れませんでしたので、ご容赦願いたいと思います。
 私どもの機構として、本社というか、親会社が東京の神田にございます。約70年ほど創業して、ネクタイメーカーとしてやっています。43、4年前に、メーカーは自家工場を持たなきゃいけないということで、先ほどいろんなお話がありましたように、八王子がネクタイ、あるいは絹の一つの産地だということで、私のおやじが、最初は昔でいう浅川べりのところにネクタイの工場をつくりました。今はJRの八王子駅の500メートルぐらい手前の左側、ちょっと芝生があるところに織機24台、それでシルク100%のネクタイを成形、そしてまたカイシ、製織という形で織っています。
 会社の話はこの辺にしまして、何で選ばれたのかなと。先ほど来、市長さん、理事長さん、八王子はネクタイの一大産地であると。何年か前は多少違ったんですけど、今現在、ここ何年かは、ネクタイにおいての素材というか品質、95%あるいは97、8%がシルクです。これは日本はもとより、後でまたちょっとお話ししますけど、中国あるいはイタリー、その他、諸外国の生産しているのも全部そうです。私ども衣料品というか、そんな中でこれだけのウエートがシルクに対してあるアイテムというのはネクタイが一番じゃないかなと思うので、そんなことを加味してご指名を受けたんじゃないかなと思います。
 20年前ですと、ウールだとか、麻ですとか、綿だとか、あるいは化合繊のポリエステルだ、アセテートだ、レーヨンだと、いろんなものが、それも必ずほとんどシルクとの交織、混紡という形でネクタイは推移していまして、今は多分99%ぐらい、織物のネクタイは当然ながら、プリントのネクタイもそうです。編みタイと称されるニットタイも、昔はポリエステルだったのが今はシルクが主体になっています。そんなことで、ネクタイが矢面になったんじゃないかなと思います。
 ネクタイあれこれということなんで、今の普通のネクタイ、私も締めています。1メートル四方で大体4本取れます。ですから、帯だとか、和装だとか、そういうものに比べたら非常に用尺が低いので、生糸の使用量としたらそんなにないんですけど、現在はネクタイイコール絹と言っても過言ではないと思います。
 それは前置きとしまして、「何故ネクタイをするの?」、こんなばかな単純なことを題名にさせていただきました。何で締めるのか。いろんな考えがあると思います。身だしなみだとか、おしゃれのポイントだとか、あるいは人によったら、みんなが締めてるからしようがなしに締めるんだと。最近はノーネクタイ、ことしなんか特に猛暑でしたからノーネクタイあるいはカジュアル志向ということで若い人たちから多少減っていますけど、いずれにしても、皆さんもご存じのように、初対面あるいは相手と会って一番目につくのがネクタイじゃないかなと。なおかつ私ども男性は、頭のてっぺんから靴まで、帽子も必要品です。肌着も必要品。どんな形態にしてもシャツも必要品。スーツ、これはドレッシーなスーツ、あるいはジャンパー、カジュアルジャケット等々ありますけれども、やっぱり防寒具として必要。ベルトも必要。パンツ、いわゆるズボンですね、これも必要。靴下も靴も。でもネクタイだけは、別になくても生活ができる。なぜなんだろうと。
 これは私の話じゃなく、ある人と話しながらまとめてみたんですけど、要は男の顔というか、そんなところからして、何十年か前に、あるフランスの著名なデザイナーが来日されて、司会の方が「Aさん、男のおしゃれを一言で言いますと?」という質問を投げかけたんです。そうしたら、その著名なデザイナーさんは一瞬ちょっと戸惑ったんですけど、一言なので、武器と答えたそうです。なぜ武器なんだろうと。
 ご存じのように、洋服というのは、私も戦争は経験ないんですけど、戦争からの格好がアレンジされてというのが多いと思うんです。トレンチコート。トレンチというのは、塹壕とか壕とかいう意味で、ここに襟がついていて手榴弾をぶら下げたり、寒さを防いだり、あるいはセーラー服は女学生もするんですけど、あれは泳ぎやすいとか、そういう発想から結構、一般的になったようです。
 ネクタイもローマ時代からあったそうです。これはネクタイという形じゃなくて、ネッカチーフみたいな、首に巻くハンケチみたいな。我々の業界のあれからすると、400年か500年前、クロアチア軍ですか、それが出征というか、戦争へ行くときに奥さんや恋人たちから、これをしていくと勝てるとか安全だとかそういう意味で、戦争に行くとき必ず贈ったそうです。それが起源とされています。
 今考えてみると、さっき申しました武器、昔は戦争へ行ったんですけど、今はビジネスマンとして、言いかえれば企業戦士というか、これもやっぱり戦うというか、「男性、一歩出れば7人の敵がいる」とよく言われていますけど、戦う一つの手段という形で今日まで存在しているんじゃないかなと思います。
 動物にしても、皆さん、ライオンのたてがみだとか、クジャクだとか、これは首ということだけじゃないんですけど、いっときはやったエリマキトカゲが相手を威嚇するときにパッと首を立てたりして、戦うというと、大体、動物は、ご存じのように相手の頸動脈というか、口か何かで相手の首をねらうのが、えてして多いんじゃないかなと。そんなところから、安全というか何か保護をするというか、そういう精神的な本能的なものでネクタイというのが存在しているんじゃないかと。
 これはあくまで、こじつけもあるかもしれないので余り信用しないでいただきたいと思います。そういうこじつけを生みながら、首を飾るとか、そんなことを何でするんだろうという、一つの語源というか、発祥じゃないかなと。
 昔、動物でも、洞穴だとかにいたのが、さあ、といったときに、そうやってたてがみをあれして外へ出ていく。我々も自分の家から今でも、「さあ、戦いに行く」ということで、朝、それがいいネクタイなのか悪いネクタイなのかは別にして、ビシッと締めて気持ちの引き締めというか、「さあ、これから行ってくるぞ、仕事をしてくるぞ」という意味合いもあるんじゃないかなと思います。
 あれこれということで、今、ネクタイ、これも私どもの推定で、日本で大体4,000万本ぐらいつくったり売ったりしているんじゃないかなと。多いときですと、生産あるいは販売、5千何百万本、6,000万本近いときもありました。少ないときで3千何百万本というのがありました。
 ただ、最近はノーネクタイということもあるんですけど、昔は、スーツが売れなかったり、あるいはシャツが売れなくても、ネクタイはある一定の線の上下が非常に少なかった。減りもしないし、増えもしない。それだけ一番手ごろで、変化しやすいアイテムだったんじゃないかなと。今、昔より若干減っています。と同時に、最近は服地もそうだと思うんですけど、ネクタイは多品種、短サイクル、少ロット、繊維の中で最たるもの。ちなみに、当社の工場で年間30万本近く織っているんですけど、年間でつくる柄が 1,000柄ちょっとぐらいになりますかね。ネクタイは、1柄、1デザインで3配色から4配色とります。紺ベースだ、えんじベースだ、ワインベースだ、あるいは、今は黄色だとかそういうのがはやってますけど。そうすると、1,000柄あって、見本というか、織り出しという形でとるのが少なくて8色、下手すると最近は16色だ、18色だ、20色とってくれと、1柄で。実際に決まるのが3配色か4配色。そうすると、本当に微々たる1つのロットというか……。
 今、織物で私どもが1つの単位といいますと、1色で30本前後、1柄で大体120本というのが私どもの業界の最低ロットである。プリントですと、ネクタイのプリントというのは、昔の着尺の染めから来ていますので小幅の、いわゆる50センチの1反、13.5メートル。そうすると、26本から28本が1色のロットになります。それでまた3配色、4配色。
 ですから、先ほど申した八王子の工場では、5、6千点ぐらいは見本をとったり、全部配色を入れたりしているんじゃないかなと。本社でというか、メーカーとしてあれしているのが、手前どもで200万ぐらい扱っているんです。まあ、数えたことないんですけど、5,000柄から1万柄ぐらい。それだけ非常に多品種というか……。ただ、シルクは間違いない。少ロットである。短サイクル。これから新しく柄をつくってくれよと言ったときには、1カ月あるいは3週間で何とかやってくれよということもあります。紋紙だとかそういうのがあったり型があったりしますと、何度か染めたり織ったり、あるいは縫ったりして、1週間でやってくれよとかいう、本当に厳しい……。また、それをやっていかないとなかなか次の追加がいただけない。ま、そんな現状です。
 あれこれで時間が来ましたので、最後に今後の課題ということで、先ほどもちょっと、「みやしん」さんとか、いろいろ話が出ました。昔、何かに書いてありましたけど、今カネボウさんがああいう状態になって……。戦前なんか、今のトヨタと一緒の、日本の私企業でナンバーワンの会社だったそうです。統計的にどこをベースにしてというのはちょっと書いてなかったんですけど、何年か前に書いてあった。日本で、昔は40万トンの生糸がとれたそうです。今は0.1トンだそうです。約400分の1に縮小されました。先ほどからの話で、養蚕をやられている方から、製糸だ、撚糸だ、あるいは染めたり、製織したり、2,000万人ぐらいいたそうです。今は1万人がいるかいないかという就業人口といいますか……。
 ちなみに、これは大体正確だと思うんですけど、今、中国は生糸が70万俵ぐらいとれる。あと、ご存じのように、日系人があれしていたブラジルのほうの、今、ブラタクと称される、これが2.7万俵とれるそうです。日本が0.2万俵。あと産地といいますと、少量でインドだとか、ウズベキスタンだとか、そういうところが多少あるそうです。韓国とかあれは今は微々たるというか、ほとんど数字にならない。こんな現状を踏まえながら、どれだけ日本の生糸、絹産業が衰退してきたか、これがきょうのテーマで今後の課題じゃないかなと思います。
 さっき岡本先生から綿の話が出ました。ほかの業界なんですけど、たまたま私も多少あれしているんですけど、綿の業界で海島綿協会、海島綿という綿がある。これは何だといいますと、南米というか、西インド諸島の地中海でしかとれない。綿の中で、いろんなデータからするとあらゆる面で、つやといい、風合いといい、いろんな染色度といい、それがナンバーワンの綿。アメリカだとかエジプトだとかスピューマだとか、衣料の中の6割から7割、綿を使用しているそうなんですけど、本当にそこしかとれない。それを日本が独自で協同組合等をつくって、みんなで出資して、バルバドス、あるいは最近ですとメキシコ湾のベリーズというところ、そこに種を植えて収穫して、綿で日本に持ってきて紡績をする。なおかつそういうメンバーをきちんと決めて、これはほとんど大手の一流どころなんですけど、ハンカチならハンカチ、あるいはレディースのブラウスならブラウス、何々は何々と1業1社しかメンバーに入れない。ある一定量しかないし、キロ当たり絹の3倍ぐらいの値段します。それがまた最近いろんな形で引く手あまた。そのかわり協同組合の管理を非常に厳しくしています。
 シルクも言うなれば、先ほど中国の話をしましたけど、価格の問題、あるいは量的な問題は――私は製糸工場も見に行きましたし製織も行きました。もう絶対勝てません、日本がどう逆立ちしても。先ほどのお話にもありましたように、付加価値をどうやって維持するか、これが日本のシルク産業というか、これをどういうふうにしていくか、これが大きな課題じゃないかなと思っております。
 生意気なことを言って申しわけございませんが、たまたま綿の業界でそういう業界があります。それと同じようというのは無理としても、日本のシルク、日本のここしか、もう日本しかできないんだというようなシルク。私どももネクタイをやっていて、絹の差別化というのが非常に難しい。ウールですと、ビキューナがあったり、カシミアがあったり、あるいはタスマニアのどこどこの、すごいいいウールがあったり、あるいは梳毛糸があったり、それだけで価格差というのがとれるんですけど、シルクの場合は、絹100%という品質だけですと、これはもう本当にピンからキリまで、値段も、シルク100%、どこでも500円でもいいじゃないか、1,000円でもいいじゃないかというような十把一絡げで見られる。中国が出てきて余計またそういう一つの流れ。これに負けない、本当にジャパン・シルクじゃないんですけど、場所はともかくとして、そういう一つの育て方をしていく必要があるし、私ども二次製品を扱っている上では、ぜひそういうものを皆さん方で開発していただければなと思います。
 ちょっと時間があれなんですけど、最後、手前どもの工場によく百貨店のネクタイ売り場の若い女性だとかが研修に来ます。そのときにこういう繭を1つあげて、ここに文字を入れています。それをちょっと読まさせていただきます。
 「繭 西暦紀元前2,650年ころ中国に生まれ、日本では、紀元前660年ごろから糸として使われたという説が有力視されています。1.5ミリメートルほどの卵は、約10日間で繭に生まれ変わり、その後、4回の眠りをとり、約25日後から糸を出して繭をつくり始める。繭1個からおよそ1,500メートルの糸がとれ、その数本を寄り合わせて1本の生糸となる。ネクタイを1本つくるのに約200個の繭を必要とします」。
 これを渡すと、若い人たちは「ヘエー、これが繭なの。ヘエー、初めて見た」。もうほとんどです。きょうは皆さんベテランのキャリアの人がたくさんおられて、若い人は1割いるかどうかですけど、これから次の若い人たちにロマンだとか希望だとかいう伝承を持たせるために、そういう意味で、繭だとか生糸だとか、何か若い人たちにアピールできることもこれからの一つの大きな課題じゃないかなと。
 本当に生意気なことを言って申しわけございません。時間が過ぎて申しわけございません。以上で、終わらさせていただきます。ありがとうございました。

