木下研究技術情報官:  続きまして、基調講演の続きをさせていただきます。嶋崎先生から『絹の文化』と題しましてご講演をいただきたいと存じますが、その前に先生の略歴をご紹介させていただきます。先生は農林省、蚕糸試験場、信州大学繊維学部教授を経まして、現在、市立岡谷蚕糸博物館の名誉館長の職にございます。先生は一貫して数理統計学にもとづく製糸の行程管理技術の構築に携わってこられ、今日の製糸の行程管理や品質管理は、先生の理論が不可欠と言われているところでございます。さらに先生は、日本と中国との蚕糸科学技術交流を進め、中国の蘇州大学の名誉教授になられるなど、両国の交流にも大変努められておられます。それでは嶋崎先生よろしくお願いいたします。


『絹の文化』

市立岡谷蚕糸博物館名誉館長 嶋崎昭典

  ご紹介いただきました嶋崎です。今日はここに記しましたような手順でシルクのお話をさせていただきたいと思います。時間がきたところで打ち切るというようなことで、話を進めさせていただきます。

 究極の繊維−繭糸− 蚕のはく1本の繭糸は、1万メートルの長さが3グラム位、非常に細い糸ですので、何本かが束ねられて織物の原糸、生糸が作られています。そういう生糸が1着の着物を作るのに、30万メートル以上の長さが必要です。道具のなかった古代の糸繰りは大変な根気仕事だったと思います。繭作り、糸作り、織り、染め、そういう煩わしい仕事が、今から3,500年程前、既に行われていたようであります。それほどまでして手間暇にかかるシルクというものが作られたということは、贅沢なユーザーの層があったということを意味し、豊かな社会が存在し、文化の香りのする国家もあったことを想像させます。反面、それを支える奴隷の苦しみ、悲しみというものもまたあったろうと思います。そのように考えていきますと、今はたずねる術のない、古代の人々の喜び、悲しみ、というものが絹を通して伝わってくる、そんな思いがするのであります。今日は、そういうような観点からのシルクというものをご紹介してみたいと思います。
 今から5千年程前に、繭糸は人間が入手できる究極の良い糸だということを古代人は知っていたと思うのです。繊維加工の最初は、15万年程前世界各地で自然発生的に起こったと言われておりますが、それは衣服を作るということではなくて、狩りなどの道具づくりに必要な“縄ない”作業であったようです。ここに投石索という図を載せてあります。蔓だとか、若木の柔らかい小枝を使って作った道具に比べて、柔らかくて軽く強い、そういう縄を使った投石索は、格段の威力を発揮したことだろうと思います。繊維加工の第2の転機は、地球最後の氷河期、5万年位前、人類は既に骨針とか竹針を使って縫い合わせた動物の皮を身にまとう知恵を身につけた時のようであります。

 1937年に北京市郊外の周口店の竜骨山の洞窟の中から骨針や石針が何本も出土しました。長さは10センチたらず、幅は3ミリ、それぞれの針には糸を通す目がついております。骨針の出現は、細くて長くて強い糸を必要とするようになりました。新石器時代の始まり頃になりますと、葛の皮などを煮たり腐らして繊維のもとだけを取り出す、精練ということが行われるようになったようですけれども、そのようにして取り出した細い繊維のもとは短い。そこでそういうかたまりの綿から紡績という糸紡ぎが行われるようになった。だいたい1万年位前のことと言われております。

 そうした糸がたくさんできるようになってまいりますと、骨針による網、編物ができてきますが、そのうちにここの図に示したような縦糸を何本も平行に並べそこへ骨針が縫うようにして横糸を入れて布を作る、布作りが始まったようであります。
 そのうちに1本おきに縦糸を同時に引っ張り下げて、できた空間へ、端から端まで横糸1本を打ち込む、機織りが行われるようになった。だいたい7千年位前ではないかと言われております。1番古い布というのはエジプトのファユム遺跡から出た亜麻の布と言われております。

 中国でも6千年位前から出ておりまして、1972年に蘇州郊外の草鞋山という遺跡から骨針編みで織られた葛の布が出土しております。これは1センチの間に縦糸10本という目の粗いものですが、この中に菱形の模様が織り込まれている。ということは、織りではなくて、骨針編みだろうと言われています。このように、7千年、6千年位まで前の時点ですでに、人類は良い糸作りというものはできるだけ細い糸をより合わせる、と言うことの中に良い糸作りのコツがある、所謂、繊維加工の根本原理を習得としたようであります。そして究極の細繊維として繭糸に注目したようであります。

