製パン初期過程における遺伝子発現変化
製パン用のパン酵母は、栄養分や温度条件等の厳密な管理を受けながら好気的条件下で培養されます。
パン酵母は、パン生地に加えられると急激な環境条件の変化に曝されます。このような環境変化に対して、
パン酵母はどのように適応しているのかを明らかにするため、我々はパン生地発酵の初期過程におけるパ
ン酵母の遺伝子発現プロファイルを取得しました。その結果、酸素呼吸から発酵への移行を裏付けるよう
に、発酵初期にはTCAサイクルに関連する遺伝子の発現が抑制されると共に、解糖系関連遺伝子の発現上昇
が確認されました。また、unfolded protein response (UPR)に関連する遺伝子の発現が上昇するなど、興
味深い現象も観察されました。
高ショ糖ストレス
パン酵母には、菓子パン等に用いられる高糖生地の発酵に適したものや、フランスパン等の無糖生地の
発酵に適したものなど、生地の種類に応じた様々な種類が存在します。我々は、高糖生地用パン酵母
(HS株)と無糖生地用パン酵母(LS株)を用いて、発酵過程における遺伝子発現変化や発酵特性等を比較
し、両株の特徴付けを試みました。その結果、グリセロールやトレハロースといった適合溶質の代謝に関
連する遺伝子の発現は、ショ糖含有条件ではHS株よりもLS株において高レベルであることが分かりました。
しかし、適合溶質の生合成関連遺伝子の発現レベルと適合溶質の細胞内濃度との相関は低いことが分かり
ました。
冷凍ストレス
パン酵母は、冷凍生地製パン過程において、凍結・融解に伴う冷凍ストレスに曝されます。凍結・融解
による冷凍傷害は、パン酵母の生存率や発酵力を大きく低下させます。冷凍傷害がどのように起こってい
るのか、冷凍傷害からの回復に必要なものは何なのかを明らかにするために、凍結・融解後のパン酵母に
おける遺伝子発現を解析しました。その結果、金属イオンの恒常性に関わる遺伝子群の発現が冷凍期間に
依存して上昇することが確認されました。特に銅イオンの恒常性に関わる遺伝子は、欠損することにより
冷凍感受性が高くなることから、冷凍耐性には銅イオンが重要であることが示唆されました。銅イオンの
添加によって凍結・融解後の生存率が向上することも確認できました。
乾燥ストレス
ドライイーストは、培養したパン酵母を乾燥して製造されますが、その過程で酵母には熱や乾燥を伴う
過酷なストレス(乾燥ストレス)が負荷されます。我々はドライイースト製造を模倣した通風乾燥過程に
おけるパン酵母の遺伝子発現変化を解析し、乾燥ストレスがパン酵母の遺伝子発現に及ぼす影響を調べま
した。その結果、乾燥初期にはタンパク質のフォールディングに関与する遺伝子の発現が一過的に上昇し
ていました。また、乾燥過程において脂肪酸代謝関連遺伝子の発現が高く維持されていることが示唆され
ました。
遺伝子破壊株セットを用いた網羅的表現型解析
高ショ糖ストレス
菓子パン等に用いられる高糖生地中では、パン酵母は高いショ糖濃度に曝されます。従って、パン酵母の
高ショ糖ストレス耐性は実用レベルにおいて極めて重要であると言えます。しかしながら、高ショ糖ストレ
ス耐性の機構には不明な点が多く残されています。そこで、我々は高ショ糖ストレス耐性に必要な遺伝子を
明らかにするため、出芽酵母の非必須遺伝子破壊株セットを用いた網羅的な解析を行いました。その結果、
273株の高ショ糖感受性株を同定することに成功しました。これらの株について、ソルビトールおよび食塩
に対する感受性等を調べたところ、プリン合成関連遺伝子等の破壊株が高ショ糖ストレス特異的に感受性を
示すことが明らかになりました。ショ糖、ソルビトールあるいは食塩による高浸透圧下における細胞内ATP
濃度を調べたところ、プリン合成関連遺伝子の破壊株では、高ショ糖存在下でのATP濃度が極めて低いこと
が分かりました。このことから、細胞内ATP濃度が高ショ糖ストレス感受性を決定づける一つの要因である
ものと示唆されました。
冷凍ストレス
パン酵母は、冷凍生地製パン過程において、凍結・融解に伴う冷凍ストレスに曝されます。そこで、冷凍
ストレス耐性に必要とされる遺伝子を明らかにするため、非必須遺伝子の破壊株セットを用いたゲノムワイ
ドな冷凍ストレス感受性株のスクリーニングを行いました。その結果、冷凍ストレス感受性を示す58株の遺
伝子破壊株を同定することが出来ました。感受性株の破壊遺伝子の中には、液胞酸性化や細胞壁形成に関与
するものが多く含まれていました。冷凍ストレス感受性株の多くは、酸化ストレスや細胞壁形成阻害剤に対
する感受性を示したことから、冷凍障害には少なくとも二つのメカニズム(酸化ストレス、細胞壁欠損)が
介在する可能性が示唆されました。
乾燥ストレス
パン酵母は、ドライイースト製造の過程で過酷な乾燥ストレスに曝されます。我々は、乾燥ストレス耐性
に必要な遺伝子を明らかにすることを目的に、出芽酵母の非必須遺伝子の破壊株セットを用いたゲノムワ
イドなスクリーニングを行いました。その結果、乾燥ストレス感受性を示す278株の遺伝子破壊株を同定す
ることが出来ました。感受性株の破壊遺伝子の中には、液胞酸性化を担う液胞型プロトンATPaseやミトコ
ンドリア機能に関与するものが多く含まれていました。これらの機能は、乾燥ストレスによって液胞酸性化
欠損株の細胞内pHが顕著に低下すること、および乾燥ストレスによってミトコンドリア膜電位が喪失するこ
とから、乾燥ストレス耐性において重要な役割を担っている可能性が示唆されました。乾燥ストレス感受性
と酸化ストレス感受性との関連について調べたところ、酸化ストレスは乾燥ストレスに対する感受性を決定
付ける重要な要素であるにも関わらず、酸化ストレス耐性への関与が知られている活性酸素種消去システム
は、乾燥ストレス耐性には必須ではない可能性が示唆されました。