岡本: 続きまして、坂口さんお願いします。坂口さんは、唯一、外から八王子、それからシルクを見ていただきます。

話シルクの背景にあるビジネス環境変化を考える
有限会社シナジープラニング 坂口昌章

坂口: 坂口です。よろしくお願いします。ネクタイを締めてこなくて申しわけございません。
 僕は、先ほども出ましたジャパン・クリエーションという見本市の総合コーディネーターですとか、あるいは群馬県桐生市の「桐生TPS」という産地展のお手伝いをやっていたり……。もともとアパレルの出身です。僕が最初に就職したのはニコルという松田光弘さんというデザイナーの方の会社でありまして、もともとは八王子の和装の問屋さんの出だというお話は聞いております。お兄さんの松田 章さんとも、その後もずっといろんなところでお世話になっておりました。そういうことで、何となく八王子というのは、Tシャツをつくりに来たり、ニット、あるいはプリント、捺染ですね、それから靴下とか、いろいろお世話になったところでもあるので、岡本先生に呼ばれて参ったわけでございます。
 僕がこれからお話しすることは、外部の人間ということもありまして、余り皆さんがお話しになりたがらないことをお話ししようと思います。
 まず、シルクには非常に悩ましい問題がございまして……。先ほど養蚕農家の方もいらっしゃいました。養蚕農家の保護という問題とシルクの製品をつくっている業界。これははっきり言って利害関係がございまして、例えば機を織る人間とか糸をつくる人間にとって原料が安いほうがいいに決まっているわけですから、なるべくだったら安い繭を手に入れたいと思いますし、もちろん、養蚕農家の方は、なるべく高く繭を買ってくれなければ採算が合わない。正直申し上げて今も採算は合わない状況がずっと続いているわけで、それを国のほうで補填しております。
 国際価格と日本の繭の価格というのは非常に差がありまして、中国から例えば繭とか生糸を今自由に……今後自由になるということが言われていますが、今までのところは国内の養蚕農家の保護のために高い価格でそれを販売してきました。その分を農家の人に補填するというような形をずうっと続けてきました。そのおかげで、例えば糸を買って生地を織る人とか、今京都の西陣なんかに行くと惨憺たるありさまでありまして、ほぼ崩壊状態ですね。それこそ十何代、20代続いた機屋さんがどんどん倒産しております。
 もっと根本的なことを言いますと、生産者の問題ともう一つ消費者の問題があります。消費者の方が、例えばシルクは何となく体にいいとか、ナチュラルだとか、風合いがいいということで着る。その消費者の方が選ぶシルクの問題と生産側の問題が2つありまして、生産側の問題の中に、今言った養蚕農家の問題と繊維の加工という問題があります。実は僕もあるところで、日本産のシルクを普及させる、それこそ先ほどの付加価値を上げるための例えばブランド、マーケティングみたいなことを研究しようという会に参加した経験があるんですが、そのときにいろんなことを勉強しました。
 1つは、まず製糸工場の問題がございます。製糸工場は何年か前に七、八軒と言われました、国内でですね。日本全国集めて七、八軒。今はもう少し減っているかもしれません。もちろん製糸工場も基本的には経営が成り立ってない状況です。国産の生糸とか、国産のシルクの定義というのは、日本の製糸工場で糸を引いたものを国産糸と言っております。ですから、日本の繭であるということは定義に入っていないので、中国の繭を輸入して日本で引いた糸は国産のシルク糸ということになっております。これも恐らく皆さん知らない方も多いと思います。日本全国の繭をすべて集めても七、八軒しかもう残っていない。その七、八軒の1軒分にも足りません。ですから、もうほとんどが中国製の繭をただ日本で引いているだけというのが国産糸の実態でございます。
 では、例えば日本の繭をブランドにするということで、日本の繭は本当にいいんですかという話をどんどん聞いていくわけですね。日本の繭は何がいいんですかというと、「正直言って何がいいというのはないんだよね」という話になってしまうわけです。いろんなところで今特産の繭をつくっていますけれども、すごく少量しかつくってないので品質がどうしても安定しません。やはり産業としてはある程度の規模でつくらないと安定しないということがあります。「今どこの糸が一番いいんですか」と和装の機を織っている方に聞くと、「ブラジルの糸が一番いいんじゃないか」という話が出ていました。ブラジルの糸は、カネボウさんとかが技術指導へ行って、糸を引いていますので、今でも品質が非常に高いのです。
 では、中国シルクはだめなのか。よくファッション雑誌にはイタリアンシルクと中国シルクの違いみたいなことが書いてありますが、イタリアで蚕を飼っているところはもうないわけで、イタリアシルクと言われているのは、中国のシルクの糸を持っていって織っているもの、あるいは中国で布までつくったものを例えばコモとか、そういう産地に持っていってプリントしたスカーフです。一般の消費者の方は「イタリアシルクは風合いが違うわね」と言っていますけど、ほぼ中国シルクでございます。ですから、中国シルクとイタリアシルクというのは、あれは製品の生産地がイタリアだから「メイド・イン・イタリー」と言っているだけであって、生地は中国というのが実は多いわけです。
 それから中国シルクの品質ですけど、それもよくよく聞いてみるとばらつきがあるという話を聞きました。ばらつきがあるんだけれども、ちゃんと製糸工場を指定してきちっと管理しているところは、日本のシルク、日本の製糸工場よりいいんじゃないかという話も出ました。僕は日本の製糸工場の人に、「中国よりもっといいシルクを引くことはできないんですか」と言ったら、「すごく遅く引けば糸というのはいいよ」と。だから手紡ぎ、手で回すのが一番いいんです。機械でやると引っ張られますから。ところが、それが今採算ぎりぎりで、もうこれ以上は落とせないという速度で引いているそうです。だからもっと遅くすれば良いものを引けるんですけれども、もうそれ以上は勘弁してくれということです。「中国はどうなんですか」。「いや、中国はもっと遅く引いているところがあるんじゃないの」という話が出てくるわけで、「じゃ中国のほうがいいじゃないですか」、「いや、中国のほうがいいんですよ」、ということになってしまいます。
 もっと言っちゃうと、糸をまず製糸工場で引いて生糸にした後に例えば御召をつくったり、実際機織りするときは下撚りをするわけですね。幾つかの糸を撚って合わせないと織物にならないのです。その段階で海外糸と混ざっている場合もあります。国産糸と海外糸を一緒に撚ってしまう。そうすると、例えばブラジル何本、何とか何本、中国何本で撚っている。それがまた海外のシルクの糸であっても、日本で織られれば日本製の帯でございます。じゃ、一体、日本のシルクというのは何なんだろう。どこの定義をもって日本のシルクと言っているんだろうというのは、非常に難しい問題であります。
 ですから変な話、幾ら日本で繭を一生懸命つくっても、製糸工場がなくなってしまえば、あとは本当にアマチュアの方が趣味でやる。一つの市場として、趣味で手織りとか手紡ぎというのもいいとは思いますけれども、産業としてはもう非常に厳しい状況です。
 社員は皆さん高齢化して、はっきり言ってもう定年間近だったりする。ひょっとしたら定年も過ぎている人を無理やりお願いして使っているところが実は多いんですが、「幾らぐらいの給料だったら経営が成り立つんですか」と言ったら、「まあ、いいところ四、五万だよね」という話です。
 結局、昔、日本の人件費が非常に安いころはすべて成り立っていたわけですね。多分、養蚕農家も成り立っていたし、機屋さんも製糸工場も、何も海外から入れなくたって十分安いものができたわけですが、今、日本は世界一と言っていいぐらい人件費も高くなっている。逆に言えば豊かになっているために、その産業が実質的にはもう崩壊しているのです。まだ今の時点では、例えば中国から自由にシルク100の生地を輸入してくることはできないんです。
 ところが、ここがすごい問題なんですが、シルクの製品は自由なんです。ネクタイは自由に製品として入ってくるわけです。ですから、これは加工屋をつぶしているとしか思えないわけですね。つまり、原料を高くしておいて製品は自由に入れるということをやっているわけです。別に制限がない。
 先ほどから綿の話が出ていますが、綿の今の状況というのは、例えば大阪南部の泉州という産地があります。ここの機屋さんに聞くと、大体、日本の綿糸の糸値と中国の綿布の値段が一緒だと言っていました。意味わかりますか? つまり、糸を買って緯糸を打たないと織物にならないわけですよね。経糸を成形して緯糸を打つ。緯糸を打つ前の価格、だからただで仕事をしてとんとんだということですね。ということは、もう同じものはつくっても意味がないし、ただでつくれるわけがないので、中国でつくらないものをつくるしかない。そのぐらい日本と中国の人件費の差があります。
 お役所って本当におもしろいところで、農水省は農家の保護を考えるだけで決して機屋さんのことは考えてくれないわけです。例えば日本の縫製している人、縫製人口もそれこそダーッと下落の一途をたどっていますが、大体人件費が今中国だと月給1万 5,000円ぐらいかなと思います。高いところだと2万円ぐらい。日本だと最低賃金がちゃんと決められて、週何十時間しか働いちゃいけない、残業代はつけなさい、すべて決められているわけです。でも製品は自由に入ってきますから、つまり国内で縫製というのは10倍の工賃を払って……。縫製業は、じゃやめろということなんですかということを厚生労働省の人に聞いても、もちろん何とも答えは返ってこないんです。
 つまり、個々の人はみんな自分の担当を一生懸命、労働者の保護だとか、農業の保護とやっていますが、トータルな戦略がないんですね。トータルな産業として、じゃ何を伸ばすの。例えばデザインを伸ばす。先ほどのデザイナーを育てる。デザイナーを管轄している省庁というのはないですから、デザイナーを応援してくれる政策というのはなかなか出てこないですね。
 シルクというのはもちろん非常にいい素材だし、例えば友禅だったり、あるいは御召だったり、西陣の技術の滅びる話をここで僕がすれば、皆さん絶対、守らなきゃいけないと思うと思います。そういう技術は守らなきゃいけない。だけど、それは何でそうなったかというと、そういう例えば養蚕農家を守るためのことなんですよと言うと、そのときはそうだ。おじいさんのときからこうやってやって、私は畑の上でと言われると、それはもう養蚕農家を続けてもらいたいと僕も人情としてはやっぱり思ってしまう。でも、このことがフラットにシルクの問題を考えられない、いつもどっちかの視点に立ってみんなで頑張りましょうということになっているような気がしています。
 今度消費者のほうから考えますと、安くていい商品があれば消費者は一番うれしいと思います。ですからシルクも、中国なんかシルクは本当に安いですから、それが本当に日本にそのまま入ってきちゃったらうれしいかもしれません。今、片方で着物業界が崩壊しようとしています。その背景は、一つは、着物の古着がありますよね、古着をリメイクしたり、パッチワークしたりするのが女性の方は結構好きで、特にミセスの方、百貨店の催事場に行くと今随分出ていますが、あれはもう和装のメーカーにしてみたらあんなショックなことはない。つまり、自分が売ってタンスの中に入れてもらったら、それが市場に出てくるなんてことは想像もしてなかった。ところが、ここに来て、ながもち屋さんだ、タンス屋さんだということで古着が出てきて、それを皆さん切り刻んでまた洋服にしたりして、それがまたいいわけですね。正直言って、いいわけです。ですから、生産者と消費者というのは利害関係があるわけですから、そこをどうするんだということもあるのかなと。
 それから、もう少し先のことを見たときに、僕はシルクにすごい可能性があると思っています。普通の蚕は桑をえさにしているわけですが、野蚕は、例えばクヌギの葉っぱを食べているやつもいれば、ほかの葉っぱを食べているやつもいるわけですね。つまり蚕のすごいところというのは、葉っぱを食べてたんぱく質、繊維を出すということです。これは草を食べて牛乳を出している牛と余り変わらないと言えば変わらないんですけど、いずれにせよ、セルロースを食べてそれがシルクになる。だからもし古新聞を食べてシルクを吐いてくれたら、あるいはおがくずとかを食べてシルクを吐いてくれる蚕がバイオテクノロジーか遺伝子操作でできちゃうと、シルクはもう劇的に値段が下がります。
 ただ、もしそういうシルクができて劇的に値段が下がると、今のシルクをやっている業界の方はほとんどみんなまた大改革をしないと、今の既得権を持っているところは9割ぐらいの人は倒産、またつぶれてしまうのかなと。じゃ、そういう環境問題にもいい、非常に未来に可能性のあるシルクの研究をしちゃいけないかというと、そんなことは当然ないわけですから、お客様というか、生活者にとってのシルクの可能性というものと、それから生産者側にとってのシルクの可能性、僕はどっちを優先すべきかといったら、やっぱり生産者あるいは産業というのは技術革新とか経済によって変えざるを得ない。冒頭の岡本先生のお話に戻りますけれども、やっぱり変えざるを得ないのかなと。ただ、特に製造業の場合は、絹だけじゃないんですが――これは農水省じゃなくて経済産業省のほうですが、補助金をばらまいたためにその変革する力が失われているわけですね。非常に保護主義的になっていて新しい人が入ってこない。何かそこにも問題があるのかな。保護を語るのか次のグローバルな産業を語るのかということを、頭を整理して話し合う必要があるような気がしております。
 ということで、一応僕の話を終わります。ありがとうございました。