 繭を作るようになった蚕のお腹の中には2本の絹物質が入った袋でお腹がいっぱいになってまいります。最近の研究によりますと、桑を食べて吸収したアミノ酸が2時間半位たつと、すでに絹物質のフィブロインを合成して、図の中にDと書いてある1番細い所に分泌する。分泌されたのが逐次上に上がって、セリシンと言う接着剤のある太い所にプールされて、吐糸孔の手前で1本に合体され、糸が押し出される。繭作りには1秒間に約1センチの速度で蚕は糸を引っ張りながら繭を作ります。従いまして、繭糸1本を切ってみますとここにあるように三角おむすびのような絹の本体と接着剤が合わさった形になっています。その三角おむすびの1つがブランと言われている。これをよく見るとこれは2,000本位のフィブリルという細い繊維の束になっている。このまた1本のフィブリルはさらに、ミクロフィブリルという数10本以上の糸の束になっている。一つのブランだけを見ただけでも、何10万という糸の束のまた束のまた束でできていると言われております。硬い鉄の棒も、髪の毛のように細くしていきますと自由にたわみ色々変形できるようになる。そういう細さという秘密の中に色々な特性がある。シルクの持っているすばらしい特性も、かなりの部分が糸の細さの集まりの中にと言われております。絹のよさとしての着心地がいいというのも、柔らかくて、滑りが良い、しかし、縛れば帯締めのようにきちんとほどけないとか、爽快な気持ち、軽い、暖かい、色々な特徴というものがその細さの中にある、と言えるかと思うのであります。

 1958年に浙江省の銭山漾遺跡からシルクの布と、リボンが出土致しました。そのシルクの糸を見るとつるつるし、すべすべしている。所謂、精練されてセリシンが取られている。切り口は三角おむすびのようで、よりがない。また同時に、そこに示しましたような繭の糸口を見つける、小箒まで一緒に出てきた。しかもこの織物は1センチあたり、縦横約50本の糸からできている。今の羽二重と同じくらいの高い水準の織物が出てきました。こういうようなことを通して、古代人はシルクというものに深い関心と同時に、それについての特徴もすでにつかんでいた様であります。

古代の語り部−糸− 二番目の話として、糸というもの、これが古代の語り部と言えるということについて、お話をしてみたいと思います。中国で1番古い辞典に、漢代に作られた許慎の『説文解字』というのがあります。その説文解字で糸をひろってみますと、糸文字は、糸を束ねた時の姿と言っております。それに対して、徐?は、補足をしまして1匹の蚕の吐く糸を忽(こつ)と言う。10本の繭糸を合わせたものを糸2つのシ(絲)と言う。糸1つは、5本の繭糸を合わせたものである。このように言っております。手元の阿部吉雄さんの旺文社の漢和辞典を開いてみましても、シ(絲)と言う、これはベキ(糸)と言う、そしてその元の形、甲骨文字や金文に出てくるイト(絲)という文字、これは繭から出る糸をより合わせた形、5個をより合わせた糸を2本合わせてる、と説明しております。

 漢の時代から魏の時代の間に編纂されたと言われている孫子算経という本があります。これはド(度)、長さの単位は、コツ(忽)を最小単位に出発点にしている。そしてそのコツ(忽)とは何かと言うと、蚕の吐く糸、これをコツと言う。10コツでもって、1シ(絲)とし、10シで1ゴウ(毫)、10ゴウで1リン(釐)、10リンで1プン(分)、10プンで1スン(寸)、10スンで1シャク(尺)、10シャクで1ジョウ(丈)と、このように長さの単位はできていると言っております。ということは、繭糸の糸幅が、自然に見ることの出来る長さの最小単位だ。だから長さの1番基本単位にしたのだ。と解釈できるわけです。

 そこで今言われてきたようなことを絵に描いてみます。まず繭から引き出す1本の糸、これはコツと言う。その5個の繭糸を合わせてよりをかけて1本にする。これをベキと言う。5粒付けの糸であります。それを少しモデル化して、こういう姿にして、できたこれが甲骨文字、糸の文字である。ということは、この糸のショウ(小)というのは繭から糸を引き出した姿である。この糸がしら(幺)の所は、よりがかかっている。ここの甲骨文字のてっぺんの髭は、1本の生糸を表しているというように言えるかと思います。そして普通に使われる糸、昔使っていたのはこういうのを2本合わしたものである、と言えるかと思うわけであります。

