前の記事 | 目次 | 研究所 | 次の記事
農業と環境 No.181 (2015年5月1日)
国立研究開発法人農業環境技術研究所

論文紹介: 穂波に見る大気の乱流

鈴木清太郎, 農業物理学 (第5版), 養賢堂, 1948, 267p. (初版は1942年)
井上栄一, 穂波の研究(1) 穂波の機構と特性, 農業気象11:1, 18-22, 1955.

“微気象学は日本人による穂波(HONAMI)の発見によって躍進した。” 私がカリフォルニア大学 Davis 校で受講した微気象学の1回目の講義で、担当の Ian Faloona 博士がおっしゃった言葉である。まだ海外の生活にいろいろと不安であった時期に、勇気づけられる言葉だった。穂波の研究は私たちの研究所の前身である農業技術研究所の井上栄一博士によって大きく発展したが、井上博士の研究から半世紀以上が過ぎ、研究分野がごく近い方々を除いては所内でも知る人が少なくなったときく。そこで、本稿では井上博士の穂波の研究と、その礎となった鈴木清太郎博士の研究を紹介する。

大気と生態系間の物質、運動量、エネルギーの輸送は、おもに空気の渦、いわゆる乱流によっておこなわれる。乱流は一見、ランダムであり予測不可能のように見える。そのため、大気−生態系間の物質輸送を測定するのに幅広く用いられる渦相関法では、乱流一つ一つが物質を輸送していく様を観察するのではなく、一定時間、風速および対象とする物理量(たとえば二酸化炭素濃度)を測定して、その統計量を通じて乱流による物質輸送を観察する。一方、乱流はある決まった構造を持つとも考えられており、秩序構造を持つ乱流のことを Coherent eddy(コヒーレント渦)と呼ぶ。コヒーレント渦は物質輸送にとりわけ大きな寄与があると考えられており、その構造を理解することは、二酸化炭素や水蒸気だけではなく、農薬、花粉、汚染物質などさまざまな物質の群落内外の輸送現象を理解することにつながる。

九州帝国大学(現九州大学)の鈴木清太郎博士 (1886−1977) は、作物の風害を研究される中で、風によって起こされる作物群落のウネリ(“風の息”)は楕円(だえん)形で、およそ 0.8 秒の周期を持ち、ウネリの振動は水面の波の伝播(でんぱ)とは性質が異なることを見いだした(鈴木, 1948)。ウネリが水面の波と異質である理由として、風がやむと作物振動の伝播は止まり、瞬時ごとにおけるウネリの前線の向きが一様ではないことを示した(図1)。おそらく、この鈴木博士の研究が群落上で秩序構造を持つ乱流を可視的に表した世界で初めての研究だろう。


図1 稲の波(1937年9月)
a, b, c, d がそれぞれ穂波の前線を示している。 鈴木清太郎・農業物理学(第5版)(1948)から養賢堂より承諾を得て転載。

農業技術研究所気象科(当時)の井上栄一博士(1917−1993)は、この作物群落のウネリを HONAMI(穂波)と名付け、日本における農業気象学の知名度を世界的に高めた。井上博士は、穂波が群落上を吹き抜ける様と、一本一本の穂が揺れる様から、乱子(博士の造語であるが乱流のことだろう)を形態的に解明できるとした。井上博士のアイディアは次の一文に集約される。“穂波の動く状態はラグランジュ的方法で1つの乱子の動きを表しているものであり、作物の振動はオイラー的方法で多くの乱子の動きを表していると考えられる (Inoue, 1955a)。 さらに、井上博士は穂波の周期が一本一本の作物の振動周期と一致するときに群落表面における風の抵抗が最少となるため穂波が卓越することを、実験的かつ数式を用いて説明した。また、井上博士が観測をおこなった水田において穂波が卓越する風速が約 3 m s-1であり、その条件下で穂波の周期はおよそ 0.8 秒となることを示し、鈴木博士の観察を検証した。