岡本: それでは、小此木先生お願いします。

多摩シルクライフ21研究会の活動報告
多摩シルクライフ21研究会 小此木エツ子

小此木: 小此木でございます。では、活動報告をさせていただきます。
 ただいまは、大変厳しいお話を承って、お先真っ暗なような感じがしているんですけれども、その中でも少しずつ少しずつ未来へ向かって一生懸命活動してまいりましたので、それを聞いていただければと思います。
 いつか学会がありましたときに、学会長に「これからの蚕糸業をどうしましょう」と伺ったら、「小此木さん、生き残れよ。生き残った者たちが次の時代を変えていくんだよ」と強く言われたんですね。あの言葉が私すごく耳に残っているんです。ともかく私どもは生き残ろうということで一生懸命やっておりますので、きょうは本当につまらない話になると思いますけど、ご清聴いただきたいと思います。
 初めに、研究会の発足から今日までの経緯を簡単に申し上げます。多摩シルクライフ21研究会は、平成4年秋、現在の独立行政法人東京農工大学が、地域との連携というテーマで「科学技術展’92」及び「絹まつり」という展示会を開催したときにご参加くださいました、養蚕、製糸、精練などの素材研究家、それから絹伝統工芸、染織家、デザイン、縫製、流通業を初め、一般の絹愛好家の皆さんが引き続き活動しておりましたものを平成7年に多摩シルクライフ21研究会として正式に組織し、現在に至っている研究会でございます。
 活動内容は大きく3つあり、1つは東京ブランドシルク事業、2つ目は生涯学習、3つ目は各種絹加工技術の開発研究でございます。
 では、それぞれについてご説明する前に、まず、私ども研究会の人員構成について、ちょっとご紹介させていただきます。
 まず、多摩織の織元、中山寿次郎先生、そして草木染めの権威、山崎桃麿先生が在籍しておられます。中山先生は一時病床に伏せておられましたが、多摩織の伝統技術を全国の600人に余るお弟子さんに普及され、その中から伝統工芸士も大勢育っておられます。先生が一日も早く、もとどおりにお元気になられますことをお祈りしております。
 草木染めの山崎先生は、今回のサミットに当たり、「日本の色 多摩の色」と題して草木染め26種を染め分けてくださっています。同じ梅の木でも明礬で媒染したものとお歯黒鉄で媒染したもの、あるいは草木染めで一番問題になるのは温度なんですけれども、温度が低いほうがいい、高いほうがいいとよく議論になっていますね。ですけど、先生は、70℃、90℃、煮沸したときどうなるかというふうに染め分けて、11階に展示してございますので、ぜひごらんいただきたいと思います。うちの会員の方はほとんど草木染めを使用しております。
 このお二人は別格でございまして、その他の研究会員は、養蚕農家を中心に素材に携わる方が9名おられます。この素材部があるのが本研究会の特色でございます。地域の自然や、そこに住む人々とともに生活し、活動していく上で、桑、蚕、糸の部分は切り離せない重要な部分でございます。私どもは、高い技術と責任感の強い小谷田さんという養蚕農家に恵まれ、特殊品種のすべてをともどもに飼育させていただいております。小谷田さんは高齢になられましたが、今後も稚蚕飼育は続けられますし、またことしから武蔵村山の2軒の養蚕農家が小石丸等を飼ってくださることになりました。この素材部の皆さんが生涯学習や各地の農業祭を初め、各展示会の実演のすべてを受け持ってくださり、先日の高島屋の日本の絹展や、つい先日の法政大学地域センターで行われました絹にかかわる講演会でも大好評でございました。11階でも実演を行っておりますので、皆さんに声をかけていただければ幸いでございます。
 次に、東京ブランドシルク事業のその後の経過報告をさせていただきます。
 最近、諸先生方もお話しなさったように、特に仕事を進めるに当たり、蚕糸を取り巻く環境が大変厳しくなってまいりました。そこで、私どもは、残っている蚕糸関連機関を初め、養蚕、製糸、撚糸、精練、製織に至る加工業の皆様とさらに緊密な連携を保ちながら製品づくりを進めておりますが、いずれも時代の変革期に入りましたので、生き残るための加工業の皆さんの努力は並大抵ではありません。
 しかし、私どもも同じ状況に置かれていますので大変真剣にやっておりますから、例えば製糸工場、現在は東京の地盤は藤村製糸さんです。それから特殊な糸は宮坂製糸さんにやっていただいておりますけれども、かなり厳しいクレームをつけることがあります。製糸条件もかなり厳しい条件、例えば生繰り繰糸法であること、緩速回転であること、それから繊度偏差は極力少なくすることというような厳しい条件をつけてあります。そのかわり相場の3倍以上の生産費を支払っております。
 そういうことでありますけれども、両製糸工場の皆さんは嫌な顔一つなさらない。わかりました、やってみましょうとやってくださいます。ということは、ただの連携でなくて、お互いの信頼関係がこれからの仕事をしていく上ですごく大事だと思います。八王子では、森田撚糸さん、角田精練さん、大原織物さんなどにやっていただいておりますけれども、生繰りの糸というのはクレームが多いんですね。大原さんなんか泣き泣きやってくださっていると思うんですけれども、協力してくださっています。
 さて、私どもは、そういうことで、今回は特に特殊品種の製品化について少し触れさせていただきます。
 現行品種のほうは、先ほど申し上げましたように生繰り繰糸法で、東京で生産された繭のみ使っています。ここにおられる長田さんたちもそうですけれども、今現在、東京で年間約1トンの繭を生産しております。その1トンの繭は全部、多摩シルクライフ21研究会で買い上げさせていただいています。
 そのほかに私どもは特殊品種を扱っております。特殊品種は、発足前の平成2年から東京都の農業試験場秋川支場において手がけており、3年前までは普及員の方がおられましたので、交配なども自分たちの手でやってまいりました。そこで、私どもが今扱っております四川三眠交配種、青熟交配種などをどうして選択するに至ったか、その経緯について説明いたしますと、まず、選択に当たって、中国在来種、日本在来種、改良種等17種について生糸の性質や撚糸特性などを調査し、その結果から5種類ほど選びました。その5種類に中国の改良種を同一にかけ合わせまして、また同じように試験いたしました。その結果から、織物の復元用の品種として四川三眠交配種を、一般素材として青熟交配種を、それから現在改良に改良を重ねて「いろどり」として埼玉県のブランド繭になっている緑繭系蚕品種、そして小石丸とを使うことに決めました。
 ところが、最近、会員の一人が四川三眠交配種の糸がおもしろいということで、和装用に使ってみたいということになりました。そこで和装用に使っていただきましたが、私どもの作品づくりというのは、つくる製品に向けて、ストールならストール、洋装は洋装、和装は和装に向けて素材からの組み立てを大事にしております。特に組み立てを重視しております。したがって、外国の糸なんか全然怖くない。外国の糸は規格品ですから、糸の太さも、どういう性状かというのも全部決まっています。私どもは、太いのか、細いのか、扁平なのか、あるいはよりが強いのかとか、そういう組み立てが製品をつくる上で非常に重要ですから、規格品を使う人はほとんどいないんですね。そういうことで自分が選ぶわけです。糸の太さ、扁平にしますか、撚りはどれぐらいにしますか、練りはどうしますか、9分練り、8分練り、7分練りですか、すべて自分で組み立てていきますので、それを重視しております。
 この方は、しじら織りの着物をつくりたいということで、特に縦糸に変化を持たせるために、糸の太さとその撚り方、そして練り方を、繰り返し繰り返し研究を重ね、四川三眠交配種と現行品種と小石丸の糸をうまく使い分けながらしじら織りを完成いたしました。これがこの春の新作伝統工芸展で他の工芸部門を抜いてトップ賞になり、東京都教育委員会賞を受賞なさいました。それが11階に展示してございます。「日本の色 多摩の色」のこちら側に展示してございますので、ぜひ見ていただいてご講評をいただければありがたいと思います。