 漢字というのは『説文解字』に始まりまして、みんな部首、へんやつくりで分類しております。例えば、きへんと言うところを見ると林とか、森とか、松、杉、柱、枯れる、こういう文字がきへんの中にありますけど、この中は一貫して木というものが関わっている。だからきへんの文字の数が多いということは、文字が作られたような古代において、人間の生活に密接な関わりがあった、と言うことの1つの証拠ではないかと思う訳であります。そこでつくりや、へんごとに文字の数を全部拾い出しまして、数の大きい順に度数分布を作ってみました。さんずいと言うのが1番多い。次がきへん、くさかんむり、てへん、くちへん、にんべん、いとへんと並んで、10個だけ今ここに出しました。ただ、へんやつくりの分類基準は、それを編集した人に任せられていることのようでありますので、辞典により若干の凹凸はありますけど、だいたい変わりがない。今、分類した、1番多い方から順番を10番までつけまして、まずこの3つのグループ、さんずい、きへん、くさかんむり。これは、水、木、草、自然そのものを指します。次の、てへん、くちへん、にんべんは、これは人体。そして次の、いとへん、かねへん、これは人間が作った工業産品であります。9番、10番のりっしんべんや、ごんべん、これは1番私たちが相手に伝えたい意思、心、言葉、こういうようなことになってきます。と言うことは、古代において工業産品の首位は糸だと言うことになします。糸というものが、いかに文字が作られた頃重要な人間との関わりがあったかということを、これは言っているのではないかと思うわけです。それならいとへんは、全部生糸に関わらなければ今の話は通じないことになります。そこで色々と当たってみます。今例えば純粋の純、これは私たちは生糸とは無関係の言葉だと思いますが、いとへんです。さきほどの『説文解字』は、純というのは糸である。生糸であると言っています。旺文社の漢和辞典を見ましても、「意味1:生糸」であります。それがもとでそれから色々言葉へ波及して使われてきたのだと、ここには書いてあります。訓練する、鍛練する、練と言う字があります。この練を『説文解字』に見ますと、練とは絹を練ることであると書いてあります。漢和辞典を見てみると、意味の1は練る、生糸や絹をあく(灰汁)で煮て柔らかくし白くすること、だからいとへんだ、とこういっているわけです。鍛練するとか色々には流用されて使われているが、元の意味は、生糸をあくで練ることだ。だからいとへんだということであります。少なくとも『説文解字』に含まれている文字をこうやって当たっていきますと、全て生糸に関わるのです。

 それから色彩文字にはいとへんが多い。例えば、緑、それから紫、紅、紺、ここにあるのは『説文解字』1ページをコピーしたもので全部色文字です。それが皆、いとへんだということは、色は生糸や絹に関わらなければいけない。『説文解字』はこう説明しています。緑という字は、練り絹を青と黄で染めた時に染まる絹の色。それを緑と言う。紫と言うのは、練り絹を青と赤で染めた時の、その練り絹の染まった色を紫と言う。絹を染めて、その時に発色した色で、色文字というものは定義されている、ということであります。

 甲骨文字は今1,700位が解読されていると言いますが、その中に繭とか、蚕とか、桑とか、糸とかそういうものは全部含まれております。緑というような字も、もちろんその一つです。だけど、赤・青・黄という3原色はいとへんではない。これはもともとあった原色です。そういうようなことから見ますと、絹というものが古代どんなに大事な役割をしていたかというようなことが、この面からも感じられるわけです。

華麗な文化−錦− 糸の問題はちょっとおきまして、いよいよ身近な織物の所に入ります。華麗なる文化、絹を作ってきた代表はやはり錦だと思います。歴史学者の話によりますと、中国の歴史と言うのは、周・殷の時代からだと、それまでは伝説や神話の時代だと言われています。その歴史の、確かに始まったと言われる殷の時代の都があった所、これは現在の河南省の安陽県の大司空村と言う所の殷墟、殷の時代の発掘したものから実は、この22センチ程の玉でできた玉刀が出土しました。そのここの所は、雷紋のついた織り模様の絹なのです。これは祭礼用の物らしくて、朱沙で染められ織り模様のある絹です。これはちょっとOHPがよくありませんが、明日博物館でこれの原物を展示していただいてありますので、そこで物を見ていただきたいと思います。

