3.11の大きな揺れに驚き、停電と断水の中、ロウソクの明かりをたよりに食事をし、不安な夜を過ごしたことを思い出す。この東日本大地震と津波に続く原発事故は、多くの亡くなられた方々と行方不明者、被災者の避難、放射能汚染と健康への懸念、地域と産業への膨大な影響から、未曾有(みぞう)の大災害となった。それから半年を経て、大震災の影響は国内外の社会経済やエネルギー政策、そして国のあり方にまで波及して、国内では危機感が高まっているように思える。大地震、巨大な津波、広域の放射能汚染、いずれも日本を揺るがす大きな脅威となった。
ここに紹介する本書は、東日本大震災のような災害を危機(クライシス、crisis)として捉え、クライシスコミュニケーションのための危機管理マニュアルとして、3名の著者がそれぞれの立場から執筆している。その第1部の 「基本用語」 は、危機とクライシスコミュニケーションの定義から始まる。
危機については、「社会や組織に対する重要な脅威」 をその代表的定義としている。ここでの 「重要な」 という言葉の意味は、組織や社会の活動が何らかの形で阻害されることである。これに対して、小さな脅威はインシデント (incident) となる。この定義に従えば、災害や大きな事故はクライシスとなる。
もう少し、本書の記載されている事例を紹介して、クライシスとインシデントとを分けてみる。たとえば、ひとつの工場での小さな火事が、その会社の企業活動に大きな影響を与えないのであれば、インシデント。同じ火事であっても主要工場の火事で、その工場の操業停止が部品の調達に支障を来すのであれば、それはクライシスとなる。もちろん、インシデントを重要と考えずに、放置してクライシスを引き起こすことにもつながる。
本書の主題は、クライシスコミュニケーションである。定義はさまざまで、その差は、この言葉を使う分野の違いと、危機が何であるか、その定義の違いによるところが大きい。基本的には、「クライシスコミュニケーションとは、危機においてできるだけ迅速に事態を収束し、損なわれた印象を回復することを目標に行われること」とされている。
クライシスコミュニケーションの用語を使うのは、おもに広報、警察、消防、公衆衛生、外交など、災害や事故に対応する分野である。心理学やマス・コミュニケーションの研究分野で、1980年代から使われるようになったリスクコミュニケーションよりも前から、クライシスコミュニケーションの用語は、危機にあたってどのようなコミュニケーションを行うのか、その技術が論議されてきたという。この両者の違いについて、多くの専門家の意見を整理して、いくつかの定義が紹介されている。その違いを平易に区分したものとして、危機が起こる事前のコミュニケーションをリスクコミュニケーションとし、危機以降がクライシスコミュニケーションとする考え方がある。ただし、クライシスコミュニケーションを危機発生以降のコミュニケーションと考える立場に立っていても、事前のコミュニケーションが重要であると考えることに変わりはない。
第2部は、「クライシスコミュニケーションの実際」 である。クライシスコミュニケーションも、一般的なコミュニケーションのひとつであるが、一般とは異なる特質を挙げると、「危機の兆候をできるだけ早く察知するための事前の情報収集が、他のコミュニケーションにも増して重要視されている」ところである。クライシスコミュニケーション戦略を立てるには、事前の情報収集と分析が必要となる。ここでは、情報のスキャンとモニターの2つがその基本となる。スキャンとは、レーダーにたとえられるが、数多くの情報源にあたって広範に情報を収集しておくことで、一方のモニターは、スキャンした情報の中から危機につながると判断される情報を選択し、注視しておくことである。
モニターの問題事例として、日本における中国産の食品にまつわる一連の問題が挙げられている。2007年春から中国産のペットフードがアメリカで事故を起こしていたことや、おもちゃや歯磨きなどにも同様に違反物質が入っていたにもかかわらず、日本では2008年1月のギョウザ問題の発覚まで、他国の問題と考えられていた。この情報の連鎖を慎重にモニターして、国内でも類似の問題が起こる可能性を検討するべきであったと、著者は指摘している。
以上は、本マニュアルに書かれているクライシスコミュニケーションの入り口となるもっとも基本的な事項を紹介したにすぎない。この第2部には、コミュニケーション技術や危機発生後のクライシスコミュニケーションの注意点など、コミュニケーション技法が具体的に記述され、第3部のマス・メディア対応、第4部のクライシス・マネジメントへと続く。
本書が危機管理のクライシスコミュニケーションマニュアルとして書かれた本であるために、読者は、国内外で起こった、これまでの多くの具体的事例を、理論的な裏付けと実践に関連づけながら、その対応策や問題点を理解することができる。また、本書の組み立てが、左のページに各項目の要点を整理した上で、本文に関連する図表も提示してあるために、読者はスライドを眺めながら講演を聴く感覚で、本書を通読できることも理解を助けている。
いずれにしても、今回の大地震から巨大津波、原発事故に続く、一連の東日本大震災の事前、最中、そして事後のさまざまな場面で、クライシスコミュニケーションがどう進められたかの検証は、今後の長い情報収集と調査・分析を待たねばならない。しかし、多くのことは、まだ現在形である。
目次
まえがき
第1部 基本用語
1.クライシス(危機)とは
2.クライシスコミュニケーションとは
第2部 クライシスコミュニケーションの実際
1.基本的考え方
2.コミュニケーション技術
3.危機管理者が注意すべき「思い込み」
4.訓練
5.危機発生後のクライシスコミュニケーションの注意点
第3部 マス・メディア対応
1.健康危機管理における報道対応について:ジャーナリストの立場から
2.第一波を振り返って:「次」に備えるために
第4部 クライシス・マネジメント
1.群衆行動
2.理性モデルと非理性モデル
3.理性モデル、非理性モデル対立の原因
4.絶体絶命の極限事態でも人間は理性的に振る舞うのか
5.提言
6.感染症や災害発生時のマスコミのスケープゴート現象