井上博士は“穂波の研究”と題した一連の研究(井上, 1960, 1958, 1957, 1955a, 1955b)で、穂波と穂波が起こる際の個々の穂の揺れの時空間的解析**をおこない、それらで得た知見をもとに、さまざまな応用研究を提案した。たとえば、農薬を散布するには穂波が卓越する風速よりもやや低い風速のときが適していること、作物群落内の二酸化炭素の濃度勾配から光合成量を推定できること、倒伏(とうふく)を防ぐ工学的方法などである。

鈴木清太郎博士、井上栄一博士の研究から半世紀以上が経過した。その間、植物群落における乱流構造に対する理解は徐々に深まった。井上博士は、穂波は群落の高さに呼応した長さのスケールを持ち、主風向に長細いコッペパンのようだ(井上, 1962)と描写しているが、これは近年の群落内におけるコヒーレント渦の理解とおおよそ一致する(たとえば Raupach et al., 1996)。また、通常は物理量の勾配(こうばい)の逆向きに輸送が起こる(たとえば、温度が高い方から低い方に向かって熱の輸送が起こる)のに対し、群落内ではコヒーレント渦の存在によって、物理量の勾配の向きに輸送が起こる場合もあることがわかり、乱流構造の研究が植物群落の輸送現象をより正確に描写するモデルの発展に大きく貢献した(たとえば Wilson and Shaw, 1977)。

以上、穂波(HONAMI)を通じて大気の乱流を観察することで微気象学の発展に大きな貢献をされた2名の日本人の研究を紹介した。鈴木博士と井上博士の研究成果は根気強い自然観察に根差したものであり、私自身が科学における自然観察の重要性を再認識するきっかけとなった。また井上博士の提案された応用研究は、1950年代当時、たいへん斬新(ざんしん)なアイディアであっただけではなく、現在においてなお検証し発展させる余地を残しており、今後の研究につながるヒントを含むのではないかと思う。

*  ラグランジュ的方法とは追跡的に、またオイラー的方法とは定点観測により、流体の運動を記述する方法である。たとえば風船が飛ぶ位置を追跡して風速を求めるのはラグランジュ的である。一方、気象タワーの風速計により風速を測定するのはオイラー的手法である。

** 時空間解析の手法として微気象学などでよく用いられるのがスケール解析である。スケール解析では、ある物理量に対して、その物理量が効果を持つだろうと考えられるスケールにおいて他の既知の物理量からおおよその値(オーダースケールの精度)を推定する方法である。たとえば井上栄一博士は、乱流が測定高のスケールを持つことから穂波の通過周期は 群落面の高さ/風速 のスケールで表せるとした。

引用文献

Raupach, M., Finnigan, J.J., Brunei, Y., 1996. Coherent eddies and turbulence in vegetation canopies: the mixing-layer analogy. Bound.-Layer Meteorol. 78, 351-382.

Wilson, N.R., Shaw, R.H., 1977. A higher order closure model for canopy flow. J. Appl. Meteorol. 16, 1197-1205. doi:10.1175/1520-0450(1977)016<1197:AHOCMF>2.0.CO;2

井上栄一, 1962. 穂波の研究. 農業気象 18, 128-129. doi:10.2480/agrmet.18.128

井上栄一, 1960. 穂波の研究 (6)穂波現象の人工的制御について. 農業気象 16, 83-84. doi:10.2480/agrmet.16.83

井上栄一, 1958. 穗波の研究 (5)穂波上のエネルギー収支. 農業気象 14, 6-8. doi:10.2480/agrmet.14.6

井上栄一, 1957. 穗波の研究 (4)穂波上の乱流輸送現象. 農業気象 12, 138-144. doi:10.2480/agrmet.12.138

井上栄一, 1956. 穗波の研究 (3)穂波上の乱流拡散現象. 農業気象 11, 147?151. doi:10.2480/agrmet.11.147

井上栄一, 1955b. 穗波の研究 (2)穂波スペクトルと穂ゆれスペクトル. 農業気象 11, 87-90. doi:10.2480/agrmet.11.87

井上栄一, 1955a. 穗波の研究 (1)穂波の機構と特性. 農業気象 11, 18-22. doi:10.2480/agrmet.11.18

鈴木清太郎, 1948. 農業物理学 第5版. 養賢堂.

伊川浩樹 (大気環境研究領域)

前の記事 ページの先頭へ 次の記事

2000年5月からの訪問者数