 それと時を同じくして、問屋経由で、デパートで、あるいはグループ展で、このような四川三眠交配種や青熟交配種、そういう特殊品種の着物や帯が動くようになったんですね、相前後して。末端価格で、四川三眠交配種の同じタイプの着物は130万円ぐらいするんですよ。それでも買っていただけるんですね。同じ現行品種を使った帯でも――ここに志村さんが来ておられますけど、志村さんに塩蔵という技術を教わったんですね。塩蔵というのはどういうことかというと、早い話が繭のおしんこです。塩漬けですね。それをやった帯とそうでない普通の現行品種の帯、同じタイプのものだったら塩漬けのほうがサッと売れたらしいんですよね。それはどうしてかというと、これは私の想像ですけれども、塩蔵というのは保水性能が高まる。要するにしっとりとした味があるんじゃないかなということで、お客様は目が高いなということになったんですけれども、このような状況を見てくると、商品に対する選択基準の一つとして、素材のよさにもウエートが置かれつつあることを実感として最近感じるようになったんです。
 現行品種作品では特注による生繰り繰糸法を行っているんですけれども、それでつくった東京シルクの糸を用いて、特に洋装部門で多様な染織加工との組み合わせによるユニークなツーピースやブラウスが日本の絹展でも真っ先に売れちゃったんですね。だから、そういうふうに素材からつくる製品に向けてしっかり組み立てていけばお客様の目にとまるんだということが少しずつ私どもにもわかるようになってまいりました。
 以上のように、消費者に少しずつ認められるようになったことから、ようやく東京ブランドシルクでシルク業界にデビューさせていただけたかなというふうに感じている、きょうこのごろでございます。
 次に、私どもの事業として、生涯学習について簡単に述べさせていただきます。
 生涯学習は、地域密着型の活動を行う上で研究会が特に力を入れている活動でございます。当研究会では、平成11年より小学校の理科教材として蚕種を160校に配付しております。ところが、その後、それらの配付校の間で新しく始まった小学校の総合科目授業で、繭からの糸づくりや製品づくりにも取り組みたいという要望が出てきましたため、東京農工大学にも参加していただき、毎年夏、その希望校の先生方50名を集めて、まず蚕の飼い方などを勉強していただいて、その後、そのほかに参加校の希望によって小学校へ来てくださいということがありましたら、小学校個別のそういう総合科目授業にも参加しています。子供たちは未来なんですよね。ですから子供たちの蚕や糸や繭に対する興味は物すごいものがありまして、かえって私どもが教えられるユニークな発見などがたくさんありまして、もう私どものほうが研究させられているような状況でございます。
 2番目は、資料館、博物館の体験学習です。
 3番目は、染織家とか絹愛好家を対象として、現在、八王子市の浅川支所で学習会を開講しております。いずれも受講者は非常に熱心に学習しておりまして、今多摩地域では一種の手づくりブームが起こっております。そしてその取り組みについては、あした小学校の先生、資料館の学芸員、それから一般市民の皆様が発表してくださいますので、あしたもぜひお聞きいただければと思います。
 最後になりますが、私どもは、会員一人一人が独自な物づくりを行っておりますので、特に消費者との接点を大切にしております。その発表の場としては、個展、グループ展、2年に1回の東京シルク展などが主たる展示会になっております。特に皆さん個展において大きな成果を上げておりますが、その個展の中でもこの8月、都内のホテルにおいて、世界の恵まれない子供たちのための基金を募るチャリティーコンサートとともに、貝紫染めを中心とする和装、洋装の数々を展示した会を催された会員がおられました。貝紫染めもさまざまな手法で染められ、また織り上げられたもので、皆さんも展示会でごらんいただけたと思うんですけれども、いずれも見応えのある美しいものでした。実はこのコサージュも「小此木さん、これつけて出て」と言われた貝紫なんですけど、本当に美しいものです。
 このような会のように、お客様とともどもにチャリティーコンサートや展示品を見て、豊かな心と夢をはぐくむことも私は立派な生産活動の一つだと考えております。そのほかにも里山活動の中に蚕糸を生かしたいという方や、身障者とともに真綿づくりを生かそうとする多様な生産活動が始まっております。とかく経済活動のみが生産活動だと思いがちですが、人の心を豊かに明るくすることも生産にかかわる大切な部門と考え、これからの私どもの重要な課題としていきたいと考えております。
 蚕糸、絹業は、日本の象徴産業と言われております。したがって、いつの時代も我が国の国情に沿って進展してまいりました。これからの日本が安心で安全で無益な戦争や競争のない、豊かに循環する社会を目指して協力し合うという目標に向かって、私どもも多摩シルクライフでできる範囲で頑張りたいと願っておりますので、これからもよろしくご指導とご鞭撻を賜りますよう、全研究会員にかわり、心よりお願いを申し上げます。ありがとうございました。

パネラーによるディスカッション

岡本: どうもありがとうございました。
 一通りプレゼンテーションを終わりました。きょうは、もう少し私は何も考えずにここで寝ていられるかと思ったんですが、どうもそうはいかないようなさまざまな議論があり得るという感じになってまいりました。
 生産されているお立場、それをビジネスにされているお立場、それぞれ違うわけですが、その話に入る前に、沼先生に、そういう歴史を踏まえて、例えば今、八王子でシルクを考えるには何かこうしたらいいというご提案がありましたらお願いできますでしょうか。

沼: ご質問ですけれども、それにつきましては、今小此木先生がおっしゃったような事柄ですね、私は、小学校の総合学習、こういうようなものを通じまして、養蚕とか、さらにはシルク、このようなものをまず理解させていくということが先決ではないかといつも思っているんです。それが最初じゃないですか。興味をもたせることが大切です。

岡本: 私も十数年前にシルク産業のビジョンを書くお手伝いをしたことがありまして、そのときはそれほど、処方箋は大体きょう議論が出ているようなことに尽きるんですけど、その後、大島紬のビジョンを書いたときに、非常にショッキングといいますか、大島紬を実際つくっていらっしゃる名人と言われる方のお給料はお幾らだと思います?時給80円とかいう、そういうレベルなんですね。つまり、この辺で女子高生が1時間働いて800円ぐらいもらえますけれども、その10分の1、つまり奄美大島という小さい世界で、そこから外へ出られない方でないとそういう仕事はできない。それで成り立っている産業だということがわかりまして、この産業をどうやって将来文化としても残していけるんだろうかということを考えたことがあります。これと非常に似通った、基本的にはビジネスとして新しいモデル、新しい仕組みをどこかでつくっていかないとなかなか難しい、その仕組みをどうつくっていくかということがなかなかコンセンサスが得られないということが恐らくあるんでしょう。
 そこで、生産者に近いお立場で小此木先生などはお考えなんでしょうけれども、長田さんと小此木先生にお話しいただきたいんですけど、それじゃどうすれば、今何が必要かという話をちょっとしていただけますか。

長田: 何が必要かと言われましても……。

岡本: どうすれば今やっておられるお仕事がうまく、より有利にといいますか、できやすくなるか。要するに利益が上がるとか仕事がしやすくなるかという、その辺のことはございますでしょうか。

長田: とりあえずお蚕というのは人手が必要な仕事なので、今、私と母でやっているんですけれども、母も大分年をとって体がちょっときつくなってきたので……。かみさんはまだ子供が小さいので、これからだんだんと戦力になりつつあるので、それでまたもうちょっと……。私はまだ30代前半なので、桑を植えて10年後、40代になってきたら子供も大きくなり、そのころかみさんも大分来ると思うので、それからかなと。

岡本: ビジネスとして、こういうことがあったらというのはどうでしょうか。

長田: お蚕というのはむだがないものなので、お蚕、繭にやって、おしっことかも出るので片づけもあるんですけれども、手がつるつるになるんですよ。最後のふんの片づけも同じく手がつるつるになる。ふんや尿というのはイメージ的には汚いというのもあるんですけれども、無駄がない。それが何か活用できないか。シルクとか桑の葉、そういうところに目を向けるんじゃなくて、ほかのことに目を向けて、改良しながらこれからやっていこうかなと思っています。