 この織物のことは綺と呼んでいます。綺というものを説文解字で見ると、綾絹のことである、模様が織り込まれた絹のことである、と言っています。漢和辞典を見ますと、ここに綾、光、色、つや、それから綺というのは、光の色なり、とあります。白い地模様を持ったきれいな練り絹を着て、貴婦人が散策をしていると、体の動きなどによって、あるいは風の動きやそういうことで、地模様がすうっと浮かんで出てくる、光がかなえる色なのです。そしてまた、すうっと消えていく、それは古代の人から見たら誠にこの世のものではない、すばらしいものと思ったようであります。その綺という光が作り出す模様のすばらしさから、綺麗と言う言葉は出てきたのです。

 その時代から500年程たって、周の時代になりますと、色糸で模様を織り出すことが行われるようになります。所謂、錦の出現であります。ただいつ頃かははっきりしない。錦というのは絹ですから、いとへんでなければいけないのに金へんなのです。『繹名』は、それをこう説明しています。「錦は金也。之を作るに功を用いる重し。其の価金の如し、故に其制字は絹と金で作られている」。このように説明しております。紀元前750年頃に斉の国のお姫様が、衛の国の荘公さんの所へお嫁にいきます。その時の花嫁行列を歌った詩が『詩経』と言う中の「碩人」というのに出てまいります。そこには、「優れし人はそれたけ高く錦を着て涼しの衣を着る」と、このように書いてあります。これを毛伝と言うのが説明しまして、「婦人の徳は盛んにして尊し、嫁する時には即ち錦衣に??、薄い内掛けを加うる」とこう書いてある。婦人の徳というものは、教養の高さや美しさというものを、きらきら見せびらかすものではない。それは奥深くに秘めて微かににおわす、それが婦人の徳なのだ。それを実際に姿で表したのが、あの花嫁衣裳だと、お嫁に行くときには即ちその美しい錦を着て、上に薄い内掛けをかけてわずかにその錦の美しさを見せるものだ。このように説明している。錦というものは、そういうもう紀元前750年代には確かにあって、花嫁衣裳のルーツを作り、しかも胸の思いを衣装に託するファッション心理の先駆け的な役割を果たしていた、というように思えるのであります。

 そればかりではないのです。周の時代になってきますと、色というものに色々な意味を持たせるようになる。例えば赤・青・黄、これは3原色。それに白・黒を加えた5つの色を正しい色、正色と言って尊く、それ以外の作られる中間色は、あまり尊いものではないと区別するわけです。正色は根源色ゆえに尊い、中間色はそれによって作られた枝葉の色だから卑と、こういう尊卑の思想を色に与えてまいります。先ほどお話しました荘姜さんの結婚はどうも幸せではなかったようです。その荘姜が歌ったと言われる緑衣と言う詩が『詩経』の中にあります。それについて春秋左氏伝の隠公3年、紀元前720年の項に「衛の荘公、斉に娶る、荘姜という身なれど子無し」、子供さんがいなかったようであります。先ほどの毛伝は、緑は間色、黄は正色なれと言う注をつけております。緑衣の荘姜さんの想いを歌ったと言うのは、“緑の衣よ、緑の衣に黄なる裏。心の憂うる”。緑の、これは中間色、それが上着になって、そして、その緑の上着の裏地が黄。これはあべこべじゃないか。緑の衣よ、緑の衣に黄なるズボン、心の憂う。いつか、これ、それ忘れん。いつこの憂いが消えるだろうか。私は、正妻。なのに子が無い故に、2号さん、3号さんがわが世を謳歌している。これは、反対じゃないのか。私のこの悲しい気持ちは・・・と、色に例えて、この荘姜さんは歌っております。こういうような文化的な色々なセンスや感覚というものは、今から3000年位にはもう既に絹を通して伝えられて来た、と言えるかと思うのであります。
 しかし錦にしても絹というのは、それは土中におくと腐ってしまったりするもので、遺跡から出土するのは少ない、だから錦は素晴らしいということををわかっていましたが、どういうものかという姿が出なかったが、それが出たのです。戦国時代です。戦国時代は秦と楚、楚は揚子江の中流から下流を占めている大国でした。その楚の都があった郢と言う所、今の湖北省の江陵県馬山と言う所の、戦国時代の墓から1982年に錦が出てまいりました。これは、拡大したものですが、ここに舞を踊っている人がいて、その後竜とか、鳳凰とか、麒麟とか言うのがいっぱいこの中に織り込まれている。3色で織り出されている、経錦でした。その1部分だけですが、図に示します。幾何模様的にこれだけのものが織られている。約50センチ幅のものですが、それがこういうデザインで素晴らしい。それが戦国時代、既に作られていた。中国は、中国の文化の高さ、水準の高さを示す格好の物というので、国内はもちろん国外にまで、この錦を貸し出しました。

