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情報:農業と環境 No.83 (2007.3)
独立行政法人農業環境技術研究所

論文の紹介: 生物多様性を進化系統学的な尺度で測る

Preserving the evolutionary potential of floras in biodiversity hotspots
Felix Forest et al.
Nature, 445: 757-760 (15 Feb. 2007).

生物多様性(biodiversity)ということばは、ここ10年あまりの間に、時代のキーワードとなった。Edward O. Wilson が造語して以来、研究者世界だけでなく、一般社会にも浸透しつつあるこのことばが広く受け入れられるようになったのは、過去から現在にいたる地球上にはさまざまな地域にさまざまな生物がいることが誰にでも直感的に理解 できたからだろう。確かに、身の回りを少し見回すだけで、程度の差こそあれ、生物相が多様であることはすぐにわかるにちがいない。

ある地域の生物相が多様であるかどうかはどのようにすれば測定できるだろうか。「種数を数えればいいだろう」という意見がすぐに出てくる。確かに、定量的な生物多様度の尺度として「種(species)の数」でよしとする立場は今なお強い。しかし、種概念をめぐる果てしない論争、その結果、必然的に生じる数10にも及ぶ種概念の提案が乱立している。たとえば保全生物学において「〜の種を守れ」と言ったところで、その裏付けとなっている種概念に関する問題点は回避されるわけではない。種には、一般に受け入れられているほどの実体は何もないのだ。

本論文では、保全対象となる生物群に関する生物多様度の尺度として、系統樹(phylogenetic tree)に基づく「系統学的多様性(PD: phylogenetic diversity)」を提案し、それを地球規模の生物多様性マップにおける「ホットスポット」の保全に利用しようとする研究である。著者らは、南アフリカのケープ地域の植物相を対象に、葉緑体の rbcL 遺伝子の塩基配列に基づく分子系統樹を推定し、その系統樹に基づく系統学的多様度を算出した。その上で、対象地域の面積単位である QDS (quarter-degree square: 25km × 27km の区域)の数の変動と系統学的多様度の減少とを関連づけ、系統学的多様度を保持するための保全施策のあり方を論じている。簡単にいえば、系統樹に基づく保全生物学の実地への適用を試みたのが本研究である。

本論文の解説記事 (5) にも書かれているように、生物多様性の評価の基準は単一ではない。定量的に推定された系統樹を生物相保全に役立てようとする研究方向は、1990年代初頭からはっきり見えていた (1, 2, 6)。とくに、1980年代に確立した分岐学(cladistics)に基づく系統推定の方法論(最節約法)は、形態・分子のデータから系統樹を推定する方法の普及を広めた。生物多様性の尺度づくりに系統樹を利用しようという研究は、それ以降しだいに増えていった。

生物相のもつ多様性は、地域環境のもとでの進化的ならびに生物地理的な歴史を背負って成立している。したがって、生物多様性の様態ならびにそれに影響を与えるさまざまなリスク要因を分析するためには、生物相を構成する多くの分類群に関する進化系統学的背景を明らかにし、さらに地域環境のもとでの複数の分類群間の共進化や地理的分布に関する進化的分析が必要である。最近では、従来からの形態データに加えて、遺伝子レベルの分子データを用いた進化系統学的分析が可能になっており、それらのインベントリ・データとして体系化されつつある。生物多様性の進化系統学的分析はそのような大量のデータを有効に利用する上で有効である。

旧来の種数ベースの生物多様度に代わる尺度として提唱されたのが系統学的多様度である。しかし、系統学的多様度それ自体に関して、いまなお理論的・概念的な論争が続いている (3)。系統学的多様性の尺度は、系統樹の樹形を考慮しつつ生物多様性の重みづけをしている。提唱者である Daniel P. Faith の定義では (1)、ある生物群の系統学的多様度とは、その生物群を系統樹上で結ぶ枝の長さの総和として求められる。このとき、枝の長さをどのようにして推定するのかという現実的問題がある(分子系統樹と形態系統樹では「枝」の意味は異なっているだろう)。また、この系統学的多様度と保全施策とをどのように結びつけるのかという点についても今後の研究の蓄積が求められるだろう。さらに、系統学的多様度それ自体のもつ数学的性質についても詳しい検討が必要になるだろう。このような現状を考えると、系統学的な生物多様性研究には理論的・実践的な研究の課題がまだ多く残されていると言えるだろう。

1990年代に入ってから現在にいたるまで続いている「系統学革命」 (6) は、分子系統学の急速な浸透とともに、これまで“系統分類学”と呼ばれてきた分野の壁を大きく越え、生物学のさまざまな研究領域における系統樹ユーザーの掘り起こしとそれに伴う新たな研究テーマへの系統樹の利用を推進してきた。保全生物学もその例外ではない。保全対象となる生物群あるいは地域の生物多様性を調べるためには、単に「種数」をカウントするだけではもう力不足だろう。すべての生物は進化的に結びついているという基本認識のもとでは、守るべきものはむしろ進化的なポテンシャルをもつ系統樹だろう。

生物保全において守るべきは、実体のない「種」ではなく、クレード(単系統群)である ―― 系統学的多様性の背後には、生物学全体が基礎研究から応用研究にいたるまで大きく「系統学シフト」しつつあるという潮流がある。

参考文献:

1) D. P. Faith 1992a. Conservation evaluation and phylogenetic diversity. Biological Conservation, 61: 1-10;

2) D. P. Faith 1992b. Systematics and conservation: On predicting the feature diversity of subsets of taxa. Cladistics, 8: 361-373;

3) D. P. Faith 2006. The role of the phylogenetic diversity measure, PD, in bio-informatics: Getting the definition right. Evolutionary Bioinformatics Online, 2: 301-307;

4) 三中信宏 2006. 系統樹思考の世界, 講談社, 現代新書1849, 294pp.

5) A. O. Mooers 2007. The diversity of biodiversity. Nature 445: 717-718;

6) R. I. Vane-Wright et al. 1991. What to protect? - Systematics and the agony of choice. Biological Conservation, 55: 235-254.

(生態系計測研究領域 三中 信宏

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