岡本: そこにやっていこうという希望を見出していらっしゃるわけですけれども、ビジネスとしてはどうでしょうか。

長田: ビジネスですか。それを応援してくださる方がいてくれれば……。

岡本: わかりました。小此木先生はどうですか。

小此木: 日本は、蚕糸業にとってはもう開発途上国どころじゃなくて、物すごい遅れているようになってしまって……。というのは、普及員がほとんどおやめになって、いらっしゃらないんですね。外国はJICAでどんどん皆さんご指導にいらっしゃいます。従って外国のほうがむしろ積極的で、私どもが自慢している生繰りで緩速でとったふっくらした糸なんて自慢できない状況になってきたんですね。というのは、京都工繊大あたりで勉強した人が自分の国へ帰って大きな製糸工場を建てて、生繰りで緩速でふっくらした糸をつくり始めたんです。それを西陣あたりの方が(私の仲間ですが)、ガボッと買って帰ってきた、安かったなんて言っているようになっちゃうと……。国内はともかく養蚕する人がどんどん減っていますので、ともかく新しい養蚕人口を掘り起こすということがまず大切だと思うんですね。
 というのは、今まで何で蚕を飼っていたの、なぜ蚕を飼うのかという意識転換が今の方たちには、長田さんは若いから切りかえがうまくいくと思うんですけど、お年を召した方はもう本当に「ただ時間があるからやってるだけだんべ」というような調子で、本当にいいシルクをつくるためにやってやろうという方はおられないんですよ。その意識転換がうまくいかないから、まずは新しい養蚕人口を掘り起こすことを日本でどこかでやらなくてはいけない。教育ですね。
 もう一つそれを痛切に感じるのは、私どもが蚕を飼っていてトラブルが起こったときに指導してくれる人がもういなくなっちゃったんですよね。それで、どこへ言おうかといっても、つくばへ行ってもつくばの先生方は忙しいだろうし、大日本蚕糸会の蚕業技術研究所に電話では伺うけれども、「よし、わしが行って何の病気だか見てやろう」という昔のようないわゆる普及員は一人もおられませんので、国内でもJICA形式できちっと予算の裏づけされた普及員の方を何人か国内で用意して、指導に当たるようにしないと、本当に開発途上国並みになっちゃいますね。日本の蚕糸業では、病気が一つ起こっても何の病気だか。どうしていいかわからないしということがありますので、まず新しい養蚕人口の掘り起こしと教育と普及体制と、そういうことを国内でも真剣に考えていかないと、私はちょっと先行きが不安ですね。そういうことを感じます。

岡本: それでは、ビジネスでかかわられていらっしゃる宮本さん、どうでしょう。宮本さんの立場からすればどうでしょうか。

宮本: 非常に厳しいと思いますね。ただ、厳しいからといってそのままにしておいてはいけない。さっきもお話ししましたように、やっぱりビジネスとして成功させるには高く売れることですから、高いなりのメリットというか、消費者が買うということが必要だと思うんです。私は絶対に可能性はあると思うんです。
 例えば、うちは海外のデザイナーなんかとも多少取引していますけれど、それは特別著名なデザイナーとか著名なブランドなんですけれど、例えばうちでスカーフ1万円で出すものが、ニューヨークあたりでは15万円の上代で売れるとか。それでも例えば1,000枚ぐらいのロットでつくるとか、あるわけですよ。ですからそういう需要はあるわけですよね。
 今の例は、著名なデザイナー、ブランドというメリットがあるんですけれど、そうじゃなくて、日本のさっき言った例えば安全なシルクとか、そういうものでもいいと思うんですね。
 それと、長田さんのような養蚕農家の方と我々売る者との交流が全くないですよね。やっぱりそういうもの、川上から川下、地域も横断型で、全国の地域という形でもっと交流を持つ機会。本来であれば、このシルク・サミットなんか絶対そういう場にしなくてはいけないと思うんですね。ですから、まず交流の場を持って、教育も必要でしょうけど、まずビジネスにつなぐということだと思います。

岡本: 川下から川上までをつなぐというのは新しいビジネスのモデルであろうと思いますが、和田さん、この点どう思われますか。

和田: 本当に難しいと思います。ただ、今「みやしん」さんが言われたのを私も言おうかなと思っていたんですけど、「私つくる人、私売る人」という時代は、よっぽどのものじゃない限り、何か特許があるとかいうのは別として非常に難しくて、最近はいろんな意味でコラボレーション、コラボレートしていかなきゃいけないということが非常に重要になってくるんじゃないかなと。先ほどちょっと海島綿という話をしましたけど、シルクの一番もとは、養蚕の人たちがいたり、あるいはそれを製糸したり撚糸したりする人がいたり、糸を染めたり、あるいは織ったりする人がいて、当然、織るだけじゃなくて、もっともっと大事なのは、フィニッシュ、いわゆる整理の仕方。これはいろんな用途によってすごく違うと思います。そういうもの、あるいは仕上げであるとか。
 じゃ、生地がよければそれでいいのかといったら、当然、ソーイングというか縫製の部分も大事だし、それで完全な製品ができたからいいじゃないかといっても、やはりそういうものの売り方、いわゆるマーケティングというか、仕掛けをして、一人一人の消費者といいますか生活者といいますか、それが、「あ、これはよかった」、「私は今までこっちにしてたけど、これをもう一回してみたい、あるいは着てみたい」、そういう一つのリピーターというか、これが縦の社会というか、縦軸とプラスいろんな意味でのコラボレートの横の線――私も今回シルク・サミットというのは初めて出させていただいたんですけど、こういう一つのコラボレートをすることが大事なのかなと。さっきも坂口さんがおっしゃっていましたように、一辺倒じゃなくて、そういうことがやっぱり必要なのかなと。
 あとはさっき申しましたように生糸の産地寄りの、用途によりけりで、絹紡もあってもいいんでしょうし、柞蚕糸もあってもいいんでしょうけど、付加価値というか、本当に差別化が難しいと思うんですけど、私ども製品を扱っている分には、このネクタイはここのこういう生糸を使っているんだよというようなものがある程度明確にあると、また付加価値がそこで出てくるんじゃないかなと。
 きょう、これしているのは、去年たまたま松本の何先生だったかな、「はくぎん」という生糸を分けてもらったというか、うちの工場があれして、やっぱり普通の生糸と全然違うんです。ただ、量的な問題が、ちょこっとしかとれなかったり、もしつくるとしたら今の5倍とか、そういう非常に高い一つのあれなんで、これが本当にコマーシャルベースでいくかどうかというのはちょっとまだ疑問なんですけど、年間で500本とか1,000本とか、そういうものはそういうものでまた売り方、さっきの仕掛けだとかマーケティングをきちんとすれば、それなりの理解してくれるお客さんもいると今は思います。そういう意味では、そういう一つのコラボレートするということが非常に大事なことじゃないかなと。これは何も私どもつくるほうだけじゃなくて、小売の人たちが理解していただくということも大事だと思います。

岡本: ありがとうございます。坂口さん、どうでしょうか。

坂口: 実は僕はビジネスで考えないほうがいいという意見なんです。ビジネスとしてどうですかと言って、ビジネスとして考えないほうがいいというのは反則みたいな感じですが、たまたま知り合いに京都で友禅をやっている人たちがいて、伝統工芸士なんですが、彼らが後継者を残そうと思って学校をつくったそうなんですね。つまり、後継者育成のための組合で人材育成事業をやろうと言って。そうしたら、プロの伝統工芸士が教えてくれるというので、全国のいわゆる趣味のおばさんたちが飛行機で通ってくるというぐらいすごい人気になっちゃって、最初は、趣旨が違うからもうこんなのやめようかと思ったんだけれども、逆に言えば、これはひょっとしたら、この友禅の技術を生き残らせるということだけを考えるのであれば一つの方法じゃないかと。
 素人のすごさというのは、効率を余り考えないですよね。例えば1枚の着物をつくるとき1年かけてもいいんですよ。半年かけても3年かけてもいいんです。普通のビジネスで考えたら、人件費が幾らでどうのってなっちゃうからできないんですけれども。だからどっちがレベルが高いかといったら、どう考えても今素人がつくっているもののほうがレベルが高いんです。時給65円でしたっけ、恐らくその方もビジネスなんかでは絶対やってないですよね。結城紬の人に聞いても、やっぱり織っている人は、1反幾らとか言って……月幾らでしたか、たしか4万円もらえるかもらえないかだったと思います、給料に換算しちゃうと。そんなの普通仕事として考えたらだれもやらない仕事なんですけれども、結局、何をしたいかだと思うんですね。技術を残したい。
 なぜか日本人というのは、世界一、技術を残したがる民族だと思います。今使ってない技術でも残したいんです。もう本能みたいなものですね。ほかのヨーロッパでもアメリカでも中国でも韓国でも、そんなことほとんど思ってないと思います。もうからないんだったらさっさとやめて次のことをやるというのが普通です。でも日本は、なぜか知らないけど、シルクロードからずうっと来て、もうこっちはあと海なので、何かどん詰まりで、どんどんどんどんたまっていく国なので、本能的に何か残さなきゃという……。それであればもうビジネスじゃなくて、先ほどおっしゃっていた例えば教育の中でやるとか生涯学習の一環としてやるとか、そういう行き方のほうがかえって正しいのかなと思います。
 もう一つ、付加価値という場合に難しいのは最終製品じゃないということです。「みやしん」さんのスカーフは最終製品なのでアメリカの百貨店に持っていけますけど、繭を……。だから、繭を最終製品にするという方法もありますね。僕の知っている機屋はあれをお湯で煮て、セリシン、これ顔につけるといいんですよといって帯を売ったと言ってましたけど、でも何か、そうするとありがたいですね。繭1つを、じゃどう使うんだ。さっき言ったように、最後食べてもいいんだみたいないろんな使い方があって、これが製品としてすごくおもしろいので、「じゃ1個幾らですか」と言ったら、そんなには高くないわけで、それを買う人がいればいいわけですよね。だからひょっとしたら、そういういろんな趣味を開発したり、繭を使って何かをやって……。産業じゃなくて、例えば長田さん一家の生計が成り立つだけのビジネスということであれば可能性はあると思いますけど、産地とか産業とか企業と言われちゃうと、ちょっとそれは考えないほうがいい感じがしています。済みません。

