近年、生態系にかかわるリスクの評価と管理の重要性が強調されるようになってきた。1992年の地球サミットでは生物多様性条約が提案されており、生態系のかく乱、改変など生態系への危機として重大な局面を迎え、「生物多様性の保全」についての世界的な合意が形成されてきている。
しかし、わが国における生態リスクに対する知見の集積は十分とはいえず、現状では、生態リスクをどのように捉え、そしてどのような根拠に基づいてリスクを管理すべきかを論議することはきわめて難しい。横浜国立大学では、生態系保護の観点から、文部科学省21世紀COE「生物・生態環境リスク管理」に取り組んできた。本書はその成果をもとに出版されたもので、「生態系とは何か」の基本からはじまり、多くのリスク管理の事例を紹介している。
第1章の最初で「人間は、地球上の生態系とその恵み(生態系サービス)に完全に依存している。生態系を守ることが人間自身を守ることである」と述べ、生態系保全に向けた基本的な考え方を示している。そして、2002年に決定された「 新・生物多様性国家戦略 」を解説し、わが国の伝統的な里地・里山、水田生態系などの自然環境とのかかわり方や、わが国独自の環境政策をこれまで以上に発展させることが重要であると述べている。
環境リスクは「環境の状況がある条件下で望ましくない被害を生じる可能性」と定義され、環境リスクの中でも、野生生物の絶滅を防ぐための「生態リスクマネジメント」が緊急の課題としている。このようなリスクについて、リスクの程度を不確実性も考慮しながら評価、管理する方法の開発が科学者が担う責務である。なお、リスク評価、管理において、「予防原則」に基づく予防的評価・管理の導入についても十分に議論する必要がある。
さらに、リスクマネジメントの基本的手順をもとに、外来生物リスク、野生動物リスク、化学物質の生態リスクなどのあり方を紹介している。科学者には、このようなリスクの管理において、リスクを総合的に判断するための情報提供、異なる問題認識に対する科学的説明、論点の整理等、大きな役割があり、科学者に寄せられる期待、責任は非常に大きいといえる。
しかし、リスクを評価・管理すべき対象は、対象物を取り巻く環境要因、リスク管理の必要性、科学的知見の集積状況などが著しく異なっている。生態系は本来、複雑なシステムであり、リスクとしての捉え方も容易ではない。本書は、その難しさに立ち向かうべく、何を「生態系リスク」と捉えるかを決めたうえでリスク評価を試みている。
全体を通して、生態系のリスク研究の重要性や取り組み方、また、リスク管理において利害関係者の存在を認識することの重要性、合意形成に向けた研究者の役割が大きいことが理解できる。研究分野として今後一層の進展が必要であり、本書は「生態リスク研究」に取り組むための多くの情報を提供している。
目次
第1章 なぜ生態系を守るのか
1.1 生態系とは何か
1.2 人間が生態系から得ているもの
1.3 人間は生態系をどのように改変してきたか
1.4 「生物多様性」という考えかた
1.5 日本の取組み:新・生物多様性国家戦略
引用・参考文献
第2章 環境リスクの予防的管理
2.1 環境リスクと生態環境リスクマネジメントの必要性
2.2 生態環境リスクの予防管理の背景と方法
2.3 予防的管理の必然性
引用・参考文献
第3章 従来の生態系保全の考え方とリスクマネジメントの必要性
3.1 魚を半分にまで減らす漁業は、ほんとうに良いのか?
3.2 従来の管理手法と不確実性を考慮した順応的管理との比較
3.3 ひと通りの未来は描けない(ニホンジカ保護管理計画)
3.4 1年だけの調査ではわからない(環境影響評価法)
3.5 数式の説明
引用・参考文献
第4章 リスクマネジメントの基本手順
4.1 全体像
4.2 利害関係者と科学委員会の組織
4.3 リスクマネジメントの必要性を確かめる
4.4 実行可能なリスクマネジメント計画を立てる
4.5 リスクマネジメントを合意し、実行する
4.6 科学者の役割
引用・参考文献
第5章 レッドデータブックと環境影響評価
5.1 世界と日本のレッドデータブック基準
5.2 ミナミマグロは絶滅するか
5.3 環境影響評価の手続きと保全措置の考え方
5.4 愛知万博と中池見LNG 備蓄基地の環境影響評価例
引用・参考文献
第6章 自然公園の保護と利用
6.1 「自然公園」とは何か
6.2 困難な課題である「保護と利用」の調和
6.3 「エコツーリズム」による保護と利用の調和可能性と課題
第7章 自然再生事業とリスクマネジメント
7.1 自然は復元出来るか(自然再生事業の考え方)
7.2 生態系的取組みの推進
7.3 生態系を支える土壌の構成と形成
7.4 土壌汚染と自然再生
7.5 流域単位で再生を図る
引用・参考文献
第8章 化学物質の生態リスク評価
8.1 生態系保全と化学物質管理
8.2 生態リスク評価のエンドポイントの階層性
8.3 生態リスクの評価手法
8.4 東京湾のカワウに対するダイオキシン類汚染のリスク評価事例
引用・参考文献
第9章 外来生物リスクの評価と管理
9.1 外来生物が侵入すると何が起きるのか
9.2 外来生物の定義
9.3 環境汚染問題との違い
9.4 現状と将来
9.5 リスク評価
9.6 根絶と被害軽減対策
9.7 社会的なリスク管理
9.8 リスクの評価と管理のための情報の蓄積
9.9 これから必要な研究
引用・参考文献
第10章 野生動物リスクの評価・管理事例
10.1 野生動物の保護と獣害
10.2 増えすぎたシカ:個体数調整による管理
10.3 猿害リスクの評価:景観レベルの管理
引用・参考文献
第11章 水産資源管理の理論と事例
11.1 水産資源と日本
11.2 水産資源管理論の歴史
11.3 水産資源管理と制度
11.4 リスク論の水産資源管理への応用例:資源保護区の順応的設置
11.5 リスク論の海域生態系管理への応用例:知床世界自然遺産
引用・参考文献
第12章 複雑系としてのリスクの評価事例
12.1 複雑系の視点による生態系リスク
12.2 熱帯泥炭湿地帯の荒廃リスク評価事例
12.3 湖沼生態系の富栄養化リスク評価事例
12.4 生態系の安定性とレジームシフトの数学的説明
引用・参考文献
第13章 合意形成と科学者の役割
13.1 合意形成の前提
13.2 リスクコミュニケーション
13.3 科学者の役割
引用・参考文献
第14章 基本用語解説
1 一般的なリスク評価に関する用語
2 生態リスク評価に関する用語
3 生態系リスク管理手法に関する用語
引用・参考文献