海野宿について
海野宿は、寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。北国街道は、中山道と北陸道を結ぶ重要な街道で、佐渡で採れた金の輸送や、北陸の諸大名が参勤交代で通った道であり、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多かった。
海野宿が田中宿と隣接して置かれた理由として、海野は東信第一の豪族海野氏の城下町であったこと、依田窪方面や松代からの道や祢津からの道が集結する交通の要衝にあたること、毎月6回もの市が開かれていたことなど、交通・商業の中心地であったことなどがあげられる。
宿場の延長は約6町(約650メートル)で、東と西には桝形が置かれ、東の桝形には番屋がありました。街道の真ん中には用水が引かれ、上宿・中宿・下宿に分かれていました。
明治時代に入り、宿場の機能は失われてきたので、本海野の人々は宿場時代の広い部屋を利用して養蚕・蚕種業をはじめ、「宿場の町から養蚕の町へ」と移り変わってきました。この養蚕最盛期に建てられた堅牢な蚕室造りの建物は、江戸時代の旅籠造りの建物とよく調和して現在まで残されてきました。この歴史的な家並みは、昭和61年に「日本の道百選」の一つに選ばれ、62年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。