岡本: 私もかなり同感するところはあるんですけれども、突き詰めていくとそういう問題にぶち当たってしまうのは、今我々が抱えている事態が深刻だということだと思います。ただ、限りなく趣味の世界と一部の高級品を高付加価値で販売するというところがどこかで接点があるかもしれないというふうには私も思っておりまして、そういうビジネスモデルをつくれないか、そのための条件は何なんだろうかというのは考えてみる必要があるかなと思います。
 それで、こういうお話、これは少し展望が見えたと言えるかどうかわかりませんけれども、それでは八王子でこういうことをやるということの意味はどうだろうか。最初、ファッションタウンとしての八王子なんていうお話がありましたけれども、八王子でこういう事業を進めていくというときの問題点なり展望、あるいは、こうなってほしいというようなことがありましたら、まず、宮本さんお願いできますでしょうか。養蚕ということ、あるいはテキスタイル。

宮本: 養蚕としたら、さっきビジネスじゃないとかビジネスとかありましたけれども、将来的に残すんだったら八王子というのは非常に難しいところだと思いますね。経費がかかったりいろいろするので。ただ、さっき私とか和田さんがおっしゃいましたコラボレーションとかそういうことをするための地域としたら、非常に便利ですね、逆に。東京に近いし、日本の中心地に近いので、いろんな方との交流がしやすいというのはありますよね。ですから場所は余り関係ないんじゃないですかね。それよりやっぱりコラボレーションというか、その辺のところが大事かなと。趣味の世界をちょっと超えたぐらいの中でやっていった場合には多分もう消えると思いますよ。さっき結城紬とか大島とか出ましたけど、もう消えますからね、本当に。残念ながら私なんかそういうことをずうっと見てきているし、私の仲間が倒産したりとかやめたとか全国の産地でいますので、そういうのを見ていると、極端に言えばお金もうけですよね、お金もうけをして、自分の子供にも安心してこの仕事を伝えられるという形にしないと、中途半端な気持ちだったら非常に難しいと思います。

岡本: 長田さんはどうでしょうか。むしろ八王子の地域活性化というような視点はどうでしょうか。

長田: 繭もなかなか難しいけど、地域活性化で今ちょっと動き出していることもあるんですけれども、それはまだ今この時点では発表できないんです。とめられちゃっているので。それが成功していけばちょっとはまた盛り上がるかなと思っているんです。

岡本: 小此木先生はどうですか、地域活性化という視点で。

小此木: 今おられる方々は年齢のぎりぎりのところまで蚕を飼ってくださるという方ばっかりで、ここでまたドドーンと減るということはないんですけれども、今まで蚕を飼ってこられた方々の意識からいうと、いいシルクをつくるための繭をつくろうという意識は全くないですね、お年を召した方には。暇だし、時間もあるし、お金もたっぷりあるし、繭でも飼ってやるか、ぐらいな感じで……。ま、長田さんは別でしょうけど、お年を召した農家はみんなそんな感じですね。だからといって協力しないかというとそうではなくて、「特殊品種をやってくれる?」と言ったら「おお、いいぞ」という感じでやってくださることになったんですけど。東京シルク展なんかをやると40代の若い元気な方が、どうしても蚕を飼ってみたいという人が何人か来られるんですね。ああいう方たちで、新しい養蚕を掘り起こすとおもしろいんじゃないかなという感じはするんですね。今おられる方は、息子さんに後を継がせてとかそういうことはちょっと望めないような気がするんです。だから、農林水産省あたりが新しい養蚕人口を掘り起こすための教育とかそういうことを、全養連でも構いませんし、あるいは我々も協力してもいいですし、本気で考えないと、蚕糸業は恐らく衰退していくと思います。

岡本: ありがとうございました。
 和田さん、ファッションブランドを、八王子としての地域活性化とか八王子ブランドとか、そういう観点からはどうでしょうか。蚕ではなくてネクタイでいいんですけれども。

和田: 昔ですとそれがいいんでしょうけど、本当によく言われる、このものでバーッと売れるというのはほとんどネクタイでもないし、ほかの商品でもないと思うんですよね。地域でこれを売ってこうというのは非常に難しいし、やっぱりそこにターゲットがあって、若い人たちに売るんだとか、すごくプレステージの高い人たちに売るんだとか、価格でもっとこういうふうに競争して売るんだとか、いろいろマーケットの中でのほうが、それがたまたま八王子であったり、あるいは西陣であったり、富士吉田であったり、これはどっちかといったら買うほうからしたらどうでもいいという一つの形になってきますし、八王子から何かを発していこうというと、よっぽど、八王子しかできないとか、特徴というか、何かがないと、やっぱり難しいんじゃないかなという気がします。
 例えばイタリーのネクタイの昔からの産地のコモ。じゃ、コモのネクタイが全部いいのかといっても、今はもう買うほうはそんなことは思ってないと思うんですよ。一般的にはコモのネクタイというのは織物にしてもプリントにしてもいいよというんですけど、じゃ、コモのネクタイが全部いいのかなといってもそうじゃないし、売れるものもあるし売れないものもあるし、メイド・イン・イタリーか、パブリック・イン・イタリーか、ウオーブンド・バイ・イタリーか……。今はそのものを見ながら、たまたまイタリーであったりフランスであったり、あるいは日本であったりというような買い方というか、そんなことをするんじゃないかなと。ルイ・ヴィトンとかそういうのはまた別問題としましてね、そんなことを思いました。
 あとは、蚕と養蚕というと、こういう都会地だと本当になかなかビジネスとしたら難しいのかなと。固定資産税がやっぱり高いより安いほうがいいんでしょうし、もう少し広々と……。今は宅急便でも何でも全国ネットで、あるいは情報でもインターネットで即座にできるので、都会で何か生産というのは非常に難しくなってきたなと私も思っているんです。

岡本: これから先生方に一言ずつ、きょうのご感想をお話しいただいて、最後にこれは言いたいということをまとめていただいて、その後、ご質問を受けたいと思っております。
 それでは、沼さんから。

沼: 先ほど私、教育の便宜というふうに話をしましたけれども、それと同時に大切なことは、これも何回も繰り返し言っておりますけれども、桑の都についてです。そういう伝統が八王子の中に生きていないわけですね。だから歴史を生活の中にまず生かしていくということが必要ではないかと考えているんです。
 一体どのような方法によってそれができるのかといいますと、例えば四、八の市のことを前に理事長さんが話をされましたね。横山町と八日町で四、八の市が開かれたんですが。当然、そこで生糸の取引等も行われたわけですね。ですからそういう場所ですね、本当に簡単なことなんですけれども、小さい石碑、ほんとに1メートルか1メートルちょっとあればいいと思うんですけれども、市が開かれた場所であるというようなことを立てていく。これは正直申しましてそれほど金がかかるわけじゃありませんから、そのようなことによって、八王子というのは大変歴史があるんだということを……。考えてみますと何も多摩だけではなくて、もっと広く東京、いや、東京じゃなくて関東におきましても、養蚕の地であり、製糸の地であり、もちろん織物の地である。そういう認識を一般の市民の方々に持っていただく、まずそういう地盤をつくっていく、その上におきまして養蚕、製糸のことを考えていったらいいんじゃないかと思っております。手近な、わかりやすいところから手をつけていくことが大切だと考えています。

岡本: 長田さん、お願いします。

長田: 確かにいろいろ意見を聞きまして、ビジネスの面とか、これからいろいろ考えなきゃならないんですけれども、やはり税金面やら、私もいずれは年をとって、次の代に渡すときにはまた相続が発生するわけで、それで今度はまたどのぐらい畑を減らさなきゃならないか。国やら東京都も、養蚕を残すのであればそこら辺もきちんと考えてもらったほうが、私も安心して死んでいって次の代に任せられるわけなんですよ。そこはちょっとこれから動いてほしいなと思っています。

岡本: 宮本さん、お願いします。

宮本: 私は、余り地域、八王子とか考えないで、世界の中での日本のシルクをどうするか。例えば長田さんが日本の中の八王子というところで養蚕をやっているけど、長田さんが安心して子供に自分の養蚕をやらせられる、世界の中で活躍するときにそういうことをどうやって残せるようにするか。そういう意味では、結論的には、さっき言ったようにやっぱりコラボレーションきりないかなと私は思います。

岡本: ありがとうございました。和田さん、お願いします。

和田: 現実にネクタイを売っているわけでありますけれども、非常に残念なことに私ども1軒ではきちんとした商品を提供できなくて、下請さんとか、私どもも、衣装屋さんであるとか染め屋さんであるとか整理屋さんだとか機械直し屋さん、その他もろもろが減ってきているというのが非常に残念で、当社だけでそれをといってももう力がないし、なかなかできるものじゃないですから、八王子がもし活性化を織物の中でするというのであれば、いろんな意味で、これは政治というか、そういう官の世界も多少必要でしょうし、それから当然、下から、下克上じゃないんですけど、沸き上がるエネルギーじゃないですけど、そんなことが本当に若い人たちというか、何も20歳とか30歳というだけじゃなくて、そういうのがどこかで……。今はだめだと言っているわけじゃないんですけど、このまま行くとちょっと厳しいかなと。
 西陣も、さっきの話に出ましたように私もちょっと外から見ていてそう思いますし、今は丹後のほうがむしろ多少元気というか、バイタリティーがあったり、そういう研究開発もしたりしているようですけど、そういうのをもう少し、繊維というか、織物といいますか、染めもそうなんですけど、我々も責任があるんですけど、一緒になって本当に考える必要があるのかなと思います。

岡本: 坂口さん、お願いします。

坂口: 僕は先ほど地域開発、八王子市民じゃないのでお話しできなかったんですが、製造業だけが産業ではないと思っています。産業って「産まれる」と書くので何となく製造業のイメージがあるんですけれども、例えば八王子に来たら、すごいおしゃれなシルクのお店がいっぱいあるとか、何か八王子の人はどうも首に巻いている人が多くて、何でみんなシルクを巻いているんだろう、「みやしん」さんというすごい機屋さんがあるからみんな巻いているのかとか、何か八王子の男の人はネクタイの色がどうも、市役所に行っても全然違うと。例えばね。それは、ああ、そうか、「成和」さんがいて、だとか、町を歩くと何かシルクにかかわるアーティストの展覧会がいっぱい開かれているとか、とにかく、どこのおそば屋さんに入っても何かそういうのがかかっているとか、町全体がシルクを中心としたライフスタイルとか、それがもたらしてくれる豊かさみたいなことを……。もちろん教育もそうなんですが、何か製造業じゃなくても目利きな感じ。例えば世界のシルクも八王子の人が見たらだませないとか、これはやっぱり八王子人だな、風合いがわかっちゃうんだよみたいな、そういうことのほうが、ひょっとしたら大きなビジネスになる可能性ってあると思うんですね。
 どうも日本は製造業立国したために、製造業がなくなったら国は滅びるとか、製造業が産業のすべてみたいについ考えてしまうんですけど、製造業というのはだんだん人件費の安いところに行きます。例えばそのデザインとか、どういう色がいいんだとか、それは人件費が高い低いは関係ないと思うんです。それはやはり市民の文化レベルの差だったり、教育の差だったり、センスの差だったりすると思うので、消費者サイドから見たシルクとか、あるいは養蚕とか……。だから、養蚕もあるというのはそのときに武器になると思うんです。養蚕のビジネスだけで、それを幾らで売るというんだったら武器にならないけど、養蚕もやっている地域で、例えば養蚕の桑畑のところにちょっとしゃれたのがあって、蚕料理が出てくる――蚕を食べちゃいけないけど、ちょっとおしゃれなスカーフを売っているとか、何かそういう広がりが出てくるといいかなと思います。