 そういうように戦国時代にはこのレベルまでの、かなり高い水準に絹文化は発達してきたようですが、それを決定付けたのが1972年に湖南省の長沙と言う所から出た、漢の時代それも漢の始まり、紀元前192年頃と言われていますが、その弾力のある婦人の遺体、ミイラじゃない押したらポンともどったと言うのですから、その遺体が出てまいりました。遺体自身がそんな状況ですから、そこに収められているのは、紀元前200年頃の生活様式をまざまざしく私達の目の前に示してくれたものです。ここに婦人がいまして、それで北枕で寝ています。そして頭の部分には白粉とか、鏡とか、口紅とか、眉墨とか、色々な婦人の身だしなみの物がいっぱいあります。こちらの方には、牛とか、馬とか、あるいは鶏とか、犬とか、鹿とか、色々の物、鶏なら鶏一羽そっくり入れてあるのです。そしてその側には、お米とか、小麦とか、大豆それから大麦、きび、あわ、こうりゃん、そういうような穀物類がいっぱい入っています。少し炭化はしているけど、そのまま出てきたのです。鶏などは骨だけです。そのこちらには色々の壺やそういう物があって、ここにあるのが衣料品です。柳こおりみたいなのにいっぱい詰まっていた。そして158点の絹物が出てまいります。麻が1点か2点で、ほとんど絹だったのです。そしてこの遺体は、22枚の着物を着ている。春夏秋冬のそれぞれ自分が着たのだと思いますが、それに包まって遺体は出てまいりました。そして完全な服、所謂衣装というものが58点も出てまいりました。これは漆器のすばらしいもので、耳のこういうのがあるので耳杯と言われていますが、杯です。ここには、?侯家とその所属が書いて、この中には「君に幸せ酒」とこう書いてあります。全くこれと同じような、ここに(また後で見て下さい)本物と全く違わない、入れ替えてもわからないでしょうと言われる、耳杯がここにあります。すばらしい。そんな状態ですから、錦もたくさん出てまいりました。これはその1つであります。経錦であります。色は3色で織り出した色。これは先ほどの綺という中に刺繍がされたり色々手が込んでいます。

 これらが、もう少し暗い部屋の中で、博物館に展示されております。私はそれを見たときに、背筋が寒くなるような、妖気が伝わってくるような、不思議な思いをしたのです。というのは、今から20数年前に、北京の歴史博物館へ行きました。その時に、説明者が、お皿の工房だと言ったけれど、その中は頭蓋骨の山なのです。それで説明して下さった方が、これは奴隷の頭だ。お客さんが明日は大勢来る。皿が足りない。奴隷主は働きの悪いあれとあれの頭で作れと言われたら、あくる日はお皿になって宴席に出ているのです。これが奴隷なのです。奴隷の運命なのですと言われた。それがすうっと頭をよぎりまして、そういう実際の生産に携わっている者が、自分の命を守るのは他の人にない技術を身に付けていることだ。親として子を守ってやれるのは、そういう技術をこっそり子供だけに伝える。父子相伝のこと。そういう技術蓄積の中に、古代文明が築かれ、高い水準にあったのではないかなと、その時はっとして思ったものであります。
 それからさっきの糸文字のところですが、わたしは1つだけ納得できないことがある。それは先ほど申しましたように、長さの単位というものは、十進法で全部できているのに1番大事な私たちの関心のある糸は、5本のものです。この2つやってシ(絲)になる。どうして異質なこういう5があるかということです。それについて、今の中で最も細い絹織物を作ることのできる原料糸の太さ、生糸の太さが5本の繭糸を合わせたもののようだ。その説明を聞いていまして私は、はっとしたのです。ここにあるのが、馬王堆の先ほどの所から出た絹織物ですが、重さが25グラム位、1着分です。これが、先ほどの花嫁さんが上に着た薄い内掛けのようです。こういう特殊なものを作る時、その時の糸が5本の繭糸の生糸なのです。繭糸5本、それで、ここにあるようによく文献に出てくる、絹の細さ、薄さを言うのに、「薄きこと蝉翼の如く軽きこと烟霧の如し」とこう言う。蝉の羽のように薄く、そして煙のように軽い。今お見せしたものの光の透過度が75%です。これを作るために1番特殊な糸作りとして、やはり5忽が殷の時代からあったと考えられるわけであります。私たちも戦前は、日本の輸出生糸は5本の繭糸の糸でした。それが主体だったのです。戦後は、10本の繭糸の糸が主体になってきます。3千年あるいは4千年前から変わらずに糸作りの基本が伝わってきているのに、不思議な想いがします。

