八尾の蚕糸業

元禄年間 養蚕農家が次第に増加し、後も富山藩の奨励で栄えた。
貞享、元禄年間に、山屋善右衛門、紺屋治兵衛等が蚕種を初めて製造
1781(天明元) 山屋善右衛門らが城ケ谷に蚕養宮を建立
1813(文化10) このころ、蚕種の販路が全国に広がり八尾の蚕種は全国の4分の1を占めるまでになった。
(越中、越後、越前、加賀、能登、近江、丹波、丹後、但馬、美濃、飛騨、信濃、尾張、三河、甲斐、武蔵、相模)
富山藩の御納戸といわれ、蚕種商人に苗字帯刀が許された
1861(文久元) このころから海外へ蚕種と生糸が輸出される
1872(明治5) 機械利用の八尾第一製糸場が高熊にできる
1880(明治13) 橋爪治郎作が私設の養蚕伝習所をつくる
1896(明治29) 八尾町清水に町立蚕業学校が創設される
1901(明治34) 八尾町立蚕業学校を県に移管し、県立農学校(現福野高校)八尾分校となる
1906(明治39) 源川原(今の桂樹舎のあたり)に生糸共(合)同揚返場ができる
1908(明治41) 県立農学校八尾分校が県立蚕業学校に分離昇格する
1913(大正2) 富山県立蚕業学校、福野農学校に吸収され廃校(卒業生550名)となる
1916(大正5) 蚕業学校跡に富山県原蚕種製造所が設置される
1922(大正11) 富山県原蚕種製造所が県立蚕業試験場に改組される
1938(昭和13) 合同揚返場八尾社ができる
1945(昭和20) 蚕業取締所は八尾支所を除き、他の4カ所が廃止される
1946(昭和21) 八尾社製糸場が操業を始める
1947(昭和22) 繭検定所が蚕業取締所八尾支所跡に移転し、繰糸業務を再開する
1948(昭和23) 蚕業試験場内に富山県蚕業技術指導所が設置される
1949(昭和24) 蚕業取締所、繭検定所と蚕業技術指導所が蚕業試験場の付設機関として統合
1953(昭和28) 富山県蚕業技術指導所が富山県蚕業試験場付設八尾蚕業技術指導所と改称
1964(昭和39) 蚕業試験場付設蚕業取締所の機関名を廃止し、業務は蚕業試験場で行う
1969(昭和44) 蚕種製造配布業務を廃止
1980(昭和55) 機構改革に伴い、蚕業試験場と製紙指導所を統合し、山村特産指導所を設置
1986(昭和61) 農業技術センター山村特産指導所と改称。繰糸業務を群馬県に委託する

このような歴史のある八尾の蚕糸業ですので、いたるところにその名残があります。例えば、八尾の曳山展示館横の坂は「げんさんの坂」と呼ばれていますが、この場所に「原蚕種製造所」があったことからそう呼ばれることになったそうです。同様に、「ごうどうみち」「ごうどうの坂」と呼ばれる坂もあります。これは、現在の桂樹舎(和紙文庫)のあるあたりに「合同揚返場」があったことにちなんでいます。


原蚕種製造所と右に見える旗。2つの繭と2枚の桑の葉が見てとれます

その他、小学校の校章にも特徴があります。八尾小学校の校章は、「八」の字の2頭の龍が繭形の「尾」の字を守っているデザインになっています(左)。野積小学校の校章は、稲穂の円の真ん中に「野」の字があり、その下に繭が見られます(右)。


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