岡本: 小此木先生、お願いします。

小此木: 私は蚕糸業というのは、決してなくしてはならない産業だと思います。日本というのは自然と共生する国民性がありますし、私どもも、春、桑の芽が出て、蚕がふ化するころになると、もうソワソワして落ちつかなくなってきて、蚕が始まるとみんな活性化してね。結局、地域の人たちとお互いに協力し合いながら、勉強しながらやっていくというのは、やっぱりなくしてはならない工程だと思いますね。
 いま坂口さんが目利きとおっしゃいましたけど、目利きは蚕からやらなきゃだめです。蚕品種とか、生繰りとか、そういうところをやらないと目利きになれないです。規格品でつくったものばっかり見てたんじゃ目利きになれない。だから私は何としても、どんな形であれ、蚕糸業は八王子近辺に残したい。大きなシルクミュージアムを黒須市長さんにお願いしてぶっ建てて、そこで養蚕をして染織もして、小学校も学生もみんな学びに来て、一般市民も学べて、企業家も入ってというような、そういうのをつくりたいですねえ。もうぜひぜひ、八王子織物工業組合長さんもいらっしゃいますし、商工会議所会頭の樫崎さんもいらっしゃいますし、よろしくお願いします。

岡本: 私が全体のお話をまとめるということも必要ないかもしれませんが、確かに先ほどのお話を伺うと、非規格品でおもしろいものをおもしろい糸からつくって、そしてそれを小さいお店で売る、ブティックのようなところで売っていって、そこに非常にハイセンスなデザインをかましていくというようなことを考えれば、ある種の新しいビジネスモデルが生まれるのではないかという期待を私は抱いております。
 そういう可能性もあり得るんではないか。せっかくこういう仕組みが、養蚕をやっている方もいらっしゃいますし、テキスタイルに織り上げてくださっている方もいらっしゃいます。そういうお仕事をうまくいわばコーディネートするといいますか、そういう人材もやっぱりこれから必要になってくるんではないかなという気がしております。
 晴れやかな輝かしい結論ではございませんが、こういうことで一応お話は終わらせていただきまして、先生方にご質問がある方、ぜひこの際ですからお願いいたします。

会場質問: 言いなさい、言いなさいと言われるので励まされて……。「みやしん」さんは、三宅一生さんとか、森先生とか、高い水準におありなんですけれども、八王子だけにこだわらないとおっしゃっていました。私は、八王子は、研究所もあって地の利は非常によろしいと思います。それで森英恵さんなども、イタリアとか、イギリスとか、私も行ってきたんですけれども、ある程度A版とかB版とか規格があるように、やっぱり糸の太さとかサイズとか、その規格を守ってやってらっしゃると考えているんですけれども、いかがでございますか。

宮本: 糸は、まず、シルクに対しては、私どもは生染めを使っているんですね、基本的に。生染めで50色ちょっとぐらいが定番色となっております。常にその定番色でカラーブックをつくって、お客様が何かをつくりたい、デザイナーの方が何かをつくりたいときは、できるだけその中から色を選んでくる。別にそれ以外の色という場合には、倍ぐらいの値段をもらってやります。
 特別それ以外のことはないんですけれども、ただ、正直言って、碓氷製糸さんのホルマリンを使わない糸というのは、高島屋か三越かわからないけど、産着なんかもダイレクトに糸を供給してやっているんですね。それだけ安心して川下が使える。私がさっき言ったのもそういうことなんですけど、ネットワークというか、川上から川下まで、そういう形で、養蚕している方から実際の小売屋さんまでつながった形での組み合わせ。それをやる場合には八王子だけではなかなか難しいかなと。特に日本の繊維産業は分業型になっていますので、分業型の中で1つの分野というか業種がなくなるともうその産地は壊滅していますので、そういう意味では余り八王子にこだわらずに、日本全国を1つの産地としてとらえた中で生き残っていかなくては、もう今の産地の崩壊の状況を見るとちょっと厳しいかなと思っています。

会場質問: 八王子の外から来た人間です。「日本絹の道 だれが絹を見捨てたのか」という映画をつくりました。まだ未発表です。全国各地を取材いたしました。そこで出てきたいろいろなところのお名前もかなり聞き覚えがあるし、お会いした方もたくさんいらっしゃいます。そこで私は取材をして、その製作過程でどうしてもわからなかったことがあります。これは、よい繭というのは一体何なの、それから、よい生糸って一体何なのと。これが私にはわかりません。結局わからぬままに、今、作品をつくり終えようとしております。パネラーの方でどなたでも結構なんですが、よい繭、よい生糸とは。
 外国製品、今は中国、ブラジル、その他何カ国かあって、日本は生産国としては第6位と聞いておりますけれども、よい繭、生糸とは一体何なのか。これが一つ、これからの日本の絹の出発点になると私は確信しております。これをぜひ伺わせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

岡本: 小此木先生。

小此木: 難しい質問ですね。私どもがやっていることをお話しさせていただきたいんですけれども、よい繭というのは、今まではどちらかというと解舒率とか、収率のほうが主として重要だったんですけれども、余り大きいばかりがよくなくて、やっぱり引き締まった繭が現行品種でも一番いいわけですね。ボカボカボカッと収量の多い大きい繭というのは節にもなりやすいし、余りよくないと思うんです。だから大きい繭というのではなくて引き締まった繭というんですかね、現行品種の繭は。
 解舒率は、もちろん同じ繭なら解舒率がいいほうがいいんです。解舒率も問題になるんですけれども、私どもは、繭層が同じ品種でしたらピシッとよく引き締まっている繭をいいというふうに見ています。
 それから、特殊品種の場合は、製品化するものに向けてふさわしい品種であるということを考えています。青熟という今私どもがやっている蚕品種は、私が試験した結果、標準型で、伸度といい、練減率といい、何をつくってもうまくなじむ糸なんですね。そういう場合は、品物をつくる場合、例えばストールにでも向きますし、着尺もやり方によってうまくできますし、という使い方をしています。
 それから、四川三眠は、先ほど申し上げましたようにちょっと結晶領域が多いんですか、染色性も悪いし、黄色が若干残ります。ですけれども、製品化した後、非常に魅力的な、いい織物になるということで、あえて四川三眠を使っているんです。また、小石丸というのも、あれ銘柄でかなり名前が通っちゃったので、小石丸でつくれば何でも高く売れるというのがあるんですけれども、ストールなんかにするとなかなか評判がいいようですね。それからブラウスなんかも。
 ですから、つくる製品に向けて、特殊品種の場合は最もふさわしい生糸が一番いい。現行品種の場合はもちろん製糸です。恐らく今、日本で残っている製糸工場は、生き残っている方たちはすばらしい技術を持ってますよね。私どもの藤村製糸さんが、その中でも特色があると言っていいんでしょうか、山から湧く伏流水をくみ上げて使っているんですね。すごく製糸用水がいいということが一つの特色になっておりまして、下で見ていただくとわかるんですけど、晩々秋の生糸を出しておきました。真っ白で、ゆっくり丁寧に引いてますので、感知効率が働くぎりぎりのところまで速度を落としていただいてやってますので、ふっくらして純白で、皆様が製品化する上で、一度その魅力に取りつかれると、もうよその生糸は買えないとおっしゃいますね。ですから、要は繭がそういう繭で、製糸はそういう製糸の仕方をされていれば、まず、いい生糸になることは間違いないと思うんですけれど、よろしいでしょうか。

会場: 実際に日本の繭、生糸というものが、輸入品に比べ、ビジネスとして勝てるという要素はどこにあるんでしょうか。

坂口: まず、いい繭、いい生糸ということですが、恐らくこれは絹だけの問題じゃないんですけれども、ずうっと明治以降といいますか、やっぱり効率ですね、均一なもので効率のいいものを大量に……。だから、むらがあるものというのは、例えば糸がどんなによくてもだめだと言われてましたけど、それじゃ、むらがあったら悪いのかといったら、悪いわけじゃないですよね。だけど効率は悪い。だからどうしても均一なもの、あるいは染めやすいとか。染めむらが出るのも、じゃ染めむらが本当に悪いのか。効率からいったら悪いんですけど、それは別にいい悪いじゃないと思うんですが、そういう意味では、生産効率のいいもの、利益効率のいいものを、多分、いいものというふうに業界では呼んできたと思います。
 例えば、天然の野蚕だとか天蚕みたいなものというのは糸が本当に美しいのかというのは全く別の問題で、希少性があるからそれはいいと言っているだけ、高くなるだけで、それはいい悪いじゃないと思うんです。ただ、余りにも産業としての効率を追求してきて品種改良してきた繭というものが片一方であって、片一方では野生の繭みたいなのがまた見直されたりしていますから、その意味で、恐らく日本の繊維というのは、世界一効率のいいものを一時期までつくり上げたのは確かだと思います。今その技術がすべて中国とかブラジルへ行っていますし、それから蚕種そのものももう輸出できるようになっちゃったんですね。かつては一切門外不出で、絶対外国には出さない。それが今はもう出せるようになってしまったので、具体的に物として、物理的に日本のものが中国のものより何がいいんですかというのは、僕もさんざんいろんな人に聞いたのですがわかりませんでした。何がいいというのは出てこなかったです。だけど、今、少量でもすごいこだわって世界一のものをつくれと言われたら、きっと日本はできると思います。その技術はある。あらゆる工程であると思います。ただ、それがビジネスとして勝てるんですかと言われると、ビジネスと技術とはちょっと違うので、必ずしも勝てるとは思えないです。

宮本: 私も、繭と糸の差はないと思います。いいということは言えないと思います。ただ、今お話があったように、例えば織りだとか、色だとか、風合い出し、例えば練りの問題とか、そういうことで、その時代時代の消費者の嗜好、ある程度大勢の消費者の嗜好ですね、そちらに即したものを提案する、あるいは提供し続けるということが、やっぱり一番いい繭だとかシルクのもとになるんじゃないかなという気がします。
 もちろん、いま坂口さんが言ったように、あの黄金糸がいいとか、あるいは野蚕の紫外線を防ぐ特徴がいいとか、環境とか、あるいは美容にいいとか、いろいろありますけれど、一般的に言うシルクは多分そういうことだと思います。つくるほうの織物の私としたら、自分が日本の生糸を使った、あるいは中国の生糸を使った、同じ太さの糸を使って同じようなものを売った場合に、わからないです、どちらがいいか。