 東西の交流 時間が来てしまいましたので、少し飛ばしてまいります。そのようにしてできた漢の時代の技術というものが、シルクロードを通ってヨーロッパへ、また日本へまいります。その砂漠の中にはたくさんのシルクが眠っています。先ほど申しました錦のような、この舞っている人の模様も数年の間に炭になってきた。そこで中国は、展示はもうしない。その代わりに出土したものと全く同じ水準のものを復元する研究所を作りました。そして現在10数件が復元されてきております。ちょっとスライドがよく出ませんが、これはさっきの舞っている人の錦ですが、これは明日博物館で見ることができます。
 これは1992年の日中友好20周年の時のポスターで、ここにあるこれは、ニヤ遺跡と言うところから出た漢代の錦ですが、これも復元されております。これは群馬の絹の里にあります。これは唐の時代のものです。こういう復元品を中国は、出土した所と、北京の歴史博物館と、復元した研究所の3ヶ所分だけにしか作らせないし、置かない、展示しない、希少価値を大事にしております。その中、1点だけは日本へということになりまして、それが群馬と岡谷の方に入っております。それから岡谷で明日見ていただく中に、明の時代の宮廷に飾られていたカク糸と言うつづれ織りの龍がありますが、錦を超える次の織物と言われているもの。これは明日また時間があれば現地でご説明さしてもらいます。すみません時間がきてしまいました。 

 いま何を まとめと致しまして、このように見てきますと絹の文化は、今は尋ねる術もない古代からの人々の喜びや悲しみ、それから世相、あるいは技術水準、文化を時を越えて蘇らせる。人類の素晴らしい智慧の深さと広さを今に伝える語り部ではないかと。そして、大切な生き証人ではないかと思っております。平成10年の4月から日本の蚕糸業は全く新しい道を進むことになりまして、国の法律や諸々のサポート体制がゼロの状態で歩んでゆくことになります。産業界を取り巻く、こうした環境の変革の中で、博物館はどうあるべきか、大きな課題と思うわけであります。岡谷の蚕糸博物館は、今集めておかなければ困難な資料の収集を精一杯やっております。2番目に絹の元の宗国である中国と学術協定を結びまして、中国の古代絹文化を始めとする資料を収集しております。それから先ほどちょっと紹介しました『博物館紀要』というのを刊行し始めて5年になります。ここには生き証人としての大正の始まりから昭和にかけて、製糸で働いた方たちの聞き取り調査や、あるいは日本の蚕糸技術はここまで来ましたというものを、それぞれの関係の方たちに書いていただいて、それから海外便りは、5号はイタリアに入っております。そういう所の交流や、色々なものをやっております。がしかし、大事なことは、これからの新しい時代に求められる広く社会への積極的貢献というものにどう取り組むか。過去の物の展示から一歩進めて社会へ貢献していく、ということでありますが、それはなかなか難しいことであります。私達このサミットに期待するところ、非常に大きいものがあります。今日は西尾先生に、博物館がこれからいかなければならない示唆をいただいたわけです。これから皆さん方との交流を深くする中で、新しい博物館の歩みを、しっかり踏みしめていきたいと思いますのでよろしくお願い致します。どうも長い間ありがとうございました。


  木下研究技術情報官:  ただ今は嶋崎先生から、生糸や絹の歴史的な各種資料や、文字から分析された大変興味深いお話をいただきました。大変ありがとうございました。もう1度拍手でお礼をしたいと思います。次に事例発表に移りますけれど、少し事例発表のための準備がございますのでここで5分間休憩をさせていただきたいと思います。よろしくお願い致します。