野村町の養蚕
(博物館の展示説明より)
野村町の養蚕は明治初期に始まっています。
傾斜地に広がる畑地に適し収益性の高い養蚕は急速に普及し、大正初期には1,138戸が養蚕を行い、春から秋にかけては米と養蚕を、冬の農閑期には野村町特産の和紙「泉貨紙」を作り生計をたてていました。
このころ生産した繭は馬車、人力、或いは肱川を筏で宇和町や大洲市の繭市場へ売りに行っていましたが、繭仲買人に買い叩かれることが多く、養蚕農家の収入は非常に不安定でした。
このような養蚕農家の窮状を見かねた有志の呼びかけにより、昭和6年には繭市場、乾繭、倉庫業務を行うため東宇和郡購買販売組合を創設し、昭和8年には製糸工場を建て「野村の繭から野村の生糸を」という悲願を達成し、養蚕農家の経営は飛躍的に発展しました。
恵まれた風土のなかで飼育された繭から、町を東西に貫流する肱川の清らかな水と高度な製糸技術から生産された生糸は野村生糸「カメリア」(椿)の商標で販売され、国の内外で高い評価を得て、野村町の産業経済の発展に大きく貢献してきました。
