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農業と環境 No.144 (2012年4月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

食品中の放射性物質の新基準値 − 松永和紀氏の講演を聞いて

東京電力福島第一原発の事故直後に、食品中の放射性物質暫定規制値が発表された。農産物の出荷と流通の過程で、暫定規制値による放射線量の検査が始まって1年。今月(4月)からは、暫定規制値に替わる新たな基準値が施行される。穀類、野菜、肉・魚類など主要食品では、1キログラム当たり放射性セシウム500ベクレルの暫定規制値から、100ベクレルの新基準値に下げられる。このほか、摂取量が多く代替品のない飲料水は1キログラム当たり10ベクレル、乳児用食品と牛乳は50ベクレルが新基準値となる。

この新基準値案について、厚生労働省の薬事・食品衛生審査会での審議とパブリックコメントが実施されていた今年2月、松永和紀氏による講演会 「放射能汚染報道の課題と消費者に求められること」 が、つくばで開催された。茨城県生活協同組合連合会と茨城県農業協同組合中央会が主催し、時宜を得た話題の講演会には、多くの会員と市民・消費者が参加した。ここでは、新基準値の施行において考慮すべき課題についての松永氏の講演を紹介する。

健康に対する放射線のリスクについて、100ミリシーベルト程度を下回る被ばく線量では、影響を見いだすことはできない。これはリスクがないという意味ではなく、喫煙や飲酒、肥満、野菜不足や高塩分の食生活など他のがん要因と放射線によるがんリスクを区別することはできない。逆に言えば、低線量の放射線のリスクは、他のがん要因に比べて大きくはないということだ。

放射線の被ばくには、外部被ばくと内部被ばくとがある。食品安全委員会は、内部被ばくとなる食品中の放射性セシウムについては、原発事故後のしばらくの間(復旧期)、年間5ミリシーベルトの線量を安全側に立ったものとした。厚生労働省がこの5ミリシーベルトを各食品に割り当て、その摂取量なども踏まえて暫定規制値を定めたのが、原発事故直後の2011年3月17日。それから1年を経て、多くの食品検査のベクレル数値が下がっていることを前提に、前に述べた新基準値が4月から施行される。暫定規制値が適用された復旧期の期間は、約1年間で終了することとなった。

これまでの暫定規制値は、「事故直後としては厳しい基準」 となっていた。規制の結果、もっとも被害が大きい福島県民でも、食品による内部被ばく量は非常に少ないことが、コープふくしまや京都大学研究チームが実施した、いわゆる 「陰膳(かげぜん)調査」 などで明らかになっている。ベクレル値を下げた新基準値はさらに厳しく、その施行によって消費者は大きな安心が得られることになる。

しかし、「厳しすぎる基準」 によって新たに生じる課題が指摘されている。「他者へ配慮」 したトレードオフの考えだ。その事例として、コープふくしまの理事が2012年1月の文科省・放射線審議会で意見陳述した内容が紹介された。「新基準値は厳しすぎる。農産物の作付けなどが大きく制限され、福島の農業は壊滅的な打撃を受ける。豊かな農業県、福島に生き生活するものとして、容認できません」 との発言だ。

トレードオフの課題はまだある。放射性物質の検査体制にも厳しい条件が課せられる。検査に膨大な時間とコストを要すること、全品検査・全量検査・ベクレル表示は無理だということだ。そもそも、放射性物質の検査は、現状を大まかに把握し、対策を講じるためのもので、一つのすり抜けも許さない 「防波堤」 ではないことをよく理解すべきだと指摘する。

マスメディアがもつ宿命や責任、科学の読み書きそろばん力、適正な情報収集、「顕微鏡の眼」と「俯瞰(ふかん)の眼」など、消費者が心がけることや考える視点を最後に紹介して、2時間にわたる講演は終了した。

この講演を聞いて強く思ったことは、これまでの暫定規制値と新基準値の数字だけを比べて、「今までの数値はやはり危なかったのだ」 という不安や混乱を招かないよう、数字の意味をしっかり考えること、そして何よりもリスクと新基準値に対する適切な理解が大事ということだ。

講演者の松永和紀氏は、農業、食品、環境の分野で活躍中の科学ライターである。その活動は広範で、多くの著作や雑誌連載とともに、政府や各県の各種委員会の委員を引き受け、食情報のウェブサイト 「FOOCOM.NET ( http://www.foocom.net/ )」 の代表・編集長でもある。このサイトでは、本講演と関連した食品中放射性物質の新基準値についての話題で、昨秋からコラムが連載されており、新基準値についての審査の過程や考え方など、読者の理解を深めるシリーズとなっている。サイトへのアクセスをお勧めしたい。

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