DNAの塩基配列を容易に決定できるようになり、ある特定の遺伝子の塩基配列に基づき異なる生物間の系統関係を明らかにするために、「系統樹」を作成することは、分子生物学をツールとする研究者にとって日常の作業となっています。生物系の学会の研究発表会へ行けば、数多くの「系統樹」を目にします(たとえば、当所の最近の主要成果:http://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/sinfo/result/result20/result20_08.htmlの図2)。しかし、よく考えてみると 「系統樹」 は至るところに存在するものです。たとえば、「家系図」。誰でも一度は自らの生まれ(家系)に思いを馳(は)せたことはあるでしょう。自らのルーツを探ろうとすることは、人間の「知る」という根源的な性向の一つだと思います。
本書は、その「系統樹」をキーワードに、「生物学だけでなく神学・哲学・言語学・文献学・民俗学・認知科学・数学・コンピュータサイエンスなどに及ぶ分野横断的な視点に立って、系統樹が人間の思考のすみずみにまで浸透しているという事実を指摘し、「系統樹的思考法」が、われわれが思いこんでいる以上に広く深く浸透していること(本書の帯より)」を論じたものです。
プロローグで、著者は、いまや生物学の根幹となっている 「進化的思考」 を、生物学の枠から解き放ち、より広い意味での 「ものの由来の関係」 を探る思考法、それが 「系統樹的思考」 であると述べます。
第1章では、なんと 「科学の対象としての歴史」 が、系統樹的思考法から考察されます。その過程で、演繹でも帰納でもない第3の推定法である 「アブダクション」 推定法が「系統樹的思考」を進める上でいかに重要であるかが述べられます。
第2章では、古くからの学問の分類体系をめぐる考え方、さまざまな学問分野における体系学的比較を探りつつ、現代生物学のもっとも重要な分野である 「進化生物学」 が生物学を越えて、「思考法」の変革をもたらしたことが述べられます。そして、著者は、「経験科学としての「歴史の復権」を、支えているのは系統樹思考であり、一般化された進化学・系統学の手法である」 と述べるに至ります。
第3章と第4章では、「系統樹」 について簡単なグラフを利用して、基礎となる情報からいかにしてベストな 「系統樹」 が選ばれるのかが説明されます。そして、たとえば異なる生物が密接に相互作用しながら進化する 「共進化」 現象を探るためには、単純な樹の 「ツリー」 構造ではなく、より複雑に系統樹の組み合わさった 「系統ジャングル」 あるいは 「系統スーパーツリー」 が将来有望な手法となるのではないかと述べられます。
本書は、決して「生物系統学」の解説書ではありません。そのつもりで読む方はがっかりするかも知れません。あまり余計なことを考えずにページをめくるうち、著者の文章に引き込まれるでしょう。エピローグで、著者は、「系統樹というキーワードによって、どのような新しい視点が出てくるか、普段知っている世界がどのように違って見えてくるか」を考えながら書き進めたと述べていますが、そのもくろみは成功しているように思えます。
著者の博覧強記ぶりは、末尾の「さらに知りたい人のための極私的文献リスト」から十分に知ることができます。なお、本書の中で明かされているように著者は農業環境技術研究所の職員であり、著書に 「生物系統学」 (東京大学出版会、1997年)があります。
目次
プロローグ: 祖先からのイコン――躍動する 「生命の樹」
第1節: あれは偶然のことだったのか
第2節: 進化的思考――生物を遍く照らす光として
第3節: 系統樹的思考――「樹」は知の世界をまたぐ
第4節: メビウスの輪――さて,これから彷徨いましょうか
第1章: 「歴史」 としての系統樹――科学の対象としての歴史の復権
第1節: 歴史はしょせん闇の中なのか?
第2節: 科学と科学哲学を隔てる壁,科学と科学を隔てる壁
第3節: アブダクション:真実なき探索――歪んだガラスを覗きこむ
第4節: タイプとトークン――歴史の「物語」もまた経験的にテストされる
第2章: 「言葉」 としての系統樹――もの言うグラフ,唄うネットワーク
第1節: 学問を分類する――図像学から見るルルスからデカルトまで
第2節: 「古因学」――過去のできごととその因果を探る学
第3節: 体系学的比較法:その地下水脈の再発見――写本,言語,生物,遺物,民俗
第4節: 「系統樹革命」――群思考と樹思考,類型思考と集団思考
インテルメッツォ: 系統樹をめぐるエピソード二題
第1節: 高校生が描いた系統樹――あるサイエンス・スクールでの体験
第2節: 系統樹をとりまく科学の状況――科学者は「真空」では生きられない
第3章: 「推論」 としての系統樹――推定・比較・検証
第1節: ベストの系統樹を推定する――樹形・祖先・類似性
第2節: グラフとしての系統樹――点・辺・根
第3節: アブダクション,再び――役に立つ論証ツールとして
第4節: シンプル・イズ・ベスト――「単純性」の美徳と悪徳
第5節: なぜその系統樹を選ぶのか――真実なき世界での科学的推論とは?
第4章: 系統樹の根は広がり続ける
第1節: ある系統樹的転回――私的回顧
第2節: 図形言語としての系統図
第3節: 系統発生のモデル化に向けて
第4節: 高次系統樹――ジャングル・ネットワーク・スーパーツリー
エピローグ: 万物は系統のもとに――クオ・ヴァディス?
第1節: 系統樹の木の下で――消えるものと残るもの
第2節: 形而上学アゲイン――「種」論争の教訓,そして内面的葛藤
第3節: 系統樹リテラシーと「壁」の崩壊
第4節: 大団円――おあとがよろしいようで
あとがき
さらに知りたい人のための極私的文献リスト
索引
*より詳細な目次、正誤表は、著者が公開している本書のサポートページをご覧ください(http://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/minaka/files/DAKARA.html)。