小此木: 私どもがやっているのは、染め以降に差が出るんですね。すばらしくきれいに染まるという……。外国の糸は、確かに偏差が最近よくなってきているし、糸が切れないんですよ。作業性がすばらしくいいんですよね。それが大量生産向けの例えば白生地などをつくるところではこたえられない魅力なんですよ。私どもよく帯地なんかをお願いするんですけど、もう日本の糸は切れてだめなんて、頼む前から断られちゃうんですね。何たってブラジル。それは何かというと、味とかそんなの全く関係なくて、切れない。徹底して切れないんですよ。作業性がすばらしいんです。大量生産が難なくできるという魅力がまず第一ですね。
 私どもがつくっている糸は切れるんですよ。だから大原織物さんにいつも、やってられないよって怒られちゃうんですけど。特に生繰りですから衝撃に弱いし、節があるし、切れちゃうんですね。その点、もうブラジルの糸なんかは切れないですから。それをいいと言えばいいですよね。ビジネスとしていいと言えばいいと言えるんですけれども、あといろいろ問題点もあると思うんですね。

会場: 余りないんだけれども、簡単に。私は、「地域でつくるシルクの環。今、何をなすべきか」、これについて現在やっているんです。やっているからその体験を参考になればいいかと思ってお話ししようと思いますが、いかがなものでしょう。
 私は、当年とって90歳です。こういうことをやっているのが好きだから夜も寝ないでやることがあるんです。そんなふうで、私ちょうど45年になるんです。絹のいわゆる芸術品です。私は、父が機屋で、私は機屋のやみ仕事が多かったんです。それで5回ばかり死に損なったけど、絹の糸のおかげでこうやって90までまだ達者で、生徒が二、三十人いるんです。教えていますが、みんな喜んでいるんです。喜んでいる反面にはまた欠陥があるんです。ですから製品は……。きのうの読売新聞を見て、僕が行って話をしようかな、どんなふうなのかと思って、きょうは興味を持って来たんです。それで、皆さんの、お弟子さんというか、入った人に教える小さいF3の版をあそこへ5枚ばかり持ってきてあります。知っている人がいたから3枚ばかりあげて、まだ2枚ばかり残っていますが。
 現在、八王子のいちょうホールで、きょうから24日までは展示しています。皆さんが、新聞の様子ではきょうとあしたいるようだから、じゃ見てもらおうかなと思って、ちょうど障子1枚の大きい絹糸の絵でつくったのが、今から25年ぐらい前のか、あったから、それをけさ急いで夕べ支度して持ってきて、係に頼んで渡しておいて、きょう、あした、こういう企てがあるから、そういう人たちが来てくれればいいから、PRに飾っておいてくれと、2階の中央に飾ってありますから、どうぞ時間がございましたら、行ってどういうものかというのは見ていただければわかると思います。
 それをやるについては、私は機と染織をやっていましたから、ちょっとしたヒントで、もうかったときに家をつくったときに、欄間用糸を母に細かく切ってもらって、それを置いておいたのを、左官屋に、これ構わず欄間に塗ってくれと。それで角叉を入れて塗ってもらったんです。それができ上がってから寝てて見ると、鳥が飛んでいるよとか、チョウが飛んでるとか、いろんな形に自分で見ようと思うと見えるから、よし、これは絵にならないかと思いまして、それからやりまして、今、始めて四十五、六年です。
 初めのうちは自分1人で楽しみでつくっていましたが、居酒屋で新聞記者と飲んでいるときに話をしたら見たいというので見に来てくださって、これは八王子だけじゃもったいない、中央に出したらということになって、どんなぐあいに出すんだかわからないから、じゃ市役所で聞いてみようと八王子市役所で聞いたら、その当時は東京都の……

岡本: 済みません。申しわけない。時間がもうございませんので。

会場: そうですか。無料だったから16年間出しました。だんだん今度は費用がかかるようになりましたが。おかげさまでそれのために教えてくれという人があって、読売新聞社の3階を借りて教えたのが、基準がありまして、細かいことになりますと何ですが、高い器具だからなかなか手が出ないんですよ、みんな。だから私は商売上、糸屋さんを知っている、機屋さんを知っているから、残ったやつがあったらみんな買うようにして買っていますから、安くやっているんですよ。
 時間がない。ああ、そう。じゃ、あとは勘弁してもらうだ。もし時間がありましたら、どういうものかというのは、今、市のいちょうホールで24日までは飾ってあります、ほかのものと一緒に文化祭で。せんだってこちらでやったんですよ、15日から18日までは。余計なことしゃべって申しわけありませんが、何かの参考になれば……。私はこれのために90まで生きていられるんだ、ありがたいと思っています。シルクのおかげなんですよ。だからシルクはうんと、大したことないけど、二、三千万持ってます。どうもご清聴ありがとう。

○   皆さんの話をよく聞いてわかるんですけれども、質問の中に、日本の絹は1つの繭の中からどのくらい長く、いい糸を出すかというのを……

(テープ切れ目)

会場: ……それはいろんな小さなもので、スイス型の小さなもので高く売る商品が世に出てくる。時計みたいなもの。もうそのスイスもだめだけど、そういうことをやるのには、八王子の場合は、みんなが応援しなかったということが一番だめだと思います。機はだめだ、女の子をいじめる、長い時間働かすとか、何しろ歌の文句にだってあるぐらいですよ。あそこへ嫁へやると朝早くから夜遅くまで働かされる、そういうのでムードをつくらなかった。
 それから、さっき女子の先生が言ったのは、絹が向こうのは伸びるというのは、向こうのは伸びるわけですよ、こっちは製糸するときに伸ばして引いているから。向こうのは悪い……。悪いとか、いいというものじゃない。それは本人の自由に任せてもらいたいと思いますけれども、アメリカに日本の絹で平らのものをつくってやったら、これは人絹だと言われた。あんまり繊度がよかったので人絹だと言われた。それで今度はサンタンを出したら、サンタンのほうが絹だと言った。サンタンはくず糸だよ、あれは。そうでしょう。そうですね、皆さん、ご存じだと思います。そういう人間の違いがあるのを、八王子の先に立つ人がうまくそれを利用してやればよかったのに、機屋をやめてほかの商売をしたほうがいいなんていうやつがいたから、こういうようになっちゃったんだ。私はそう思います。そうですよ。
 私も機をやってたけど「おめえやめろ」と言うからやめちゃって、やめると手形を6カ月も出さなきゃならない。機を織らないで6カ月の手形をお迎えしなきゃならない。その気持ち、皆さんにはわからないでしょう。そういうてめえ勝手の機屋が多過ぎた。これが一番悪い。悪い方向へ持っていった。
 それから、八王子で刀のまやかしものを売った。それから蚕の種をまやかしで売って外国から怒られた。それから今度は、沼先生が言ったね、縫製でやったときにイモコを入れた話。イモコは、あれは増量じゃないんですよ。テバ切りなんです。そういう誤解を招いたことで、悪いほうへみんなが話を持っていったので、八王子産地というのは、何かいいものつくると、またまやかしつくったというような感じがあるんですけど、イモコは増量じゃありません。糸を返しているうちに落っこっちゃいますから。首台のところにみんなイモコがたまります。あれはテバ切りなんですよ。それで、ふろに使ったりなんかしてやるんですけど、そういう誤解を招いたのが向こうに詰まっちゃったんだね。
 人間も悪いんです。人間もそれでやっていこうという人を育てないから。何かの試験があるなんていうと、あんなものやったって時代おくれだと言って反対するんだから。そういう時代を私は生きてきたけど、とうとう66になっちゃったけどね。
 そういうことだから、もう少し構造改革みたいなのをやらなきゃだめですよ。人間の意識改革ですよ。そういうことをやって……。だからこういうディスカッションしてもいいから、そういう方向に政治も民衆も行かなきゃ。民衆といったら市民が行かなきゃならないし、もう八王子だけにとどまらないで、全国のシルクで、日本のシルクでいいんですよ。八王子シルクじゃないですよ。それをみんな小さく考えて……。大体小さく考えて、でかく持っていかないと。でかいところから来るのは、官誘導型だからね。でかくやるんだったら官誘導型でやりゃいいんです。小さくやるんだったら下から上がっていく。そういうのを間違えてやっていると思います。
 だから皆さん、一応パネラーになってやっているんだから、そのぐらいのことの指導力があるんだと思いますので、そういう指導の会をつくっていただいて、これからもっと強力に進めていくことが八王子のためにもなるんじゃないかと私は思います。(拍手)

岡本: ありがとうございます。
 それじゃ、宮本さん、最後にちょっと……。

宮本: 先ほど富岡製糸場が世界遺産に認定されるという動きがあると言っていましたけれども、それと同時に、今、富岡製糸場のことを後世に伝える語り部、伝道師を募集しているんですね。30名ばかりなんですけれども、この27日が申し込みの期限なんです。ご希望の方、語り部になりたいとか富岡製糸場の資料を見たいという方は、出口のところに置いてありますので、帰りにぜひ持っていってください。以上です。ありがとうございました。

岡本: ありがとうございました。
 長い時間ありがとうございました。まだフロアの方々もこちらのパネルの人たちも語り足らないところもあるかもしれませんけれども、これはあす以降にまた残しておきましょう。どうもありがとうございました。(拍手)

司会: 岡本先生、パネリストの皆様、本当にありがとうございました。長時間お疲れさまでございました。こちらの階段からどうぞご降壇くださいますようにお願いいたします。

高林: それでは、事務局よりご案内申し上げます。
 本日は、長時間にわたりましてディスカッション、また熱心なご討議ありがとうございました。懇親会にご出席される方にご案内いたします。これより6時から、八王子駅の新宿寄りの京王プラザ八王子におきまして懇親会を行います。5階の翔王の間ということになっておりますので、ただいまから速やかにご移動をお願いしたいと思います。
 なお、あすは朝9時半より2日目のシルク・サミットを開会いたします。ぜひご参加のほどお願いをいたします。
 なお、女性の皆様であす参加されない方は、受付のほうへ名札を返却していただければありがたいと思います。よろしくどうぞお願いいたします。
 あすは9時からエレベーターが動きますので、この会場へ入ることができます。皆様のまたのご来場をお待ちしております。本日はどうもありがとうございました。


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